第一次上田合戦

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イナが顔を真っ赤にして震えているのを見た信幸は、少し戸惑うような笑みを浮かべた。 「……別に、俺のために何かをしようとは考えなくていいんだよ? 君は真田家のために、充分よくやってくれている」 「でも……、私は信幸様のお役に立ちたいのです……! 信幸様のために……頑張りたいんです……」 食い下がるイナに、信幸は困ったように眉を下げた。 「……俺の役に立ちたい、か……」 「何でもいいんです。 何か困っていることはありませんか? 私……家事は苦手ですが、力はあると思います。 薪割りとか、重い物を運ぶだとか、男手が必要な作業も手伝えます!」 「いやいや、男手が必要な仕事を君に頼む訳にはいかないよ」 「構いません! 私は父上の方針で、男子と同じように育てられてきたので——」 イナが言うと、信幸はちらりとイナを見た。 「……君のお父上の方針に、俺がどうこう言える立場ではないけれども——」 信幸は少し言葉を選んだあと、こう告げた。 「でも、俺は君に、男子と同じ扱いはできない」 「……っ」 イナはそれを聞き、自分では信幸の役に立てることがないのだと理解した。 信幸から頼りにされていないことは分かっていたが、 戦場に一人取り残され、死を待つのみだった自分を助けてくれた信幸に 何も返せない自分が歯痒くて仕方なかった。 イナは再び涙目になると、信幸を困らせてしまったことを詫びた。 「信幸様を煩わせてしまい申し訳ありません。 そもそも、何か困っていることはないか、何か役に立てることはないかというのは 本人に聞くことではありませんよね……」 「謝ることはないよ。 そんなに気に病まないで」 「ですが……、本来ならば自分で気付かなければならないことでした。 彼を知り己を知れば百戦して殆うからず—— それを心掛けてきたはずなのに」 「……えっ?」 その時、信幸の動きがぴたりと止まった。 「今——何と言った?」 「え……と、『彼を知り己を知れば百戦して殆うからず』と」 「どうして君がその言葉を……?」 「?……ええと……。 相手のことをよく観察して、そして自分自身のこともよく理解していたならば どんな場面においても上手くことを運ぶことができる、と…… いつも自分に言い聞かせているんです。 それなのに私は、信幸様が何を望んでいるか分からず、自分が何をしてあげられるかも分からなくて 情けない限りだな、と思ったので……」 イナが沈んだ表情で言うと、信幸は首を横に振った。 「そうじゃなくて……、 君は『孫子の兵法』をどこで知ったの?と聞いているんだよ」 信幸がそう言ったことで、イナはようやく理解した。 彼を知り己を知れば百戦して殆うからず—— 古くから、多くの武士が学ぶ兵法書の中で出てくる言葉である。 父・忠勝が口癖のように言う言葉でもあり、 鍛錬の一環として兵法書も読み込んでいたイナは、その言葉が頭に叩き込まれていた。 父や周囲の顔色を伺い、彼らが今どんな気分で、何を望んでいるかを推測した上で 今自分ができることを最大限に発揮すれば、物事が良い方向に転がっていくのだ。 そうして実家での息の詰まるような毎日を乗り切って来たイナは その言葉を座右の銘として常日頃から使っていたため、 それが唯の農家の娘からはまず出てこない言葉であることにようやく気付き、 しまった!と顔を青ざめた。
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