3年後

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縁談を受けたくない、と思うイナだったが、 かといって死ぬ勇気はなかった。 それに、死んでしまえば二度と信幸に会うことは叶わない。 縁談を断ることも、死ぬこともできなかったイナは 最後の手段として、出家することを選んだ。 返事を急く忠勝の前で、唐突に鋏を取り出すと 長く美しかった自身の髪をばさりと切り落としてみせた。 驚愕する忠勝に対し、出家することを告げると 本多家にゆかりのある山寺の門を叩き、 半ば強引に尼となってしまったのである。 ——山籠りを始めて、そこから二年が過ぎた。 毎日のようにイナに会いに来た忠勝を門前払いし、 『家康様に頼んでもっと条件の良い縁談をもらってきた』 『どうか俗世に帰って来て欲しい』と告げる忠勝に 『お断りします』の一言のみを返した。 忠勝がイナを戦場に連れて行ったその日までは、 彼女が忠勝に口答えをすることは一度もなかった。 どんなに厳しい稽古をつけられ、 寝る間を惜しんでの勉学を強いられても、 反抗することなくそれに従った。 思うような成果を出せず、何度も涙することはあったが、 イナは忠勝の教えに従い、忠勝が指し示す通りに行動して来た。 それが、真田家での数ヶ月を経て戻って来てからは 「それは嫌だ」「これは好きではない」とはっきり口にするようになり、 縁談もすべて断って、忠勝の面目を潰すことを厭わなくなった。 それでも、イナが変わってしまったのは自分の落ち度であると悔やんでいた忠勝は イナの拒絶を力で捩じ伏せるようなことはしなかった。 「——なあ、イナよ。 教えてくれ……」 出家して二年の月日が流れ、仕事の合間を縫って山寺に登って来た忠勝は 門を隔てた先に立っているイナに対して呼びかけた。 「お前は何が不満だったのだ? 上田から戻って以降、すっかり元気を無くした挙句に出家してしまうとは。 お主には何でも与えただろう?」 するとイナは、小さく口を開いた。 「何でも、とは…… 綺麗な衣装や化粧品、習い事、高級な南蛮菓子……それから縁談のことですか」 忠勝が「そうだ」と返すと、イナは悲しそうに眉根を寄せた。 「——どれも、私が欲しいものではありません。 私が望まないものを与えられたって、私は何も嬉しくない。 何も嬉しいことのない俗世に戻るくらいなら、 仏に仕え、穏やかに暮らせる方がよっぽど幸せです」 すると忠勝は、門に手を置き、イナに必死で呼びかけた。 「だから、この愚かな父に教えて欲しいのだ! お前が何を望んでいるのかを! ……俗世にも一つくらい、お前の欲するものがあるだろう? それとも——本当に、そのような寂しいところで一生を終えるつもりなのか……?」 するとイナは、暫くの沈黙の後 震える声で言った。 「ひとつだけ……、望みがあります」 「!——何だ、何でも言ってみなさい」 「……言っても、決して叶わない望みです」 「言ってみなければ分からぬではないか!」 忠勝が食い下がると、イナは何度か深呼吸をし、やや頬を赤らめて言った。 「……想い人がいます……」
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