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Ⅳ
「昨日電話したんだけど、寝ちゃってた?」
「うん、寝落ちしてたみたい。ごめんね。」
昨夜、22時12分に先輩からの着信履歴があることに今朝になって気が付いた。
看護学校の3年生になった私は、実習で疲れ果てていた。
朝は8時半から、帰りは17時。それからその日の学んだことのレポートを書いて、受け持った患者さんの疾患の勉強、実施したいケアの手順の確認。
一日中緊迫感ある慣れない現場で身も心も疲弊しているのに、家に帰ってからもやることが山積みで、ろくな睡眠もとれない日々。
これが3週間続く。そして2週間の準備期間ののち、また次の実習が始まるのだ。
自分のことと、受け持った患者さんのこと、担当の指導者さんのこと以外は考える余裕がまるでない極限状態。
そんな調子で、『電話でれなかったごめんね』のメールすら打てずだった。
先輩からかかってくる電話は、いつも自宅からというわけではなかった。
友達の家からだったり、居酒屋からだったり、電話ごしに楽しそうな声が聞こえてくることが多からずあった。
優しい先輩は、私との約束を守って毎日電話くれて、励ましてくれるのに。
そんな先輩にイラついてしまう自分にも腹立たしく、自己嫌悪で押しつぶされそうになる。
こんな毎日がまだあと1年は続くのだ。
「しばらく電話してこなくていいよ…」
こんな私と話していても楽しくないだろうし、気を遣わせたくないって気持ちもあってそう告げたのだが、自分でも驚くほど冷めた声だった。
「え?なに、なんか怒ってる?俺と話したくない?」
「そうじゃないけど、今ちょっと余裕なくて。疲れてて、やんなきゃいけないことたくさんあって、祐司の声は聞きたいんだけど…祐司の話聞く余裕はないっていうか…」
数秒の沈黙ののち、先輩が口を開く。
「…そっか、大変なんだね。わかった、じゃあ、俺からはかけないようにする。弥生のいい時にかけてきてよ…」
何か言いたいことを飲み込んだような物言いだった。
私たちは物分かりのいいもの同士なのだ。
だから、喧嘩にならない。
言いたいことを飲み込んで、我慢する。
だから、自分たちも気づかないうちに、溝が生まれてしまう。
遠距離恋愛になってからの最初の1~2年は、2カ月に1回は帰省してくる先輩に会えたし、私も実習の合間に短期バイトをしてお金をためて、先輩に会いに行ったりもした。
そうして会った日には、会えなかった時間を取り戻すかのように、限られた時間をめいっぱい一緒に過ごして離れなかった。
一緒にいる時間は楽しい時間であってほしいから、多少なりとも感じていた不満は、絶対に口にはしなかった。
そう、ベッドの下から出てきた見知らぬピアスの片割れを見つけても。
3年目には、先輩もサークルの他にゼミも忙しくなって、なかなか帰省しなくなった。
私もだんだんと実習で忙しくなり、会いに行くことができずにいた。
徐々に私たちの歯車は狂い始めていた。
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