第一次上田合戦

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——イナが真田家で働いて三ヶ月の時が流れた。 屋敷の人々とも徐々に打ち解け、 顔を合わせれば嫌味を言ってきていた幸村も 次第にイナを丁重に扱うようになり、 イナの毎日は順調に進み始めていた。 家事にも慣れ、幸村以外の屋敷の者にも読み書きを教えたりと 自分が役に立てているという自信を持てるようになっていたイナは、 実家にいた頃のように萎縮することもなくなり、嘘のように明るい少女になっていた。 ああ、心地良い。 ずっとこのお屋敷に居たい。 このまま真田家の人間になりたい—— イナはそんな夢を見たが、それが叶わぬ夢であることも理解していた。 信幸は相変わらずイナに親切にしてくれたが、 彼の優しさは屋敷の全方位に向いていた。 自分が特別な扱いを受けている、と感じたことは一度もない。 だが、それでも信幸に褒められれば舞い上がって喜び、 信幸と話せた日には嬉しさでその晩寝付けないこともあった。 イナは信幸への恋心を自覚すると同時に、 その想いが実ることがないともわきまえていた。 彼はいずれ、真田家にとって必要な家の娘と結ばれることとなるだろう。 それはもう決まっている未来で、どうすることもできない。 唯一の救いは、信幸がいずれ結婚することとなる相手は あくまで家が決める相手であり、信幸が愛して一緒になる人間ではないことだ。 もしも信幸が、自分以外の誰かを深く愛し、 その相手と添い遂げることになれば 自分は嫉妬の念を抑え切れるだろうか、とも考えた。 だから信幸が嫡男であり、本人の意思とは関係のない相手と結婚するであろうことだけが イナにとって嫉妬を踏みとどまらせる救いとなっていた。 いつかは必ず訪れる未来。 でも、いつまでもその未来が来てほしくない。 一日でも長く信幸様のお近くに居たい。 まだ誰のものにもなっていないからこそ 側で仕えることができているのだから—— イナはそんな思いを募らせながら、 真田家に来て四ヶ月目を迎えた。 ある日—— 「信幸、幸村、久しぶり!元気にしてた?」 屋敷の玄関から、溌剌とした声が響く。 誰だろう? 聞いたことのない声—— イナは不思議に思いながら、客人を出迎えようと玄関へ向かった。 するとそこには、初めて見る女の姿があった。 イナが戸惑っていると、彼女の存在に気が付いた女の方から声を掛けてきた。 「んー?初めて見る顔だね。あなた誰?」 「っ!あ、あの、私は……この家でお世話になってて……」 「そっか!じゃあ、丁度いいや! ——ねえ、信幸を呼んできてくれない?」 「え?」 「あ。それか幸村でもいいよ!」 「え……と」 「早く、早くっ!」 女が笑みを浮かべ、急かすように肩をトントンと叩いてきたため イナは信幸を呼びに行こうと慌てて反対を向いた。 すると、ちょうど視線の先には信幸の姿があった。 「あっ、信幸様。お客様が——」 イナはそう言って信幸に話しかけようとしたが、 信幸はイナを見てはいなかった。 その視線の先はただ一点、玄関に立つ女の方へ向けられていた。
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