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——清音が嫁ぎ先から戻り、真田家で暮らし始めてからというもの、イナの生活は一変した。
イナが信幸を見掛けるたび、その隣には清音の姿もあった。
元々は清音の両親も含め、この屋敷で大所帯で暮らしていた頃もあるそうで
真田家の古参の家臣たちは清音のことを知っており、そして親しかった。
清音は溌剌とした明るさを持っており、
家臣にも分け隔てなく親しく接するため
彼らも清音のことを慕っていた。
——彼女は真田家にとって、太陽のような女性だった。
イナは、初めこそ信幸との距離が近いことにやきもきしていたが、
彼女はあくまで『従姉』であり、許婚ではないことを自身に言い聞かせた。
信幸にはいずれ他所から嫁いでくる女性があてがわれる訳で、
その時は清音も自分と同じ『妻以外の女性』『その他の女性』という立場になるのだと考えると
彼女に対して敵対心を抱くのは思い違いであり、
そもそも仕え先の身内である女性に対して無礼な行為であると恥じるようになった。
……でも。
明るくて、話も面白くて、屋敷の人達みんなから好かれている人なのに
どうして嫁ぎ先から戻って来たのだろう……
イナはふいに疑問に思うことがあったが、
元の夫や姑の人格が破綻しており、清音はそれに耐えかねて戻って来たのかもしれない——きっとそうだろう、と考えた。
ある日、イナが庭の木の手入れをしていると、
青葉ばかりだった枝にいつのまにか蕾が付いていることに気が付いた。
知らなかった。この木、花が咲くんだ。
早く花弁が開かないかな。
どんな形で、どんな香りがして、どんな色の花なのかを知りたい。
イナが可愛らしい蕾を愛でていると、
偶然庭先を通りかかった清音が声を掛けて来た。
「そこにいるのは……えーと、イネ!」
「あ……」
イナは、ぴくりと肩を震わせた。
どうしよう。
訂正した方がいいかな……。
私の名前はイネじゃなくて、イナだって……。
「あれ?聞こえてなかったかな。
ねえー、イネ!」
清音が再び明るい声で呼びかけて来たため、
イナはそれに応えるように振り向きつつ、おずおずと口を開いた。
「……イナ……です」
「へっ?」
「私の、名前……イナって言います……」
イナが勇気を振り絞って言うと、
清音はぽかんと口を開けた後、やがてハッとしたように謝って来た。
「ごめん!イナって言うのね!
あたしってば呼び間違えちゃって、恥ずかしい」
「いえ、いいんです」
イナはそう言うと、清音に謝らせてしまったことに罪悪感を覚え、続けて自虐を交えた。
「……どちらにしても、『稲』の字を元にした名前なので
イネでも意味としては変わらないですから……」
「え?稲って、米の『稲』なの?」
「はい」
イナが頷くと、清音はカラカラと笑い出した。
「あはは……!
女の子なのに、米の名前だなんて面白いね!
どうせならもっと、花の名前とか可憐な名付けをしてもらえたら良かったのにねぇ。
『稲』じゃ、なんだか質実剛健な男って印象よね」
「父が……、私に質実剛健な男のように育って欲しいと願いを込めて名付けてくれたんです。
米は力の源となる食材であり、蓄えることができることから
私も同じように沢山の力を蓄えた、強い大人になって欲しい、と。
稲穂が実ることは豊かさの象徴でもあることから、
民にとって幸福の印でもある、縁起の良い名前だとも——」
イナが名前の由来を説明すると、
清音はきょとんと目を瞬かせた後、くすりと笑った。
「……ふうん。
イナは可憐な女の子なんだから
稲穂よりも花の名前の方が似合うよねえ」
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