第1章 四月の魚 2.蜜色の風

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第1章 四月の魚 2.蜜色の風

「来なくてよかったのに。武流に送ってもらうから」  時間通りに迎えに行ったというのに、妻の蓮が伊吹にむけて放った言葉はそっけなかった。  蓮は名族専用の特別病室で身支度を終えたばかりだった。透きとおるような白い肌にはっきりした目鼻立ちの美貌はにこりともしていない。整いすぎて冷たくみえかねない顔立ちだが、軽く微笑むだけで印象は一変する。単に伊吹にそんな顔を見せないだけだ。 「武流が来るのか?」 「もうすぐ着くよ。プラウを見たいっていうからさ、一緒に車で行く」  蓮の声はぶあつい絨毯に吸いこまれるように消えた。特別病室は高級ホテルのようなしつらえだが、病気で入院したわけではなく、二泊三日の人間ドックが終わったところである。宮久保家当主が一人息子のオメガに定期的に受けさせている検査だ。 「わかった。それなら荷物を持って帰ろう」  軽い失望はあったものの、伊吹は穏やかにいった。 「あ、そう? じゃあそれ、持って行って。ついでに荷造りもしてよ」  蓮が指さした先にはひらいたままのスーツケースと散らかしたテーブルがある。伊吹は表情も変えずにテーブルの小物を片づけはじめた。蓮はタブレットを弄っている。視界の端にメッセージアプリの画面がちらりとみえた。  宮久保家当主の強い意向で蓮と結婚して三年になるが、妻の冷淡な態度にも、雑用係のように扱われるのにも伊吹はすっかり慣れていた。結婚といっても当人同士の選択ではなく、宮久保家当主が遺伝子検査をもとにアルファの伊吹に白羽の矢を立てただけだ。蓮は最初から伊吹が気に入らず、それは三年経ったいまも変わらない。  それでも仕方がないと受け入れてしまうのは、アルファとオメガの〈つがい〉の絆ゆえなのだろう。蓮の発情期(ヒート)は年に三回、毎度あっさりしたもので、夫婦のいとなみがあるのはその時だけだった。いまだに子供はできないが、アルファのつがいと定期的にセックスすればオメガのヒートは安定する。  自分はそのために蓮に買い与えられたモノのようなものだ。そう思っても伊吹は何も感じなかった。宮久保家への婿入りを承諾した理由は伊吹にもあるが、アルファ名族の威光が欲しかったわけではないから、戸籍上の姓を変えても対外的には旧姓の三城を使いつづけていた。宮久保家当主の(たき)も蓮も、特に反対しなかった。  アルファの名門一族、俗に名族と呼ばれる三文字姓のなかでも、宮久保家は不動産業で有名な一族である。本拠は隣県にあるが、県境に近いこの病院には宮久保家が懇意にしている医師がいる。  宮久保家はアルファ名族のなかでは珍しい女系当主の家系だ。三性のどれをとってもなぜか女性が多く生まれる家で、男性オメガの誕生は数十年ぶりだったという。  おかげで蓮はアルファの姉たちをはじめ、一族に溺愛されて育った。蝶よ花よと育てられ、欲しいものは何でも与えられたが、つがいとなるアルファの選択だけは本人ではなく家の意向によるものだった。  自分は種馬のようなものだと伊吹は思う。いや、種も不要なのかもしれない。蓮の姉のうちふたりはもう結婚していて子供もいる。蓮が望めばともかく、当主は蓮に、妊娠出産のような体に負担のかかることをさせたくないのかもしれなかった。  目に入れても痛くないオメガの末息子のために彼らが必要としていたのは、心身ともに健康で、将来的に遺伝病などの発病リスクがなく、かつ女系の宮久保家を乱そうとしない、つまり名門出身ではないアルファの男だった。伊吹はたまたま条件を満たしていた。 「武流? 着いたの? ここまで来てよ」  スーツケースを閉じる伊吹のうしろで蓮が明るい声をあげる。 「え、場所わかんない? 入院病棟の手前で専用エレベーターに乗るだけだよ。あ、カードキーない? わかった、伊吹が出るところだから下でもらって。伊吹? 荷物とりに来たんだ」  伊吹はスーツケースを出口の方へ押しやった。 「武流か」 「着いたみたい。エレベーターに乗れないっていうからカードキー渡してよ」  特別室のあるフロアに通じるエレベーターは高級ホテルのような仕様で、カードキーがないと動かない。伊吹はうなずいて出口へむかった。最後に一度ふりむいたが、蓮は膝のタブレットに視線をおとしていた。伊吹は黙ってドアを閉めた。  アルファ、オメガ、ベータ。男性と女性という性のほか、この世には三つの性がある。  感情を抑制するのに長け、リーダーシップの能力に恵まれるアルファ性に引っ張られてこの世界は動く。引っ張られていくのは大多数を占めるベータ性で、アルファと〈つがい〉になり、ときにアルファの行き過ぎをなだめられるのがオメガ性だ。  オメガ性の男女は十五歳から十八歳ごろ、他の二性とは異なる第三次性徴を迎え、性成熟する。そうなると「オメガらしい」柔和で綺麗な雰囲気をまとうようになり、男性オメガは妊娠できるようになる。これと同時にはじまるのが〈発情期(ヒート)〉である。見知らぬアルファとオメガが匂いでたがいに気づくようになるのもこの頃からだ。  性交のさいアルファがオメガのうなじを噛むことで〈つがい〉が成立すると、アルファは他のオメガのヒートに惑わされなくなる。大昔は神秘のように思われていたこの現象も、今ではオメガのうなじにある受容器にアルファの唾液が触れることで起きるものと判明している。  三性を嗅ぎわけられないベータは、オメガの強烈なヒートにも、ヒートに反応するアルファの性衝動(ラット)にも〈つがい〉の絆にも無縁だ。この何十年かのあいだにヒート抑制剤のような医薬品が開発されたとはいっても、一般的にオメガはアルファを選ぶものだとされている。ヒートのオメガはアルファを求め、アルファはいつもオメガを求める、といわれる――なぜならオメガはアルファより少ないから。  とはいえ、アルファとオメガが必ずしも惹かれあうわけではない。伊吹は待合室を歩きながら漠然と考える。おたがいを匂いで認識するというのはつまり、生理反応から引き出された感情にすぎないということだ。そう割り切ったアルファは歴史上ずっとオメガのヒートを利用し、オメガの意思を無視した支配を断行してきた。  もちろん、すべての性に人権をみとめる今の社会はそんな支配を認めることはない。  待合室のガラス窓の外では桜が盛大に散っていた。ここへ着いた時も横殴りの風にあおられたのを伊吹は思い出した。出入口に蓮の従兄、武流の姿がみえた。 「よう、伊吹。お姫様のご機嫌はどうだ?」  武流のふざけた口調に伊吹は淡々と応じた。 「別に。ふつうだ」 「荷物運びのためにわざわざ来るとは、ごくろうなことだな」 「いや。迎えにきたつもりだったが、かまわないさ」 「ずいぶん物分かりがいいな。おまえ本当にアルファなのか? いくら婿入りの身だからって控えめすぎるぜ。俺ならがつんというところだ」  伊吹は取り合わなかった。従兄といっても武流は蓮の幼馴染で、実質的に兄のようなものだ。それを承知の上でこんなことをいうのは、宮久保蓮にとってはベータの武流よりもアルファの伊吹の方が下なのだと伊吹に思い知らせたいからである。アルファに対するベータの敵愾心をこんなふうにぶつけられるのは伊吹には迷惑だったが、宮久保家に入った以上は仕方のないことだ。 「そういえば異動になったって? 伊吹、おまえは本社で順調に出世すると思っていたよ。宮久保の当主は何ていった?」 「別に何も。会社がきめたことだ」  カードキーを取り出したとき、伊吹は唐突に武流から漂う香りに気づいた。たった今まで意識しなかったのはそれが自分とおなじ香りだからで、蓮もおなじもの――「パドマ」をつけている。結婚したばかりのころ蓮が伊吹に与えたもので、贈り物をもらうこと自体珍しかったが、爽やかな香りを気に入ったのもあって、伊吹はずっと使いつづけていた。  なぜ今この香りに気づいたのだろう? いぶかしく思ったとき、原因がわかった。  背後からべつの匂いが近づいてきたからだ。それは伊吹の意識をつかみ、脳の中心を直撃した。いや、匂いというよりもっと強い、ねばつく金色の蜜のようだった。そのまま伊吹の横をとおり、出口の自動ドアに向かっていく。パーカーを着てフードをかぶっている。オメガなのはすぐわかった。  だとしても――これは何だ?  なぜか足がすくむ。伊吹の頭から武流の存在は消し飛んでいた。自動ドアがひらいたとたん強い風が吹きこんできた。前を行くパーカーのフードが飛ぶ。前髪を手でおさえながら若い男がふりむいた。黒い眸が伊吹をみた。蜜の香りが強くなる。 「風が強いな」  武流が呑気な声でいった。パーカーの男は伊吹の視線をふりきるように自動ドアを通り抜け、歩道を走っていくところだ。蜜の残り香を嗅ぎながら伊吹はその場に立ち尽くしていた。
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