彩づく影

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あと数十分で迎えが来る予定だった。 身の回りの物だけ、といっても殆ど政府の支給品が提供されるのだから本当に思い出の品だけを持って彩影エリアへと移行する予定だ。 スーツケースの中には母親が作り直したアルバム、使い慣れた生活品、わずかな衣服、お気に入りの本や家族からの手紙、そういった細々した物だけが詰め込まれている。たった十数年では惜しむ程の思い出もないのかと思うと、乾いた笑いしか出てこなかった。 俺の居なくなった家はどうなるんだろう。やがて周囲も俺の不在に気づいて、まことしやかな噂が流れるだろう。『色転』は名誉なことだ、家族は誇らしげに俺が彩影になったことを語って聞かせ、孝行息子を持ったことだと褒め称えられるだろう。たとえそんな未来は望んでいなかったにしても。 思い出の詰まった部屋の扉を閉める。リビングには家族が勢揃いしている。泣かないようにと歯を食い縛ってソファに座り、引き攣った笑顔を浮かべる母親と妹。父親はダイニングテーブルで、無言のまま俯いてお茶を啜っている。弟はその斜向かいで、何もないテーブルをじっと見つめている。 これから先、もう会うこともないだろうと思うと、込み上げるものがあった。喧嘩はしたけど何だかんだ可愛い弟妹、寡黙ではあったが人格者の父、家族の中心で明るく世話焼きな母、もう会えないなんて。 「そろそろ行くよ」 声を発するだけでビクリと皆の肩が震えた。部屋の空気が変わる。 元気でな、と立ち上がってしっかりと抱き締めてくれた父の背が自分よりも低くなっていることに気づいてハッとなる。一体いつ以来だろう、父親に抱き締められるのなんて。涙が自然と込み上げてきた。 身体に気を付けるのよ、とぎゅうぎゅうと抱きついてくる母と妹。抱き締め返すと声を挙げて泣く二人、随分似てきたな。いつか妹も家庭を持って、母親のようになるのだろうか。 後ろからもうひとつ、あたたかな温もり。肩の辺りにゴツンと当たったのは額だろうか。兄ちゃん、ともう久しく呼ばれていない懐かしい声がした。兄ちゃん、兄ちゃん、とそれしか言葉を知らない子供のように何度も何度も繰り返す声も記憶より随分低くなっていた。俺の後ろをローブに蹴躓きながら追いかけてきた小さな頃を思い出した。 こんなに家族のことを愛していたなんて、俺自身ですら知らなかった。 愛していた。愛している。どうか元気で幸せであってくれと心から祈った。俺はもうここには居られないけど、あなたたちの幸せをどこにいても願っているから。愛してる。ありがとう。俺を俺にしてくれてありがとう。 途中から声にならない想いを涙にのせて、しっかりと抱き締め合う。離れても俺の家族はここに居る。愛する家族が存在する。それはきっとこれからも俺の支えになるだろう。 ピンポンと控えめなインターホンの音がした。朝の光に紛れてエリアを移動するため、太陽はもうほぼ南中に近い角度で上がっている。目を射る眩しさ。ローブを纏ってスーツケースを握り、玄関口に立って振り返る。 「お世話になりました。どうか元気で」 万感の思いを込めて深く深く礼をする。 俺がいなくなってもしあわせであるようにと祈りながら、扉を閉めた。
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