第一次上田合戦

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信幸は、近くに置いてあった手付かずの器を二つ手に取ると、 器に酒瓶を傾けていった。 信幸様が、私のためにお酒を注いでくださっている……! イナは、今にも泣き出しそうだった自分の存在に気付き 声を掛けにきてくれた信幸の優しさに胸が締め付けられた。 だが、器に酒が注がれていく様子を見て不安もよぎった。 イナは、躊躇いがちに信幸に告げた。 「信幸様、ありがとうございます……。 ですが、あの——申し訳ありません。 私はまだお酒というものを嗜んだことがなく……」 「え?」 「ですから——もし私が下戸だったら、 信幸様にご迷惑をかけてしまうかもしれない、と……」 イナは、自分の前に置かれた器へ 既に酒を注いでくれていた信幸の面目を潰してしまうことに強い罪悪感を抱きつつも、 それ以上に、万が一酔っ払ってしまうことを恐れた。 一刻も早くここを去りたい、しかし身体が動かず絶体絶命だったイナを救ってくれた信幸に なんという無礼を働いているのだろう、と いたたまれない気持ちで一杯だったが、 信幸は気分を害した様子は見せず、にっこりと微笑んだ。 「そうか。すまない、イナにお酒を勧めるのは未だ早かったね。 ——なら、代わりに菓子でもどうかな?」 そう言うと、信幸は少し遠くにある饅頭に手を伸ばし、イナに差し出した。 「ありがとう……ございます」 イナは深く頭を下げ、恐る恐る饅頭を口にした。 ふんわりとした甘さが口の中で溶け、一緒に緊張も解けていくのを感じたイナは 思わず頬をほころばせた。 「……美味しいです」 イナがそう言った直後、幸村の甲高い笑い声が響き渡った。 「ぎゃっはっは! 酒が飲めなくて甘いモン食ってるとか、子どもかよ!」 そう言う幸村は、片手に酒瓶、反対の手には乾き物のつまみを持っており 顔は真っ赤に染まり抜いていた。 「幸村。お前も子どもだろう」 信幸は静かな声で嗜めたが、酔っていつもより気が大きくなっていた幸村は 兄を恐れることなく続けて言った。 「俺は元服したからもう大人だ! そこの女中は酒の味も知らない子どもだけどな! あーあ、せっかくの酒の席なんだから 兄上ももっと騒ぎたいだろうに……。 子どものお守りもしなきゃいけないばっかりに、可哀想だなぁ!」 「こらー!幸村っ!」 すると、信幸が口を開く前に 遠くからずんずんとした足音が近付いて来、 足音の主——清音は幸村の耳を引っ掴んだ。 「いってぇ!?何すんだよ、清音!」 耳を引っ張られた幸村が叫ぶと、清音はこほんと咳払いした後、説教をするようにこう告げた。 「幸村は女心をもっと勉強しなさい! いくらあんたがイナのことを好きだからって、 あんまり意地悪したら嫌われちゃうよー!?」 しん……と、周囲が静まり返る。 さっきまで、めいめいに騒ぎ乱れていた家臣達が 清音の言葉に注目したために、突然の静寂が広間を包んだ。 すると一斉に、周囲の視線が幸村とイナに降り注がれる。 何も言えず固まっている幸村と、 清音の発した言葉の意味が理解できずに同じく固まるイナ。 え……? 幸村が……私を、好き……? ——そんな馬鹿な。 清音様は、どうしたらそんな勘違いができるのだろう……? イナは、清音の言葉が信じられず 事態を整理しようと頭を働かせていたが、 対する幸村は完全に放心した様子で顔面を蒼白させていた。 賑やかだった雰囲気が、一変して静寂に包まれ 誰がこの空気を元に戻すのかという戸惑いが皆に広がる中—— ここでも切り出したのは信幸だった。 「そうか。幸村がイナに酷いことを言うのは、 本当はイナが好きだったからなんだね。 ——イナも幸村と話している時が一番生き生きしているように見えるし……。 うん、お似合いかもしれないね」
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