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クリスマスイブなのに特にすることも無く、自室で本を読んでいると、家のチャイムが鳴った。母が対応すると、どうやら詩子さんが私を呼んでいるらしい。
詩子さんは、昨年に引っ越してきた、私よりも一回り上のお隣さんだ。年齢こそ離れているものの、話が合うので、かなり親しくさせてもらっていた。友達が幼馴染の柊しかいない私は、詩子さんと過ごす時間に刺激を感じていた。
玄関を出ると、薄墨色のコートに身を包んだ詩子さんがいた。詩子さんの髪の毛から、仄かに甘美な香りが漂ってくる。既にお風呂に入ったのだろうか。鼓動がうるさい。内心の高揚を悟られないように謝った。
「すみません、お待たせしてしまって」
「大丈夫よ。急に夜風に当たりたくなったの。少し、散歩しない?」
「行きます。すぐに着替えてきます」
詩子さんが微笑む。そして、瞬きをすると、綺麗な曲線を描いた睫毛が、アゲハ蝶のように踊った。すらりと伸びた吊り目に魅入られながら、急ぎ足で私服を選びに向かった。
*
「あそこの橋まで行って帰ろうか。冷え込んでるから」
私は無言で頷いた。
詩子さんは私が寂しさを感じている時に、家に来てくれることが多い。多分、偶然なんだろうけど、私はそこに何か必然的な意味を見出してしまうのだった。相談事にも乗ってくれるし、カフェにも連れていってくれる。「急に旅行に行きたくなったので、しばらく帰りません」とメールをして、それきりの柊とは、大違いである。彼は、先週から学校をずる休みし、周りより一週間早い冬休みを決め込んでいる。放任主義の御祖母様と二人暮しであることを活かして、日頃の気晴らしにでも出かけたのかも知れない。
「なんか表情が暗いよ?」
「あっ、ごめんなさい。柊のことで色々考えちゃって」
柊には、以前家に遊びに来てくれた際に、詩子さんを紹介していた。「こんなにイケメンのお友達がいたのね」と冗談を言う詩子さんに、柊は顔を赤く染めていた。
「旅行、って言ってたんでしょ?」
「ええ」
「クリスマスイブなのにまだ帰ってこないなんて、柊くんも随分と自由な人ね」
下を向いて堤防を歩いていると、詩子さんの履くチュールスカートが視界に映った。その中のショートパンツから透けて見える細長い脚は私を引き付けた。生白い肌に扇動されて生じた亢奮を直隠しにするように、口から吐き出された荒い息は夜の闇に霞んで消えた。
「ねえ、写真でも撮ろうよ。ここならガソリンスタンドの明かりが漏れているし」
「いいですね」
詩子さんが近づく。ポーズを取ろうとしたところ、背の低い私の右手が詩子さんの二の腕に当たった。ごくりと唾を飲み込む。詩子さんは気にすることなく、はいチーズ、と言って携帯のシャッターを切った。
それからしばらく歩いて、橋の下に着いた。目の前には、藍を纏い、怪しさを湛えた川が流れている。ここなら、誰も私たちを見つけることは出来ない。
立ち止まった詩子さんは、私の方を振り向いた。
詩子さんはいつも前髪を作ることはせず、真ん中で綺麗に分けている。今日もそうだ。だから、顔がよく見えた。三十路は過ぎていると言っていたが、とてもそうは見えない。格好が若いというのはあるかも知れない。しかし、産まれたてのような、何の穢れも無い瑞々しい肌をしている。これで私より十二歳以上も上というのは、とても信じられなかった。
詩子さんが、私の髪に右手を伸ばした。思わず一瞬目を瞑ってしまう。血管の浮き出た詩子さんの指が、飼い慣らすように私を撫でる。上手く表情を作れないが、辺りに漂う闇が誤魔化してくれるだろう。そう縋るように、詩子さんの左手に私の右手は絡み付いた。
*
翌夜も暇だったので、偶には私からも詩子さんを誘ってみることにした。
駅前には大きなツリーが立てられていて、世間はすっかりクリスマスだ。恋人と見に行くことが出来れば良かったのだが、生憎そんな相手はいない。
しかし、詩子さんも全く同じ状況らしい。辺りが薄らと暗くなり始めた時分、携帯を見ると「クリスマスなのに何もすることがないわ」とメールが来ていた。
返信する形で誘おうと思ったが、何となく直接会って言いたかったので、詩子さんの家を訪ねることにした。大した苦労はかからない。なにせ、隣に建っているのだから。だが実を言うと、メールだと返信が来ない可能性もあるし、半年ぶりくらいになるだろうか──久しぶりに家にお邪魔して、詩子さんの淹れてくれる紅茶を二人で飲みたい衝動に駆られていた。
チャイムを押すと、ほどなくして詩子さんが出てきた。黒のタートルネックに短丈の白ニットを着込んでいた。透けている訳でもないのに、その奥にある詩子さんの臍を想像して、慌てて掻き消す。
「詩子さん、突然すみません。メールでも良かったんですけど……今日、暇だって言ってましたよね」
「うん」
「一緒に、イルミネーションでも見に行きませんか」
変な緊張が身体に走った。追い討ちをかけるように、汗が頬を蔦り、頸を濡らした。断られるかも知れないという不安は、家でメールを読んでいるときは確かに湧いてなかったはずなのに。
「いいわね」
しかし、詩子さんは嫋やかに目を細めて、優しく微笑んだ。紅に彩られたその口元は十八の私にはあまりに妖艶で、見蕩れてしまう。
「どうしたの?」
「えっ、あっ、なんでもないです」
「顔になんかついてる? おかしいなあ、さっき化粧したばかりなのに」
私は気恥ずかしくて俯いてしまった。やはり、私は柊に言われるように、抜けているのかも知れない。相手の唇を見つめ続けるなんてどうかしている。今が冬でよかった。夏だったなら、きっと顔が熱くなって、それこそ前の柊みたいになりかねない。
「本当に何もついていないので、大丈夫です……すみません」
「そう? ならいいんだけど」
「あの、もし良かったら、イルミネーション見に行く前に、また詩子さんと紅茶飲みたいです」
勢いに任せて言った。しかし、詩子さんは困ったような顔をした。
「ごめんね、今は難しいかな。掃除をしていないせいで、本当に部屋が汚くて……お恥ずかしい。また今度、私から誘うわ」
詩子さんが心底申し訳なさそうに言う。「全然大丈夫です」と私も頭を下げた。
イルミネーションは一緒に行けるのだし、それだけでも嬉しいことだ。柊に今日のことを言ったら、さぞ羨ましがるだろう。帰ってきたときの顔が楽しみだ。私は詩子さんの運転する車に乗せてもらい、家を後にした。
*
クリスマスなだけあって、道路は大勢の人で賑わっていた。碧で埋め尽くされた光景を見るためだけに、まるで蟻の大群のように犇めき合っている。
人は、なぜ刹那の愉悦に価値を感じられるのだろう。
「綺麗だね」
私もそれに陶酔している側なのだから、理由なんて分からない。詩子さんがライトアップされたツリーを見上げながら零した。華奢な体躯が青々しく照らされている。誰かの背中を守ってきたその瞳が映すものは、一体どれだけ美しいのか。
「とても、綺麗です」
私もそう言うと、詩子さんは何が可笑しいのか、遠慮がちに笑いだした。
「な、なんですか?」
「だって、私の方見て言うからおかしくておかしくて」
言われて、あっ、と小さく漏らす。「普通あっち見て言うでしょ、ガン見しすぎよ」と、かなり笑われてしまう。
私が面目なくて顔を逸らしていると、詩子さんは目の前のツリーを指して言った。
「あっ、そこいいじゃん。人少ないし。並んで写真撮ろう」
詩子さんと歩いて、ツリーに近づく。装飾された光は私たちよりもずっと上まで届いていた。
碧色を背景に、詩子さんの携帯で写真を撮る。意識して笑顔を作ろうとすると、上手く作れなくて、歪んだ顔になってしまった気がした。詩子さんのような自然な表情は、どうやったら作れるのだろうか。「作る」なんて言葉を使っている時点で、既に不可能なのか。そんなこと、聞くことは出来ない。
撮り終わって、詩子さんは写真フォルダを開いているようだった。
「あっ、この写真かな。どう?」
「バッチリ撮れてますね」
「良かった」
私が気を許して雑談や相談が出来る相手というのは、詩子さんくらいしかいない。肩まで娜に落ちる黒髪を見つめた。詩子さんと時間を紡げるなら、私はどうなってもいいと思った。
たとえ、それが張り裂けるような痛みを伴うものであっても。
*
外はかなり暗くなっていた。指先が凍えるように痛い。
詩子さんは平然と歩いている。その顔に差す翳が、幽かに悍ましく見えた。でもきっと、この薄ら寒さは冬の夜のせいだ。
程なくして駐車場に辿り着いた。詩子さんの車の助手席に乗りこむ。
「これからどこへ行くんですか?」
私は至って普通の抑揚で聞いた。
「どこって、家に決まってるでしょ」
「そうですよね」
「変なことを聞くわね」
詩子さんのスラックスのポケットから、さっき写真を撮った携帯が覗いている。
私は見逃さなかった。一瞬だが、詩子さんの写真フォルダに映った、大量の肌色を──。
その中に、背中にブーツで蹴られたような痣をつけた裸の柊がいた。
まさか──
「急に旅行に行きたくなったので、しばらく帰りません」という柊のメール──
ずる休みの本当の意味。
手を震わせながら「まだ帰ってこないの?」と送ってみた。すると、詩子さんの内ポケットから、ピコンと通知が鳴った。
詩子さんは何も言わない。一筋の雫が、擦るように私の背中を這った。
柊は本当にどこかへ冒険しに行ったのだと思っていた。だが、案外近くにいるのかも知れない。それこそ、誰かの家なんかに……。自分でも驚いたことに、抱いた感情は嫉妬だった。そして、明かり一つない暗い部屋で、詩子さんが柊の携帯を操作して、無慈悲に、無表情で、私宛の文字を打ち込む様が思い浮かんだ。
監禁、という言葉が脳裏を過ぎる。しかし、こんな飽き飽きした生活より、全然いい。これから私は、詩子さんに──。
「詩子さん」
私は声に精一杯の甘さを含ませた。詩子さんが見つめ返してくる。
そして──
「すぐに着くさ」
僅かに口角を上げ、蔑むように白い歯を露わにした。全てを悟っているような笑みだ。
玄関先で取り憑かれたときのように、薄桃に溶けた口紅を見る。
イケメンでなくても、拐ってくれるだろうか。
私は詩子さんに溺れたかった。取り込まれたかった。
だから、詩子さん。
どうか私も──
柊と同じ場所へ、誘って。
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