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少し落ち着きを取り戻して、婦人にお礼を伝える。 涙と鼻水で湿ったハンカチは返すに返せず、握りしめたまま困っていると「それ、差し上げるわ」と言ってくれた。 私は何かお礼ができないかと、鞄を探る。そして、ふと黄色いリボンが目に入った。 「こんなものしかないのですが」と、四葉のクローバーで作った栞を読みかけの小説から抜き取って婦人へ渡した。 押し花にした四葉のクローバーをラミネートして、リボンをつけただけの簡単なものだが、祖母と一緒に作った思い出の品だ。 祖母とおそろいで作ったので、祖母の分が自宅の机の引き出しに眠っている。 どことなく雰囲気が祖母に似ていたので、喜んでくれる気がした。 婦人は「あら素敵、ありがとう。大切に使うわね。」と言って受け取ってくれた。 その始終を先輩は静かに見届けてくれていた。 そして、私たちは迷惑をかけたことを詫びて、喫茶店を後にした。 先輩は腫れ物に触るように「もう大丈夫なの」と聞いてくる。 私は、もう考えないようにするしかなくて「うん」と言って、先輩と一定の距離を置いて歩く。 「もっと、ちゃんと話がしたいけど、今日はやめておいた方がいいね…」 先輩はそう言って私の肩に触れようとしたが、私の体に力が入ったことを察して、その手を引っ込めた。 「ちょっと、実習でも色々あって疲れちゃってて、たぶんストレス…キャパオーバーだったんじゃないかな…」 私はそう言って、不意に一樹の『頑張ってるね』と言って撫でてくれた大きな手を思い出した。 ただ、黙ってトボトボと歩いて先輩の家へと向かう。 1泊の予定で来ており、お金もないため、先輩の家に泊まるしかない。 西に傾いた日差しが、辺りをオレンジ色に染め始めて、伸びた影が二つ、一定の距離を保っている。 家に着く直前、先輩が沈黙を破った。 私の先を歩いていた先輩が振り返って、真剣な顔で「さっきも言ったんだけど…」と口を開く。 「これだけはどうしてもわかってほしくて…」 顔の片側だけど夕日で染めて、寸分揺らぐことなく、先輩は真っすぐに私を見つめる。 「俺が好きなのは、弥生だけだよ。それは変わってないし、変わらないから。」 わかっている。頭では理解しているつもりだ。 でも、心がついていかない。 何を言われても、今はこの感情をどうにもコントロールすることが出来ない。 いつまでこれが続くの。 あの女とは近くにいて、私は近くにいなくて、実習に卒論に国家試験、それが終われば先輩は警察学校で… 好きっていう気持ちだけじゃ、淋しさは埋まらない。 先輩との恋愛は、水中にいるみたいだ。 息が出来なくて、苦しくて、時々水面に上がって息継ぎが出来たかと思ったら、また水中に引きずり込まれる。 もしくは、迷路。 出口を探してぐるぐると同じ道を回って、足はすり切れてトラップに引っかかる。次第に自分がどこにいるのかも、何を目指しているのかすらもわからなくなる。 もう限界。 耐えられそうにない。 「別れよう」 私がその言葉を口にした時、空は薄暗くなりかけて、青とオレンジのコントラストが美しいマジックアワーとなった。
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