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「さあ、言うのよ。私は泥棒猫です、人の婚約者に手を出してごめんなさいって」
「……いや、です……ぜったい、言いません」
「どこまで強情な女なの!」
金切り声で叫んだ紗和子は、朝海の髪を引っ張り、地面に引き倒した。思わず顔をかばった朝海の腕を引きはがし、繰り返し、頬を往復ビンタした。
頭がまだ痛み、体も倒されたときに打って痛むため、ろくに抵抗のために手足を動かせなかった。
だが朝海が抵抗しなかったのは、それだけが理由ではない。
(この人、本当にあの人のことが好きなんだ)
こんなにやつれて、あんな手紙を朝海に送り付けて、どういう手段でだか朝海の居場所を突き止めるほどに、今回の件で思い悩んだ。
それほどに誰かを好きになる気持ちを、朝海はよく知っている。そう思うと、怖さよりも、紗和子への憐憫が上回ってしまった。
叩かれすぎたせいで、頬の感覚はほとんどない。鼻の下と口の周りが生温かいから、鼻血が出ているような気はする。
気づくと、紗和子の般若のような顔は、涙で濡れていた。ああ、この人も本当につらかったんだ、それなら何をされても仕方ないな──そんなふうに思いながら意識を手放そうとした時。
「朝海!」
聞き慣れた、愛しい人の声が朝海を呼んだ。こちらに駆けてくる足音がする。
「何やってるんだ、やめろ」
聡志の厳しい声とともに、紗和子の手が遠ざかる気配がした。ほどなく、別の方向からも走ってくる足音が聞こえる。
「紗和子!」
叫ぶその男性の声を、かつて朝海はよく知っていた。
もう二度と、耳にしたいものではなかったけれど。
「朝海、しっかりしろ。今、救急車呼ぶから」
上半身を抱き起され、鼻から下を乱暴な仕草で拭われる。薄く目を開けると、聡志が怖い顔で、それでいて泣きそうな目をして、朝海を見ていた。
ごめんなさい、と唇を動かしたつもりだった。だが声にはならなかった。
聡志に支えられ見つめられながら、今度こそ朝海は、意識を手放した。
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