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信幸とイナ
何事も 移ればかわる世の中を 夢なりけりと 思いざりけり——
「——これはどういった気持ちが込められた辞世の句なのです?」
「戦ばかりの時世に生を受け、それから、戦のない世が何十年と続く時世を見守ってきた。
移り変わる世の中を振り返ると夢のようにも思えるけれど、これは夢ではないのだと——
夢だなどとは思えないと詠んだものだよ」
信幸が筆を置くと、後ろからイナが抱きつき、両腕を回してきた。
「信幸様」
「ふふっ……なに?」
耳元で囁かれ、信幸が思わず身体を捩らせてから言うと、イナは目を細めた。
「ようやくまた、一緒になれましたね」
「うん……」
信幸は、後ろから回された手に自分の指を絡めた。
「何十年も待たせてしまってすまなかったね」
「私こそ、信幸様に寂しい思いをさせてしまいました。
——でも、信幸様がその後も私を思い続けてくださっていたこと、嬉しかったです」
「変わるわけがないよ」
信幸は首だけ振り返り、イナの顔を見た。
愛らしい表情のイナが、嬉しそうに微笑んでいる。
「でも、ここへ来てしまったということは
君と遠くに出掛けることも、君と美味しいものを食べることも、綺麗なものを与えてあげることも、もう出来ないってことだ。
君に尽くしてあげられなかったこと——それだけが悔やまれるよ」
「そんなこと、気に病まれなくていいのに……。
私は信幸様と居られるだけで幸せなのですから」
「それじゃ君のために何かをしてあげられたことにはならないよ」
「私を沢山愛してくださったではありませんか!」
イナは信幸をぐるりと振り返らせると、強く抱き締めた。
「私は信幸様を愛することができて、幸せな人生を歩めました。
だから信幸様にも、幸せだったと思って欲しい。
それに——これからは、もうずっと一緒です。
離れ離れになることも、別れが訪れることも恐れなくていい」
「……そうか。そうだね」
信幸もイナを抱き締め返すと、ゆっくりと瞼を閉じた。
世がどれだけ移り変わろうとも、
俺の気持ちが変わることは無かった。
きっとこれから先も、俺はイナを愛し続けていくだろう。
「俺も幸せな人生だったよ。
今までも、これからも——」
完
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