信幸とイナ

1/1
前へ
/310ページ
次へ

信幸とイナ

何事も 移ればかわる世の中を 夢なりけりと 思いざりけり—— 「——これはどういった気持ちが込められた辞世の句なのです?」 「戦ばかりの時世に生を受け、それから、戦のない世が何十年と続く時世を見守ってきた。 移り変わる世の中を振り返ると夢のようにも思えるけれど、これは夢ではないのだと—— 夢だなどとは思えないと詠んだものだよ」 信幸が筆を置くと、後ろからイナが抱きつき、両腕を回してきた。 「信幸様」 「ふふっ……なに?」 耳元で囁かれ、信幸が思わず身体を捩らせてから言うと、イナは目を細めた。 「ようやくまた、一緒になれましたね」 「うん……」 信幸は、後ろから回された手に自分の指を絡めた。 「何十年も待たせてしまってすまなかったね」 「私こそ、信幸様に寂しい思いをさせてしまいました。 ——でも、信幸様がその後も私を思い続けてくださっていたこと、嬉しかったです」 「変わるわけがないよ」 信幸は首だけ振り返り、イナの顔を見た。 愛らしい表情のイナが、嬉しそうに微笑んでいる。 「でも、ここへ来てしまったということは 君と遠くに出掛けることも、君と美味しいものを食べることも、綺麗なものを与えてあげることも、もう出来ないってことだ。 君に尽くしてあげられなかったこと——それだけが悔やまれるよ」 「そんなこと、気に病まれなくていいのに……。 私は信幸様と居られるだけで幸せなのですから」 「それじゃ君のために何かをしてあげられたことにはならないよ」 「私を沢山愛してくださったではありませんか!」 イナは信幸をぐるりと振り返らせると、強く抱き締めた。 「私は信幸様を愛することができて、幸せな人生を歩めました。 だから信幸様にも、幸せだったと思って欲しい。 それに——これからは、もうずっと一緒です。 離れ離れになることも、別れが訪れることも恐れなくていい」 「……そうか。そうだね」 信幸もイナを抱き締め返すと、ゆっくりと瞼を閉じた。 世がどれだけ移り変わろうとも、 俺の気持ちが変わることは無かった。 きっとこれから先も、俺はイナを愛し続けていくだろう。 「俺も幸せな人生だったよ。 今までも、これからも——」 完
/310ページ

最初のコメントを投稿しよう!

154人が本棚に入れています
本棚に追加