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「信幸様——」
そこまで聞いて、イナはたまらず信幸を見た。
信幸は、反対側に座っている家臣と談笑していたが、
イナに話しかけられたため会話を止めて彼女の方に向き直った。
「うん?どうしたの、イナ」
「今、向こうにいる方々の会話が聞こえて……。
——私が、『後から嫁いできた正室』だという噂話が……」
イナは、きょとんとする信幸に対し、意を決して尋ねた。
「あの——つまり……、
信幸様は、既に私以外の御方を妻として娶っている……ということですか?」
勇気を振り絞って訊いたイナに対して、
信幸はいともあっさりとした態度でこう返した。
「そうだよ。
君のことは正室として——二人目の妻として、真田に迎え入れた」
「……聞いてない、です……!」
イナは震える声で言った。
「私以外にも妻がおられるなんて話は聞いてないです……ッ」
突然、イナの声が大きくなったため
その場にいた者達は何事かとイナを見た。
だが、イナは自分に向けられている視線を気にすることなく
尚も信幸に対して言った。
「どうして——、
どうして、私に会いに来てくださった時に仰ってくださらなかったのですか?
……祝言を挙げた日でも良かった。
三河を発つ時でも——!
どうして信幸様は今日この時まで、一言もそれを告げてはくださらなかったのですか!?」
すると信幸は、興奮しているイナに対し、落ち着いた様子で答えた。
「ごめんね。
結婚する前に話しておかなければならないことだという認識が無かったから、
伝えるのをすっかり忘れていたんだ」
「……忘れて、いた……?」
「確かに、これから君と関わることも多くあるだろうから
もう少し早くに紹介しておけば良かったね」
その、あまりに淡々とした口調に
イナは面食らってしまった。
私以外に、すでに妻がいる——
どうしてそのような重大なことを
信幸様は私に伝えなくても良いことだと判断したのだろうか。
隠そうとしていた訳でもない。
ただ、忘れていただけ。
けれど——
「信幸様にとって結婚というものは、
軽い気持ちでできるものなのですか……?」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
「え……?」
信幸が何かを返そうとした時、それより早く
「そんな訳ないだろう!」
という、幸村の怒号が飛んで来た。
「結婚は家と家同士を結びつける重要な役割を担っているんだぞ。
本人だけでなく、一族の繁栄や存続にも影響する、人生で幾度とない重い選択じゃないか!
ましてこれから真田家を背負っていく兄上が、
軽い気持ちで結婚を決めるはずがないだろう!?」
「幸村」
声を荒げてイナに説く幸村に対し、信幸が宥めた。
「どうして幸村が怒っているんだ。
さてはまた、飲み過ぎているんだろう」
「今のは兄上が怒るべきところです!
軽い気持ちで結婚を決めたのか、などと無礼なことを言われたんですよ!?」
幸村が言うと、信幸は穏やかな顔でこう返した。
「——俺が怒る?どうして?
俺がきちんと話しておかなかったために、イナは心証を悪くしてしまったんだよ。
だから悪いのは俺で、俺がイナに怒るような場面じゃないだろう?」
信幸はイナに向き直ると、
「ごめんね」
と再び謝った。
——違う。
私は信幸様を謝らせたかったんじゃない。
ただ理由を知りたかっただけだ。
既に別の人との家庭を持っている信幸様が、
何を思って後から私とも結婚したのか。
『真田家のため』
もちろん、それが一番の理由だろう。
だけど……
それだけ——?
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