第1章

5/16
前へ
/56ページ
次へ
「あの」 「はい?」 「……ええと、その。お名前お聞きしてもいいですか」 「ああ、なるほど──聡志(さとし)、と呼んでください」  少し考えてそう答えた男性の、いたずらっぽい表情が気にかかった。 「え、……まさか、それって偽名ですか」  おそるおそる尋ねた朝海の声が、思いのほか震えていたのだろう。男性──聡志は、やや焦ったように手を顔の前で振った。 「いやいや、まさか。本名ですよ。けど名字はちょっと言いたくないので」 「どうしてですか」  朝海の問いに、聡志は「うーん」と顎を指でつまんで首を傾げる。 「賭け、かな」 「賭け?」 「そう。もし、今日別れた後でまたお会いできたら、名字も教えますよ」  さっぱりわからない。  東京に住んでいる人とまた偶然会うなんて、何パーセントの確率なのだろう。朝海が住んでいるのも仕事しているのも、大阪だというのに。  変なことを言う人だ、と思った。けれど、その「変なこと」を、今の朝海は面白く感じた。 「じゃあ、会えたら教えてくださいね。絶対」 「もちろんです。ちなみにあなたの名前は?」 「朝海です」 「どんな字の『あさみ』ですか」 「朝昼夜の朝に、海と書きます」 「綺麗な名前ですね」 「──ありがとうございます」  芸能人並みのイケメンに名前をストレートに誉められるのが、こんなに気恥ずかしいとは知らなかった。 「ああ、そうそう。朝海さんが着ていた服は今、クリーニングしてますから。夜にはお返しできるかと」 「えっ、あ、いいです。捨てちゃってください」  間髪入れずに言ってしまった朝海に、聡志は目を見開いた。 「捨てる? なぜ」 「……えっと……」 「差し支えなければ、理由を聞いてもいいですか」  思いのほか真剣な目と声で、聡志が問うてくる。  当たり前だ。ブランド物だとすぐにわかる服を、着古しているわけでもないのに捨てていいと言うからには、それ相応の理由があると思われるに違いない。  ──やはり、ちゃんと話さなければいけないだろう。  元はと言えば、そこから始まった今日の事態なのだから。これだけ世話になっていて、何も語らないわけにはいかない。 「……あの服、婚約者に買ってもらった物なんです」 「え。朝海さん、婚約してるんですか」 「いえ、それは……正確じゃないですね。私は婚約者だと思ってましたけど、向こうは違ったんです」 「どういうことですか?」 「両親が会いたがってるから、って言われて私、昨日初めて京都に来たんですけど。今朝、彼の実家に行ってみたら、婚約祝いの集まりに出てほしいって言われました──私じゃない人と、彼はとっくに婚約済みだったんです」
/56ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3987人が本棚に入れています
本棚に追加