第一次上田合戦

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「……ええと……、実は……」 イナは、不思議そうに首を傾げる信幸を前に どうにか最もらしい言い訳をしてみせなければ、と考えた。 そして咄嗟に取った行動は、再び嘘を重ねることだった。 「……私の村に、良くしてくれるお侍様がいらして……。 その方は私のような女、子ども相手に 親切にも読み書きを教えてくれたのです。 そして、読み書きの練習にと手持ちの書物を貸してくれたのですが、 それが孫子——私は良くは知らないのですが、 昔生きていた、日の本ではないどこかの偉い人が書き残したという戦術書で……。 さっきの言葉は、その書物で目にしたものです……」 ——苦しい言い訳ではないかと首をすくめたイナだったが、 その話を聞いた信幸は、ぱっと顔を輝かせた。 「——凄い!凄いよ、イナ。 君は文字の読み書きができるんだね」 「えっ……?あ——はい……」 「これは本当に凄いことだよ。 真田でも、文字の手習いを受けたことがある者は多くないし 幸村なんて手習いの途中で放り投げた始末だよ。 それなのに、君はその歳で、あんなに難しい書物を読めるなんて! きっとそのお侍殿の教え方が上手だったのだろうし、 何より君の地頭がとても良いのだろうね」 信幸に手放しで褒められたイナは、嬉しさと恥ずかしさで耳を赤らめた。 嬉しい。嬉しい……! 読み書きができることも、兵法書を読むことも 父上から見たら『出来て当たり前』のことだったから、 褒められたことは一度もなかった。 けれど今、私はそれを褒めてもらえている。 何よりも——信幸様が褒めてくれている! こんなに嬉しかったことはない。 ……もしかして、私が信幸様のお役に立てることは、こういうことなのかもしれない……? 「……信幸様」 「ん?」 「その——文字の読み書きで、何か信幸様のお手伝いができないでしょうか」 思い切ってイナが言うと、信幸は「うーん」と腕を組んだ。 「……あっ」 暫くして、信幸は閃いたように顔を上げた。 「なら、幸村に読み書きを教えてあげてくれないか?」 「ゆ、幸村……殿に?」 イナが目を丸めると、信幸はうんうんと頷きながら言った。 「うん、それがいい! ——さっきも言ったように、幸村は刀や槍の稽古は好きなんだけども 勉強があまり得意ではなくてね。 武士として強くなるために、兵法書から学ぶべきことは多くあると思うのだけど 幸村はそれ以前に書物を読むことができないから 兵法の勉強には後ろ向きなんだ。 ……だから君が、幸村が『孫子の兵法』を読めるように指導してくれないだろうか」 ……幸村に、私が読み書きを教える……? イナは仕え先の息子、それも『あの』幸村に 自分が勉強を教えることに自信が持てなかった。 だが、先程までは困ったような、どこか引いた表情を浮かべていた信幸が 今は自分を頼ってくれている様がありありと見て取れたため、 自信がないなどと言って断る選択肢はイナの中には無かった。 自信がなくたって、やる。 たとえ幸村に嫌な顔をされて、散々な文句をつけられたとしても、 それで信幸様のお役に立てるなら構わない。 「——分かりました! 私が幸村……殿に読み書きを教えることが信幸様のお役に立てることなら……! 精一杯頑張ります!」
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