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先輩は、県をいくつもまたいだ剣道の強豪の大学へと進学した。 私にそれを阻むことなど出来るわけもなく、応援するしかなかった。 4年間、剣道をやりながら学びを深めて、警察官になるのが彼の夢だから。 「電話する。毎日。」 「うん…」 先輩は私を抱き寄せて、自分の額を私の額にコツンとぶつける。 「離れたくないね」 そう言って、唇を重ねた。 先輩が旅立つ前日の夜、私は先輩の家の前で別れを惜しんでグズグズ泣いた。 先輩は本当に毎日電話をくれた。 慣れない一人暮らしの失敗談や、新しくできた友達の話、美味しいラーメン屋さんを見つけた話なんかを面白おかしく話してくれた。 新生活の話は聞いていて楽しいのだが、同時に、自分がその場にいないことがもどかしく、淋しい。 受験生の私を気遣って、電話はほんの10分程度で、あとは小まめにメッセージが送られてくる。写真付きのこともあるが、自分が写っているものはほとんどなくて、それが先輩らしかった。 「弥生の白衣姿かぁ…なんか想像したらやばいね。」 先輩の夢の話の流れから、私の夢の話になった。 先輩はそう言って茶化してきたけど、先輩の警官姿も想像すると何だかこそばゆい。 「あ~!今なんかエッチな想像したでしょう」 「えー?してないしてない…」 「男の人ってすぐ変な方に持っていくんだから…もう、逮捕だ逮捕!」 「ハハハ!いや、さ、お互い頑張ろうな…」 私は幼い頃から看護師になることが夢だ。 それは祖母の影響が大きい。 祖母は糖尿病だった。 そんな祖母には毎朝欠かさず行う儀式があった。 指の先に専用の機械で針を刺すことと、まるで切腹でもするかのような格好で、お腹に注射すること。 私は幼い頃から、怖いもの見たさで、隣でよくその姿を見ていた。 「ヤヨちゃん、看護師さんに向いているかもしれないね。」 そんな私の様子を見て、祖母は優しく微笑んでいた。 「看護師さんは素晴らしい職業よね。直接的に誰かの役に立てる仕事だと思うわ。私の担当の看護師さんとても素敵な方でね…」 一種の刷り込みだったのかもしれない。 私は祖母が大好きだったし、幾度となくおだてられ、勧められて『わたし、看護師になる』という使命感が芽生えたのかもしれない。 糖尿病はそれ自体は食事と適度な運動、それに薬で治療をしっかりしていれば、健康な人とそう変わらない生活を送ることができる。 しかし、祖母は糖尿病の合併症で腎臓を患っていた。 中2の秋のこと、祖母は、腎臓の機能が著しく悪化して入院することになってしまった。 5階の南病棟。窓からは遠くに海が見えた。天気のいい日にはキラキラと太陽の光が水面に反射して、美しかった。 初めてお見舞いに行ったとき、甲斐甲斐しく働くリアルな看護師の姿に、私は心動かされた。 漠然と、ドラマで見るような看護師をイメージして将来を思い描いていたが、それがリアルなものとなったのだ。 自力でトイレに行くことができないお爺ちゃんやお婆ちゃんのお世話をしたり、食事の介助をしたり、歩く練習に付き添ってあげたり、点滴を繋げたり…キラキラとしたかっこよさだけ取り上げられる医療ドラマの裏側は、こんなにも生々しいものだということを私はこの時初めて知った。でも、理想が崩れたなんて一切思わなかった。むしろ、私もこの人たちみたいになりたいと意欲がわいた。 祖母は入院して間もなくして、朦朧とする時間が増えた。 「もう長くはないでしょう」 そう医師に告げられてから10日目の夜中に、祖母は眠るようにこの世を去った。入院して2カ月が過ぎたころだった。 まさか、こんなにすぐに別れが来るなんて思いもよらなかった。 家族待合室で静かに泣いてる私に、祖母の最期に立ち会った新米らしい看護師が声をかけてきた。 「お祖母ちゃんね、つい何日か前の夜中に一度、私のこと弥生ちゃんって呼んだの。きっとほら、髪の長さとか、背の高さとか、似てるのかな…意識も朦朧としていたんだけど…会話は出来てね…」 その看護師さんは、セミロングの髪を一つで束ねていて、言われてみたら面長な顔の輪郭や華奢な体つきが似ているように思えた。 「『弥生、看護師さんになったんだね…って、白衣素敵ね…』て。私、それを聞いてね、違いますよ~って言えなくなっちゃってね。入院してきてすぐに『孫も看護師になるって言ってるのよ』って嬉しそうに話してくてたから。お祖母ちゃん、私を通して幻覚だけど弥生ちゃんの白衣姿見られて幸せだったと思う。こんな風に悲しんでもらえて、送り出してもらえて…」 そこまで言って、看護師さんの目からも涙が一粒こぼれた。 私は、とめどなく流れる鼻水交じりの涙を止められそうにもなかった。 その親切な新米の看護師さんに返事もできずに、ただただ泣きじゃくっていた。 看護師さんもグスグス鼻をすすりながら、私の頭をそっと撫でてくれた。
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