キャラメルナッツアイスクリームの夜と金魚の夢

1/1
前へ
/1ページ
次へ
「桜、お前も高校生だろう。今夜こそ別の布団で寝ろ」  渋い声が苦々しく、今夜もまた二人で暮らす畳部屋にずしりと響いた。  いい加減あきらめたらいいのに。  眉間に深い皺が刻まれた鋭い眼差しから仁王のような圧がかかる。  わざと怖そうにしている。  厳しそうに眉を寄せて腕を組んでも、幼い頃からこの顔に育てられた僕には張りぼての強面なんか大した効果も無い。いづなも頑張るなぁと人ごとみたいにじっと見上げるほどには僕も図太くなった。  髪と同じ白い月が浮かんだ濃紺の浴衣がよく似合う。190センチはある片目瞑りの険しく整った顔の男。  気難しそうに見えるけど、牙のように大きな犬歯が覗く口の奥からキャラメルナッツアイスクリームの匂いがする。  風呂上がりに一緒に食べた、バニラビーンズがポツポツ浮かぶナッツたっぷりの香ばしいキャラメルの香り。僕が少し分けてあげた塩蜂蜜レモンシャーベットの香りも微かに混じっている。   堅い口調で説教をするけど、本当はすこぶる情と甘いものに弱い。 「嫌だね、いっっつも子ども扱いする癖に」  頭一つ分は大きな男を見上げ僕も負けじと腕を組み、朝顔柄の浴衣を着た胸をそらす。布団の前での睨み合いもすっかり毎晩の恒例行事と化してきた。 「だから、人の体温とか呼吸とかに触れて無いとよく眠れないんだよ。最初に自分の胸の上に僕を乗せて寝かしつけたのはいづななんだから、もう腹をくくりなよ」  口を尖らせて至極当然と抗議すると、見上げた先の皺はさらに深まった。  僕からもきっと塩蜂蜜レモンシャーベットの香りと、ほんの少しのキャラメルナッツの匂いがしている。  風もぬるい夏の夜、風呂の後にアイスを分け合って食べてはさぁ寝るかで喧嘩する。  茶番だ。  さっさと一緒に寝たらいいのに。  縁側で金魚の風鈴がチリチリと舞っている。この珍珠鱗が良いといづなが骨董市で選んだ、つぶらな瞳の真ん丸い、水風船のような金魚のガラス風鈴。 「幼児期の寝かしつけを持ち出すな。……せめて隣に布団を敷いて手を繋ぐとか」  あまりにも僕が引かないので最近は妥協案も甘い。何を言われても、僕は一歩も引く気は無いけれど。  ご飯も一緒、風呂も一緒、寝るのも一緒。離れてあげるつもりなんてこれから先も、毛頭無い。未来永劫無い。どうやったら伝わるんだろう。喧嘩ばかりが増えて歯痒い。  このままだと浴衣で睨み合う夏が、厚手の寝間着で睨み合う秋に変わるだけだ。  嫌だな。  障子の向こう側で、また季節だけが繰り返し巡っていく。視線も言葉もぶつかり合うばかりで、何も前に進めないまま。当たり前にあった幸せだけが、壊されてしまいそう。  あぁ嫌だ。  チリチリと夜風に聞き慣れた音色。    夕涼みに縁側に座り、少し目線を近く過ごす時間が好き。  楓の紅葉を指差すと、僅かにやわらかく細める目が好き。  白い窓を指でなぞると、冷えるぞと労わる低い声が好き。  梅が咲いたら袖を引き、少し暖かい縁側にまた誘う。    何年も何年も。  ささやかな好きを重ねる毎日は、一つ一つが愛しい。愛しくて、愛しさが積み重なるほど想う。  焦れったい。  本当は、お前と。 「嫌だね。いつもみたいにいづなの上に乗って胸に顔を当てて心臓の音を聞くのが、落ち着くんだよ」  こんなことをしているから、いつまでも子供扱いされるんだとわかっているけれど、一緒に居るために今日も辛抱強い優しさに付け込む。ただ二人で一緒に寝る言い訳を確認するだけの睨み合いと言う名目の、繰り返しの茶番。こんなの一緒にアイスを食べる時間と大差ない。  そう、思っていた。  今日も、同じ。 「だからと言って、高校生男子と成人男性が毎晩抱き合って寝るのも、もう無理があるだろう。人の気も知らずに、お前だっていつかは」    お前だっていつかは。  いつか。  一瞬の沈黙に、縁側の風鈴が一際強い風に鳴った。  リン…と高い、夜に釘を打つような音色。  安心して立っていたガラスの土台に足元からヒビが入った心地がして、心臓が冷たく跳ねた。 「……僕を捨てた親たちとお前は違うんだろ?」  咄嗟に一番効き目のあるだろう狡い奥の手を口にして、今度は大きな男の肩が揺れる。  いづなは僕を見捨てないって言っただろ!と畳みかけると、昨晩のように根負けした深い深いため息がようやく聞こえた。 「……寝るぞ桜」  今夜も僕の勝ちだけど。おやすみと笑おうとした口元は、小さな傷のように引き攣った。  いつかは、いづなお前は。  二人混じり合った甘いアイスクリームの香りをさせたまま、心が苦い。目を逸らし続けていた未来の言葉が、布団に入ってからもなお冷たかった。    *  腹の奥がぐるぐると落ち着かず、時計の針が深夜を過ぎても珍しく眠気がやって来ない。僕を胸の上に乗せたいづなの静かな寝息を、久しぶりに耳にした。  閉じた瞼の下が、疲れている。 (……ごめんなさい)  昼間の暑さがまだ薄く残る真っ暗な部屋にそわそわする。いつもは分厚い胸の上でうとうととし出したら、次はもう眩しい朝日と低い声に起こされるまで記憶が無かった。  この優しい鬼神のような男と出会ってからは、毎日安心して深く眠っていたから。 「桜、朝だ」  僕の黒い癖毛をくしゃりと撫でる大きな手と、寝汗が薄く浮かんだ広い胸の上が大好きだった。 (僕だけが、恋をしている訳じゃないと思っていたけど)  勘違いだったかも。  苦しそうに眉を寄せた寝顔を見上げて、今度は僕が広い胸にぐりぐりと額を擦りつけながら小さなため息をついた。  高校に入学してから、これまでと距離があからさまに変わった。  この一年と数ヶ月、何かと理由をつけては僕から触るのを避けられる。  相変わらずたまに「出張」すると「また一睡もしていないのか」と山程お土産を買ってくるし、いづなの本棚を一段埋めている僕のアルバムはまだ増え続けている。ご近所から「桜くん綺麗になってきたねぇ」と成長を褒められると少し嬉しそうに目の端が緩み、その割に可愛いと自分から口にすることは、もう滅多に無くなった。  一緒に風呂に入るのを嫌がる、膝に座ると強張って避ける、後ろから抱きつくなと嗜める、別の布団で寝ろと毎晩お小言が始まる。たくさん甘やかし頭をぐしゃりと撫でてくれつつ、極端に僕に触れられることを拒む。    これは、もう。  お前も僕のことが好きじゃないのか?   「何で避けるんだよ!」  喧嘩が増えもどかしい毎日のどこかで、もしかしたら同じように想ってくれているのかもしれないと、淡く期待していた幻想が力無く萎んでいく。  僕の都合の良い勘違いか。  冬の太陽のように、冷たい世界を照らしてくれた人。居ないも同然の両親に代わって、出会った時からずっと傍で慈しんでくれた。この家で一緒に暮らし始めた日から、ずっと。  忙しいしここは広いからと置いて行かれた親戚の神社に、併設するように僕たちの家はある。預けられたはずの親戚にはほとんど会うことも無いまま「子どもが一人か、仕方ない」と、唸るような声でこの男が現れてからは穏やかに二人で暮らしてきた。  名前と、僕に初めて愛情を注いでくれた人ということしかよくわかっていないけど、それでもう充分過ぎる。  僕がお茶や珈琲を淹れると嬉しそうに目尻をほんの少し緩めるし、毎日掃除を頑張ったりシャツにアイロンをパリッとかけると頭をわしわしと掴み褒めてくれる。血も縁も繋がっていなくても、大好きだ。  小さな時から大好きで大好きで、好きがだんだん苦しくなる。いつから大好きの意味が変わっていたんだろう。  僕の心の真ん中にある、好き。   この好きをストレートに伝えてしまったら、現れた時のように前触れなく消えてしまいそうで怖い。側に居てくれるだけで構わないとは割りきれなくて、僕に出来ることをして寄り添ってきたつもりだけど。  何度も練習したいづなの好きな美味しい珈琲を淹れる。掃除は好きだから家をいつも綺麗にして出迎える。甘くて可愛いものをたくさん見つけて一緒に食べる。寄り添って絶対に離れない。喧嘩をしていない時は、いっぱい笑顔でいる。僕にたくさん幸せをくれた人を僕も幸せにしてあげたい。  本当は、髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるだけじゃなくて、抱きしめられたいなと強く願いながら。  冷静に考えたら、ただのお手伝いを頑張る子どもと世話好きなお父さんだ。  苦々しい口調でも結局毎晩一緒に寝るのは心底嫌では無いんだと思っていたけど、育てた子どもが相手だから我慢していたのか。我儘を言い続けて悪いことをしたな…ひたすら虚しい。  この恋は苦しめることしか出来ないのかもしれないと思うと、罪悪感が針山のように突き刺さり惨めで辛い。心を砕いてしまうぐらいなら手放してやるべきなのかとまで考えて、やっぱり嫌だなとぎゅっと強く大好きな人を抱きしめた。  目を閉じたままいづなが小さくうっと声を漏らしてまた悲しみが一つ突き刺さる。胸に顔を埋めて深く息を吸うと、一緒に食べたアイスとこれまで過ごした思い出の香りがして胸が詰まった。  香りの奥にほのかに煙草が混じっている。  最近こっそり吸っているのかな…ストレスで。  早く寝てしまいたい。  夢の中でなら毎晩のように苦しいほど強くギュッと抱きしめ、背中を優しくさすってくれる。子どもの頃に僕をたくさん包んでくれた力強い腕の中で。 「いづな……」  濃紺の浴衣をギュッと掴む。 (応えてくれる訳でもないのに……)  僕だけが抱きしめている。  どうしようもない気持ちのよう……。  に……。  グラリ、と大きな体が揺れてしょぼくれた思考の邪魔をした。腕が僕の背中と腰にまわり、がっしりと掴む。 「桜…」  切なげに掠れた声が僕を呼び、苦しいほど強くギュッと抱きしめられる。  思わずぐぇっと今度は僕の声がポンプのように押し出されて、困惑しているうちに温かい手が優しく僕の背中をさすり始めた。とてもよく身に覚えがある、力強い感触。 (これ、いつもの夢と同じ……)  ぴったり胸に貼りついた顔をよじよじと上げると、相変わらず涼しい両目は固く閉ざされ静かな寝息をたてていた。 (寝ているんだ)  夢の中で、子どもの頃の僕にでも会っているのか。小さな頃は、よく背中をさすりながら昔話を聴かせてくれた。  幼い僕が今は羨ましい。 (ここまでぎゅうぎゅうに抱きしめては無かったけど……)  最初に抱きしめた腕の強さとは裏腹に、撫でる手はひたすら優しかった。触れていた体温がもっと体の芯に届くような、心地良く皮膚を這うような。薄く浮いた汗が服の上から手の平の熱と混ざっていく。  ……子どもの頃、こんな撫で方だったかな?  穏やかな触れ合いのまま、だんだん思い出と感触がずれていく。 (撫でるって言うか確かめられているような……背中がゾワゾワする)  夢で毎晩浸っていた温かさに似ているけど、もっと体を這うように響く。子どもの頃の眠くなるような包み込む手と違い、気持ち良いのに神経に触られているようで感覚に生々しさがある。好きな人に久しぶりに撫でられて、僕が自意識過剰なせいならとても恥ずかしい。俯いてつい埋めた胸に、熱く吹きかけるように息を吐く。  気付いたように背中をひとしきりゆったりとさすっていた手が止まった。 (あ、おしまい……)  困惑していた癖に名残惜しむなんてと自嘲する間も無く、長い指はゆっくりと背中から腰、腰からもっと、僕の体をつたって降りてきた。浴衣の裾からごく当たり前のように手が入り込んでくる。 (え……そっちは)  腰よりも下を指の腹が下着の上から撫でて、ひゃっと背筋が跳ね顎が持ち上がる。動揺する僕には…当たり前だけど眠っているいづなは全く構わず、大きな手で弾力を遊ぶように指が太腿との境目をなぞり始めた。指が膨らみの際を辿り、手の平全体で撫で回される。  背中のゾワゾワした感覚が、腹の下にまで入り込んできそうで思わずギュッと目を瞑った。顔に火が付く。 (待って……待っ……)  言葉が喉に絡んで出てこない。  幼い頃にこんなことをされた覚えは無い。  心臓が早鐘のようになっていく。 「桜」  苦しそうな、切なく絞り出すような声。 「桜、もう……お前を……」  ぐっと腰をさらに強く引き寄せられて、かたい感触に息を呑んだ。  さっきまで抱きしめて欲しいと願っていたはずなのに頭が追いつかず、情けないことにうっすら目尻が濡れて頬が熱い。  流石にわかる、呼んでいるのは多分今の僕だ。じっくり考えている場合じゃないけど。  溺れるように必死にむずむずと鼻先を擦り付けて浴衣を掴む。下着の上から覆って撫でてフニフニ押していた指が、内腿から服の中へ入っていた。爪先が僅かに下着の中に触れる。 「い……いづな……」  喉で止まっていた情けない声が引き攣りながらやっと飛び出して、指が止まった。これで起きたら何て言ったらいいかわからない。  顔を上げられないまま固まっていると、うるさい心音に紛れてスースーと静かな呼吸だけがまた聞こえ始めた。  ……寝てる。  侵入してきた手をそーっと掴み浴衣の外へ出すと、力がどっと抜けて身悶えするようなため息が出た。今度は眠っているいづなの胸に吐きかけてしまわないように、顔だけは横を向いて。  腰は力強く腕に引き寄せられたまま、主張の大き過ぎる鼓動がそのうち起こしてしまわないか心配になる。  このまま朝まで収まらなかったら何て説明しよう。うまく言える気がしない。気温のせいだけじゃなく、体がじっとりと熱い。思い返すだけでわーっと叫んで体を掻きむしりたくなる。  頭が沸騰するほど恥ずかしいけど嫌では……無かった。 (嘘つき……僕のこと、お前も僕のこと……好きな癖に)  顔を合わせれば毎晩口喧嘩ばかり。心は伝わらないまま、ずっと大事な言葉が足りていない。 (……いづなと話し合わないと)  うまくなんか言えないけど。居なくなってしまいそうと怖がっていても何も始まらない。  この関係を変えようと踏み出しても思い通りの言葉が出てこないかもしれない。もっと大喧嘩をするかもしれない。  それでもあきらめて手放して、楽になんかしてやらない。離れろって言われても、お前からどいてなんかやらない。  夢の中でしか触れられない優しい理性なんか早く、粉々に砕いてやりたい。  *  腕の中に、桜が今夜も現れた。  チリチリと丸い金魚の風鈴が泳ぎ、畳の上へ薄紅色の桜の花びらがチラチラと舞う。  また悩ましい夢を見ている。  とうとう俺は酷いことをしてしまったらしい。大きな目の端が濡れているのに、桜も俺に手を回して離れない。  甘い甘い、一緒に食べた蜂蜜レモンと桜の香り。 「手放してなんかやらない」  くすぐったい少年の声。  黒目がちなつり目に華奢な腕、見かけより随分と心はたくましく育った。  強くて折れなくて、困る。  起きたらこの手はまた突き放さなくてはと思うと自分勝手に名残惜しい。  幻覚を抱きしめてもどうしようもないのに。 「……お前だっていつかは」  いつかは、巣立ちの日が来る。  人の命はとても短い。  不毛な手を離してやらなければ。  そもそも俺は桜の親代わりで、俺も桜も男だ。何年一緒に暮らしたとしてもどれだけ可愛がっても、ただの仮初の父親代わり。  何年も何年もずっと。  本当に大事なら。  自分に言い聞かせるほど手を離し難くて、小さな体をもっと強く抱き寄せる。  健気で甘ったるく子供染みた誘惑に浸される毎日。  良い親のふりにも、もう限界が来そうだ。 「……いつかは大人の都合なんか関係なく、自分の力で歩いて行ける」  また口を曲げて怒るだろうか。  俺の胸に埋もれた、歳より幾分幼い顔を覗き込むと、桜は笑っていた。 「僕に、幸せになれって思っているでしょ?」  いつもより自信に満ちた強かな顔。  畳を覆う落ちた花びらが、風に大きく舞い上がり薄紅色の煙幕になる。  花の嵐。  淡い洪水をガラスの珍珠鱗がキラキラと泳ぎ、朝顔柄の浴衣の袂も金魚のように舞っていた。  大きな黒い瞳にガラスがキラキラと映りこみ眩しい。  大人の言い訳を全部跳ね除けるように。  強かな、花のような笑顔。 「夢の中でまで難しい顔しちゃって。僕の幸せを願うならいづなも幸せじゃないと駄目だよ」    自分の力で歩くことは、一人ぼっちとは違うんだよ。  自分より遥かに若い命が謎かけのように呟き、俺の背中にまわした細い腕にささやかな力をいっぱいに込めた。  立ち込める桜の中をチリチリと泳ぐガラスの丸い金魚が、ぼうっと明らんで夜を照らし始める。  もうすぐ朝が来る。 「僕がお前を明るいところへ連れて行ってあげる」  幼くて浅はかで、揺るぎない声。  陽に満たされるにつれて鮮やかな花も金魚も畳の部屋も、ぼんやりと輪郭を失なっていた。  夢が浅くなる。  金魚が透けてチリチリと音だけを残し、花びらは光の粒に溶けていった。  世界が薄れていく中で、小さな八重歯を見せて笑う桜だけが変わらない。  目が覚めてこの夢が終わっても、この手はきっと俺を抱きしめている気がする。 「この気持ちからどいてなんかやらない」  壊れていく夢の世界を二人抱き合って見詰めながら、清く真っ直ぐに生きるための頑なな良心が、とうとう崩落していく気がした。  金魚の風鈴が甲高くリンと鳴る。  理性に最後のヒビを入れるように。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加