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第6章 天の川 5.白い壁の包囲
数カ月前、桃色の花びらが散っていた道は緑のトンネルに変わっていた。空調の効いたガラスの内側から眺める分には美しいが、外に一歩出れば地獄の暑さだ。猛暑という言葉もすっかり使い古されて、耳にしてもぴんとこなくなっている。
月曜の病院の待合室は混んでいたが、宮久保瀧の命令で訪れた伊吹には無関係だった。
「24番の窓口に向かってください。通路をまっすぐ行って左です」
伊吹は水色の検査着の袖をおろし、看護師からファイルを受け取った。よくある人間ドックの手順だが、検査票には通常の健康診断にはない項目が追加されている。
検査着一枚を羽織っただけの体が何とも心もとなかった。通路を奥へ歩きながら、そういえば七星と最初に出会った――正確にはすれちがった――のも、ここだったと思い出した。四月だった。たった四ヶ月前だ。
伊吹は無意識に検査着のポケットを探ったが、セキュリティのため、という名目で私用のスマホが問答無用で取り替えられたことを思い出し、手がとまった。
大の男からスマホを取り上げる、こんな扱いを平然とやってのけるのが宮久保家だ。それは三年前からうすうす察していたのだが、いざ自分の身にそれが起きてしまうと、手も足も縛られていることに歯噛みしながら、ゆっくり浸透する毒のような屈辱感に耐えるしかないときている。
都心の本社にいればまだましだっただろう。人が集まる場所には情報も集まる。きっとハプニングに乗じた抜け道を探すこともできた。だが郊外の分室ではそうもいかない。駐車場には送り迎えの車が待機し、徒歩で昼食に出ることまで監視されていた。
本社には宮久保家から何かしらの指示があったようだ。メールや電話の本数が急激に減り、伊吹は自分が指揮する分室ごと、本社の情報の網から外されてしまったのを感じた。
だが、自分はこういったことをすべて承知で蓮の夫になったのではなかったか。それなのに今、不当な取り扱いを受けていると感じるのはなぜだろう。
検査室は角砂糖のように白い空間で、伊吹の検査着と同じ色のベッドが壁際に鎮座している。伊吹は看護師にいわれるままベッドに腰をおろし、説明を聞く。
「検査薬を何度か投与し、横になった状態で一定時間ごとに血液、唾液、汗など、順に採取します。軽いほてりや眠気は通常の副作用ですが、ひどい吐き気、腹痛といった異常を感じたときはすぐに知らせてください。横になったままなら電話などされてもかまいません」
伊吹は黙って腕を差し出した。アルファ性の機能を調べる検査である。蓮と結婚する前にも一度受けたことがある。投薬用の針を刺したまま横になり、白い天井をみつめる。
ブーッ――
ふいにスマホが振動した。伊吹はのろのろとポケットに手をつっこんだ。液晶に浮かぶ名前に顔をしかめる。三城瑠璃。ベータの母親の声は、いまの伊吹がいちばん聞きたくないもののひとつだ。肉親なのにろくな情を感じない自分に問題があるのだろうか、といった内省は、かなり以前にやめてしまった。
スマホはしつこく震えつづけている。
七星はメッセージを読んだだろうか、と思った。伊吹には既読を確認する時間もなかったからだ。
朝のうちにゴミを出せたというのは、休日なのにまともな時間に起きることができた、ということでもある。これも祥子と魚居に話を聞いてもらったおかげだろうか、と思いながら、七星は玄関ドアをあけた。
共用のごみ置き場から戻ってくると、ちらかっていた部屋を片付け、シーツを変えて洗濯機を回した。九時前なのに気温はすでに三十度はあり、Tシャツがすぐ汗で濡れる。洗濯物を干しているとポケットでスマホがぶるっと震えた。
伊吹さん?
もちろん違った。魚居からの電話だ。昨日の相談に関わることだろうと、七星はいそいでスマホをタップする。案の定だった。
『七星、光央さんに連絡がとれた。今日にでも詳しい話を聞きたいというんだが、七星のマンションに行ってもいいかと聞かれてる』
「加賀美さんがうちに? でも僕、今日休みだから、どこかに行ってもかまいませんけど」
『マンションの安全を確認したいというのもあるらしい。弁護士と二人でというが、もし怖いなら祥子も一緒に』
「だ、大丈夫ですよ。子供じゃないんですから」
七星はあわてて答えた。
『そう? 時間がまだはっきりしないけど、光央さんは〈運命のつがい〉と関わったこともあるようで、七星のこと気にしてるんだ』
「すみません、なんか……」
『何いってる。七星はユーヤの看板少年だからな、当然だろう』
看板少年。そんなことをいうのは祥子だけだと思っていたのに。
魚居の快活な声に励まされたのか、七星の気分はまたすこしだけあがった。住所をあらためて伝えると、熱気が侵入するのをもろともせず、リビングの窓をあけて掃除機をかけはじめる。部屋がきれいになったころ、庭の植えこみを透かして大きな黒い車が滑りこむのがみえた。
まさか、加賀美がもうやってきたわけではあるまい。ところが掃除機をしまい、リビングの窓を閉めているとき、玄関でチャイムが鳴った。
七星はインターホンを取った。
「はい」
『こちらは照井七星さんのお宅で間違いないでしょうか』
女性の声だった。若い声ではない。落ち着いた丁寧な口調である。
「どなたですか?」
『窪井と申します。宮久保家より参りました』
背中にぞっと寒気が走った。インターホンを持つ手が勝手に震え出す。
「えっと、その……何のご用件ですか?」
『宮久保伊吹についてお話があります。私は宮久保家の家政婦長でございます。当主の宮久保瀧の代理として伺いました』
カメラには膝丈のスカートにジャケット姿の女性が映っている。そのうしろにはアタッシェケースを下げたスーツの男が控えていた。
『照井さん』
窪井がいった。名前を呼ばれただけなのに、七星はびくっとして受話器を落としそうになった。
「いま、行きます」
玄関ドアを開けたとき、まっさきに目に入ったのはローヒールのパンプスだ。窪井は淡いグレーのツーピースで、パンプスも同じ色だった。家政婦長といったが、服装はむしろ上流のご婦人という雰囲気で、顔立ちはごくふつうのベータである。しかしアップにまとめた髪の下は能面のような無表情で、七星はぞっとするものを感じた。
「えっと……」
「照井七星さん」
窪井の視線がスキャンするように動いた。Tシャツとコットンパンツという服装を責められているような気がして、七星は首をすくめたくなった。
「私どもの訪問の理由はお分かりかと思います。ここでお話するのは問題がある内容ですので、上がらせていただいてもよろしいでしょうか」
一方的な物言いに七星は息を飲み、ただうなずくことしかできなかった。そろそろと後ずさると、窪井とスーツの男は平然と中に入り、ドアを閉めた。七星は動転したまま玄関に突っ立ち、ふたりが靴を脱ぐのを見ていたが、ハッと気づいてリビングに行った。
頭の中は真っ白に硬直していたが、七星の体は勝手に動き、食器棚からグラスをふたつ取り出している。麦茶を注いでふりかえると、窪井と連れの男はリビングの入口に立っていた。事態を冷静に眺めることなどまったくできなかった。七星はソファをさした。
「ど、どうぞ」
グラスをローテーブルに置いたときに思ったのは、片づけの直後でよかった、というものだ。窪井はちらりとリビング全体に視線を走らせたあと、落ちついた動作で腰を下ろした。
「最初に申し上げておきたいのですが、私どもは照井さんを非難するとか、訴えるといったことはまったく考えておりません。宮久保伊吹との間に起きたことは不幸な事故だったと理解しております。二年すこし前に旦那様を失くされておられますね」
何の前置きも説明もなく、窪井は話しはじめた。七星はそれをさえぎることもできたかもしれない。いきなり何をいいだすのか、宮久保伊吹との間に起きたこと、といっているのは何なのか、等々――だが、そんなことはいっさい頭に浮かばなかった。驚きや怒りよりも怯えの方が先に立ったのは、窪井の高圧的な雰囲気と口調のせいもあったし、連れの男が無言でアタッシェケースから取り出した写真のせいもあった。
あまりにもあからさまな写真だった。何枚もある。七星の顔も伊吹の顔も、はっきり写っていた。
「オメガ性の方にはつねにこういった危険が伴うことは、理解しております。先に申し上げたとおり、私どもは宮久保家当主、宮久保瀧の代理として参りまして、今からお伝えすることは当主の意向でございます。宮久保伊吹の問題はあくまでも宮久保家内の問題ですから、照井さんが煩わされることはございません。ただ、これを外部に流出させること、また、私ども以外に話すことは、いっさいやめていただきたいのです」
窪井もスーツの男も、グラスにいっさい口をつけなかった。七星はまばたきをするのがやっとだった。窪井は平然と話を続け、男はアタッシェケースからさらに書類を取り出した。
「照井さんにもいろいろ思うことはおありでしょうから、ただ口をつぐんでくれ、と申しているわけではありません。秘密保持誓約書に合意していただければ、こちらを振込ませていただきます」
窪井は文字がびっしり書かれた紙を七星の方へ押しやった。七星は並んだ数字をみて、またまばたきをした。
「条件はこちらに記載してあります。照井さんは蓮様のお知りあいでもあるとのことで、私どもとしても心苦しいのですが、こちらにサインと、それに銀行口座を――」
七星は目だけで書類をなぞった。窪井と男の視線を感じる。リビングの白い壁が狭くなり、息が詰まった。
何も考えられない。どうしたらいいんだろう。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
七星はびくっと顔をあげ、はじかれたように立ち上がった。
「す、すみません」
いつもならリビングのインターホンに出ているところを、出口をみつけた小動物のように玄関へ駆け寄る。宅急便でも何かのセールスでも、何でもよかった。窪井の威圧から逃げ出したいという一心だけで七星はドアを開き――目を丸くした。
「七星君。魚居さんに連絡してもらったが……」
年配のアルファが帽子をとった。
「加賀美さん……」
加賀美光央は涼しげな白麻の上下を着こなしていた。後ろにもうひとり、知らないアルファが立っている。四十がらみで、ワイシャツにネクタイを締め、腕にスーツの上着をかけている。
「この方は鷲尾崎叶、弁護士だ。今回の件で相談に乗ってもらうことにした――七星君?」
加賀美の目が動き、玄関に並んだ靴を見た。
「来客が?」
「あ、あの……宮久保家の人が、ついさっき来て」
加賀美の背後にいたアルファが眉をあげた。加賀美は目を見開いたが、それもほんの一瞬だった。
「間に合ってよかった。入っていいかい?」
「は、はい」
アルファの男ふたりは靴を脱いだ。鷲尾崎は案内しようとした七星を手で制し、リビングにあごをふった。「あそこに?」と小声で聞かれ、急いでうなずく。
鷲尾崎はスーツの上着に袖を通し、先に立って廊下を行った。そのあとに加賀美が続く。七星はふたりのアルファのうしろからリビングをのぞくような形になった。
「失礼します」と声が響いた。
「弁護士の鷲尾崎叶です。今回の件で、照井七星さんの代理人となっております」
窪井が虚を突かれたように鷲尾崎に顔を向ける。加賀美の顔をみて、さらに驚いた表情になった。
鷲尾崎はまったく動じず、内ポケットから名刺を取り出した。
「今後は私までご連絡をくださるよう、宮久保瀧さんにお伝えください。今日はこれでお帰りを」
ふたりのアルファが傲然と見守る中、宮久保家の使いは慌ただしく立ち上がった。書類がアタッシェケースに戻され、蓋が閉じられる。七星はぼうっとその光景を見ていた。窪井と連れの男は鷲尾崎に見送られ、そのまま玄関を出て行った。
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