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「あの」
「はい?」
「……ええと、その。お名前お聞きしてもいいですか」
「ああ、なるほど──聡志、と呼んでください」
少し考えてそう答えた男性の、いたずらっぽい表情が気にかかった。
「え、……まさか、それって偽名ですか」
おそるおそる尋ねた朝海の声が、思いのほか震えていたのだろう。男性──聡志は、やや焦ったように手を顔の前で振った。
「いやいや、まさか。本名ですよ。けど名字はちょっと言いたくないので」
「どうしてですか」
朝海の問いに、聡志は「うーん」と顎を指でつまんで首を傾げる。
「賭け、かな」
「賭け?」
「そう。もし、今日別れた後でまたお会いできたら、名字も教えますよ」
さっぱりわからない。
東京に住んでいる人とまた偶然会うなんて、何パーセントの確率なのだろう。朝海が住んでいるのも仕事しているのも、大阪だというのに。
変なことを言う人だ、と思った。けれど、その「変なこと」を、今の朝海は面白く感じた。
「じゃあ、会えたら教えてくださいね。絶対」
「もちろんです。ちなみにあなたの名前は?」
「朝海です」
「どんな字の『あさみ』ですか」
「朝昼夜の朝に、海と書きます」
「綺麗な名前ですね」
「──ありがとうございます」
芸能人並みのイケメンに名前をストレートに誉められるのが、こんなに気恥ずかしいとは知らなかった。
「ああ、そうそう。朝海さんが着ていた服は今、クリーニングしてますから。夜にはお返しできるかと」
「えっ、あ、いいです。捨てちゃってください」
間髪入れずに言ってしまった朝海に、聡志は目を見開いた。
「捨てる? なぜ」
「……えっと……」
「差し支えなければ、理由を聞いてもいいですか」
思いのほか真剣な目と声で、聡志が問うてくる。
当たり前だ。ブランド物だとすぐにわかる服を、着古しているわけでもないのに捨てていいと言うからには、それ相応の理由があると思われるに違いない。
──やはり、ちゃんと話さなければいけないだろう。
元はと言えば、そこから始まった今日の事態なのだから。これだけ世話になっていて、何も語らないわけにはいかない。
「……あの服、婚約者に買ってもらった物なんです」
「え。朝海さん、婚約してるんですか」
「いえ、それは……正確じゃないですね。私は婚約者だと思ってましたけど、向こうは違ったんです」
「どういうことですか?」
「両親が会いたがってるから、って言われて私、昨日初めて京都に来たんですけど。今朝、彼の実家に行ってみたら、婚約祝いの集まりに出てほしいって言われました──私じゃない人と、彼はとっくに婚約済みだったんです」
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