夜明けの烏

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 塵や灰で周りがよく見えなくなってきた。建物の損壊も商店街とは比べ物にならない。大災害の発生源が近いのかもしれない。  うっと思わずえずいた。風にのって漂う嗅いだことのない悪臭が、強く嗅覚を刺激する。これが、死臭っていうものなのだろうか。吐き戻したときとまた違う不快な臭い。目を開けると大量のゴミが入るので、もう薄目でしか状況を確認できない。それでも、地面に落ちている人の形に似た何かがちらほらと視界に入った。救助の声も、聞こえない。この場所はもう、諦められてしまったのだろうか。  すぐ近くの瓦礫の上に腰を下ろした。変わらない日常を過ごすより、変わり果てた風景を眺めている方が、なんだか落ち着く。  視界の端で何か動いた気がした。気を緩めていた分、背筋が伸びる。顔を右に向けると、煙と埃で霞んでいるが、15メートル先に黒い影がもぞもぞと蠢いている。生き残り、なのか。目を凝らして見ると、人影の下にも人が倒れている。助けようとしているのだろうか。  ……いや、違う。  黒い影が首を上げると同時に、口に咥えた臓物が血飛沫とともに湧き上がり、空中で踊り狂う。  これが、卑獣(ひじゅう)——?。  全身の黒い毛を炎のようになびかせながら、異様に長い4本足で死体を押さえつけ、人肉を貪り食う生き物。初めて卑獣という言葉を聞いた日からずっと、架空の化け物だと思っていた。孤児院の人たちも、クラスメイトも、誰も本物を見たことがなかったから。  一心不乱に捕食していた卑獣が、突然頭を上げ鼻をひくつかせ始めた。私の体は、金縛りにあっているかのように自分の意思ではもう動かせない。卑獣の首が、こちらを向く。目を逸らすことができない。膠着状態はそう長くはもたなかった。私を新鮮な獲物と認識した卑獣は、損壊した死体を軽々飛び越え、「死」を意識した時にはもう、両腕に鋭い痛みが走り、真っ赤に染まった牙が目の前に——  生臭い真っ赤な雨が顔面に降り注いだ。  何が起きたのか、一瞬理解できなかった。  牙を剥き出しにした卑獣の首に、別の黒い化け物が噛み付いている。 「ア……ア……」  深くまで牙が食い込んでいるらしく、私を襲った卑獣はやっと絞り出したような声を上げることしかできない。  ゴキ。  鈍い音とともに、卑獣の首がダラリと垂れ下がった。私の体から卑獣が引き剥がされるも、私はたった今死んだ卑獣の遺体を目で追うのが精一杯だった。卑獣を殺したのも卑獣、かと最初は思った。落ち着きを少し取り戻した今、改めて見ると、軍服のような厚い服を着ており、かなり大きいが背格好も人間と変わらない。ただ、狼のような大きな耳と全身の黒い体毛、大きく鋭く尖った牙は肉食獣を彷彿とさせる。漂ってくる体臭も腐った肉に似た酷いもので、やはり獣としか形容しようがない。  紫色の鋭い眼光が、こちらを向いた。  さっきと同じ、一気に背筋が凍る。獣は立ち上がった。2メートル近くある巨体に見下ろされ、ますます蛇に睨まれた蛙だ。獣が右手を振り上げ、反射的にギュッと目を瞑る。 「シェルターはあっちです」  ……喋った?  恐怖のあまり幻聴かと疑った。勢いよく獣を見上げると、獣の右手人差し指が私の背後を真っ直ぐに指していた。  疑いが晴れないまま、獣はその場から立ち去ろうと背を向け、歩き始めた。 「待って!」  私は自分の行動を疑った。何で、化け物に話しかけているんだ、と。でも、獣は声に反応してこちらを睨んでいるし、後には引けない。 「あなたは、卑獣……なの……?」  黒い毛で覆われているものだから表情はよく読み取れなかったが、目を細め、怪訝な顔をしているように見えた。 「卑獣……よく知りませんが、あなた方からするとそうなんじゃないですか」  YESともNOとも取れる曖昧な返答を残し、「もういいですか」と言って獣は再び歩き出した。  卑獣の爪が食い込んだ両腕の傷跡が今になって痛み始めた。命が、助かってしまった。この場所で何をしようとしていたのか、いや、そもそも何もするつもりはなかった。だけど、初めて目にした「人間の言葉を話す獣」のことが、どうしても頭から離れない。いよいよ獣の姿が煙に隠れ、見えなくなってきた。気づけば、消え入りそうな影に向かって、私は駆け出していた。
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