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「いいや」
信幸は短く、そう返した。
「……?では、いつお気付きに?」
「最近だよ」
「……どうしてわかったのですか」
「……」
信幸は、その問いには答えなかった。
イナは、なぜ信幸が理由を話してくれないのか理解できなかった。
だが、いずれにしても、素性が知られた以上
真田では暮らしていけないことをイナも重々分かっていた。
それが突然、その日が来てしまったために
心の準備ができていなかっただけで
いずれはこんな日が来るのだろうとは考えていた。
しかし信幸から、真田を去るよう宣告されたことで
イナの心にずしりと重い石がのしかかった。
信幸様と、同じ屋根の下で暮らせて幸せだった。
幸村に嫌なことを言われたり、
清音様がいらしてからはやきもきすることもあったけれど、
それでも信幸様のお姿を見られるだけで
実家で暮らしていた頃よりもずっと、
日々が彩られているのを感じてた——
夢が醒めるのはあっという間だ。
イナは、これが現実だと受け入れきれないながらも
昨晩の信幸の言葉を思い出していた。
俺に妹がいたら、こんな感じかな——
——明らかに、信幸が自分に気がないことは分かっていた。
それを信幸の口からもはっきりと明示されて、
もはやこれ以上自分を説得する必要もないほど
信幸を諦めるには充分過ぎる条件が揃っていた。
一緒に暮らすことはできない。
まして恋仲になることは叶わない。
ああ、それでも信幸様を忘れることはきっとできない。
「信幸様……!」
イナは、駕籠の中から信幸へ告げた。
「私は……信幸様と、真田の皆さんと、とても楽しい日々を送らせて頂きました。
それなのに信幸様を騙し続けていたこと、本当にごめんなさい。
……信幸様には沢山感謝しています。
私を戦場で見つけてくださったこと——
……私を守ると仰ってくださったこと。
本当に嬉しかったです……」
イナは暖簾越しに、信幸へ頭を下げた。
「今まで本当にありがとうございました……」
——すると、暫くして信幸が口を開いた。
「ごめんね」
……どうして?
イナは、信幸からの返事に混乱した。
今までの感謝を伝えたことに対して
「どういたしまして」と返ってくるなら分かる。
どうして信幸様が謝るの?
謝るようなことをしたのは私なのに。
信幸様は、私に一体何を謝ることがあるというのだろう。
——それから信幸は口を聞かなくなり、
イナが載せられている駕籠の進む足音と
信幸が乗っている馬の音だけが暫く続いた。
それから少しすると、信幸は再び口を開いた。
「——イナ。
間も無く信州の外に出るから、俺はここで引き返す」
「!……どうしてですか」
「もし、三河の土地を跨いでしまえば
下手をすると俺は殺されるかもしれない」
誰に——とは言わなかったが、
数ヶ月前に真田と戦った徳川勢、ひいては自分の父が
信幸を殺してしまうかもしれないということをイナは悟った。
「……そんなことは決してさせません。
信幸様は、私の命の恩人です」
イナは声を震わせたが、信幸はこう返した。
「イナ。俺はね、真田家の嫡男だ。
極力、自分の命を危険に晒すことはしたくないんだよ。
俺の命は自分一人のものじゃないから」
「え——」
「俺は真田家をこれからも存続させるために、生きなきゃいけない。
生きて家臣をまとめ上げなければならないし、
いずれは子を作って、次の世に託さなければならない」
子——
その言葉に、イナの息が詰まる。
「……そう、ですね……」
やっとのことでイナが返すと、
「だから分かって欲しい」
と信幸は言った。
「ここで俺は別れるけれど、君のことは駕籠かきたちが必ずお父上の元まで送り届ける。
——大丈夫。
俺が格別の信頼を置く者達だから。
君は安心して、三河への旅を続けて欲しい」
そう言って信幸が来た道を引き返そうとした時、
イナはたまらず暖簾を上にあげた。
「待って……!
待ってください、信幸様——」
イナが叫ぶと、信幸は馬を止め、くるりと振り返った。
どこか寂しげな表情を浮かべながらも、
いずれ真田家の後を継ぐ決意を固めている信幸の瞳は
真っ直ぐに芯の通ったものに見えた。
「……いつかまた、お会いすることはできるでしょうか?」
イナの問い掛けに、信幸は迷う様子を見せた。
少し考えた後、
「それは——難しいかもしれない」
と告げた。
「……そう、ですか……」
イナはしゅんと首を垂れたが、再び顔を上げて信幸を見た。
「——でも、私は信じます。
いつか胸を張って、また信幸様にお会いできることを……」
「——うん」
信幸は短く返すと、今度こそ馬を操り
元来た道を引き返して行った。
あっという間に駆け抜けた日々だった。
あっけなく過ぎ去って行った信幸の後ろ姿が見えなくなった後も、
イナはずっと彼の残像を見続けていた——
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