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動揺なんか見せて不審者扱いされては堪らない。頭の中は疲労と困惑でパニック状態だが、とにかく必死に平静を装う。ギィィと重たい鋼鉄のゲートが動く音。一瞬で彼らの全身に緊張が走った。
背の高い方の豺が視線だけで退けと告げてくる。視線を合わせたまま後退り、フェンスに張り付くように身を寄せた。何が起きてるんだ。
音もなく豺たちの描く半円の真ん中に降り立ったのは、とても小さなシルエットだった。
───子供か?
ふわりと舞ったローブの明らかな低さに首を傾げる。でも子供が何故こんな時間に大学に?しかも人目を避けるような通用門から。訳が分からない。
子供が警護対象なのは間違いないようで、豺たちが一斉に動き出し、さっき俺が来た道を辿っていく。だとしたら行先は研究棟か?疑問は次々と湧いてくるが答えてくれる人間はどこにもいない。豺とは別に子供に寄り添うように歩幅を合わせて、ひょろりとした薄っぺらいシルエットが歩いていく。チラリと垣間見た限りでは帯刀はしていなかったし、マスクのない面差しは柔らかく線が細かった。
……子供の顔はまるで見えなかった。目深に被ったフードのせいだけではない、顔を丸ごと覆う真っ黒な革の仮面をつけていたからだ。見えているのは潤んだような瞳だけ。口に当たる部分には銀のジッパーがついていて、鋼鉄の歯列のように見える。伏せられた瞼から覗く睫毛の長さだけが記憶に残った。
異形との一瞬の邂逅。
彼は誰時に出逢ったその一団が俺の運命を変えるだなんて、この時は気づくわけもなかった。
あっという間に豺のご一行様は去っていき、呆然と見送るうちにスっと音もなく影が一体、隣りに立った。
「IDを見せていただけますか?」
あ、私こういうものです。とチラっと提示されたのは予想通り、顔写真入りの色相管理局のIDだった。名前は当然書かれていない。色相管理局所属及び管轄下の人間は、長ったらしいアルファベットと数字の羅列で識別されることになっている。
鞄の中をまさぐってIDを提示すると、やけに口唇がテラテラと紅く光った黒縁メガネの男は軽く眉を上げ、値踏みするように俺を頭のてっぺんからつま先までサーチする。視線がレーダーのように突き刺さり、頬の辺りがチリチリした。
「優秀なんですね、S2さん」
「……どうも」
隠密行動に従事する人間とは思えない気さくな口調に戸惑いつつ、話の流れを注意深く探る。
「わざわざ言わなくても理解していただけると思いますけど。まぁ、これもお仕事なんで一応決め台詞的に言わせてください、"ここで見たことは他言無用でお願いします"」
「はぁ」
「表舞台で注目を浴びるにはシャイ過ぎるんですよ、私たちって」
聞いてもいないことをペラペラと話しているようで肝心なところは煙に巻く、いかにも役人らしい語り口だ。
「あ、あなたもしかしてKM寮だったりします?」
イニシャルと呼ばれる色転組が住める場所は限られており、俺の住むKM寮と大学を挟んで反対側、丁度等距離にあるSB寮とに概ね分散されている。質問の意図が分からないなりに頷くと、ニタアっと意味ありげな笑みを浮かべて彼はパチリとウインクを送る。綺麗に引かれた黒いラインが瞼にそって綺麗に閉じて開くのをじっと見ていた。
「じゃあ、また」
ひらひらと手を振って去っていく後ろ姿を呆然と見送る。紅く彩られた爪が花びらのように舞う。何だ、あれ。あんなイカれ……もとい、個性的で癖の強い人間にお役所仕事なんて務まるんだろうか。要らぬ心配をしながら、その背中が見えなくなるまでずっとその場に立ち尽くしていた。
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