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「コンバンハ」
明らかに母国語ではないイントネーションが胸の辺りから聞こえてきた。視線を下げれば約三十センチ下方から発されたと思われる声。見上げられているのはマスクの角度で分かった。顔全面を覆う異様なマスクもプライバシー保護のためだと分かれば恐怖は無い。むしろ詳細なんぞ知らないで済むならその方がお互いのためだ。
知ってしまえば情がわく。たとえひと月の付き合いでも、言葉を交わして気持ちが通えば捨て猫よりも感情移入してしまいそうで自らセーブをかけた。雉も鳴かずば撃たれまい。君子危うきに近寄らず。三十六計逃げるに如かず。あと何かあったっけ。
「はい、こんばんは。つうか、おはよう。よく眠れたかい」
「眠レマ、シタ」
性能の悪い翻訳機と話してるみたいな妙なリズムで進む会話。隣りにTMはいない。後ろにはひっそりとNIが影のように立っている。腰に差していた長物はなく、脇差を奇妙なベルトのような紐で佩いていた。食堂の前で鉢合わせて他愛もない会話をしつつ中に入る。何となくいつものテーブルに目をやると、KとTMそしてNBがなごやかに夕飯を食べていた。まるでお花畑のピクニックだ。
チラっと横目に彼らの様子を見つつ、プレートを取りに行く。後ろに生ぬるい気配を感じてため息を押し殺しつつ振り向いた。
「アンタ、ここのやり方分かんの?」
ショーケースの向こう側に並んだ料理を指さしつつ尋ねれば首を傾げる。これ、俺がやんの?と多少ウンザリしつつも、周囲には他に誰もいないから仕方がない。プレートをもうひとつ取って、ほいっと手渡す。
「ここに、好きな食べ物、もらうの。おばちゃんたちに、何が食べたいか、言って」
「失礼な!お姉さんってお言いよ!」
「……お姉さんたちが、食べるもの、くれるから」
分かった?と聞けばコクコクと髪が上下に揺れた。
「お姉さま、俺はね、紅鮭定食ね。納豆と卵と海苔もつけて」
「あいよ!紅鮭定一丁!」
小気味いい返事の後にテキパキと用意される皿をプレートの上に順番に配置していく。箸を取ってサッサとテーブルに向かった。一旦プレートをKの隣りに置いてからドリンクコーナーでパックの野菜ジュースを取り、席に戻る。
「おはよ、アニキ」
「うす」
まだ半分以上残ってる牛丼に箸を進めながらKが声をかける。それにつられたのか、正面に座るTMとNBも挨拶をしてきた。
「アンタ方、坊ちゃんについてなくていいの?」
「交代で済ませないと色々回らないんですよ、この人数だと」
特に警護はね、とTMはニコニコと答える。確かに幾ら安全な寮内とはいえ何があるか分からないと警戒する気持ちは理解出来る。俺たちの関係はまだ昨日の今日、信用ならないのはお互い様だ。もう食べ終わったらしいNBが礼儀正しく、ごちそうさまでした、と手を合わせて食器を下げに行くのを見送りつつ自分も手を合わせた。
もぐもぐと食べていると、NBがいた席に新たにプレートが置かれた。見ればY2が俺のものと全く同じラインナップの朝食を乗せていた。純和風の焼鮭定食、食えるのだろうか。チラリと目をやれば、くり抜かれたマスクの穴から見える瞳とぶつかった気がした。
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