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第6章 天の川 8.番狂わせの罰
「伊吹さん、あなたはご存知だったかしら。私が賭けを好まないこと」
伊吹の勤務先、分室の応接室に入るなり、宮久保瀧は尖った声で言った。
伊吹は無言で椅子を勧めながら、これまで宮久保家の外で当主に面会したことがあったかどうか、思い出そうとしていた。これが初めてではないだろうか。当主は伊吹の実家を訪問したこともないし、伊吹はいつだって、高台の執務室に呼び出される側だ。
八月九日、平日の午前中。つまり伊吹の勤務中に瀧がわざわざ訪問したのは、宮久保家に出入りする人々に伊吹を呼び出したと知られたくないからだろう。伊吹はこの数日、宮久保家が市内に所持する別宅のひとつで生活していた。もちろん伊吹が望んだわけではない。迎えに来た運転手に連れていかれ、宮久保家の盆行事でもっとも重要な、魂祭の日までここにいるよう命じられた。
別宅には手伝いの者が一人いて、食事の準備その他は本宅の生活と同様に整えられていた。しかし手伝いというのは実際のところ監視係であって、伊吹は運転手による出社のほか、外出もままならないのだった。軟禁も同然だが、伊吹を蓮や他の家族と接触させたくない、という当主の意思が実直に遂行されればこうなるわけだ。だがそのために今、当主の方から伊吹を訪ねることになっているのは、いささか皮肉なことにも思える。
応接室の外には黒服の護衛が待機していた。部下は全員、好奇心ではちきれんばかりだろうが、護衛はお茶を運ばせるのも拒否した。
「好まないというより、私は賭けなどしません。だからあなたを選んだのだけど〈番狂わせ〉がリスクになるとは思っていなかった。でも、起きてしまったことは仕方がないわね」
瀧は白い封筒を伊吹の方へすべらせた。クリニックの検査結果だ。
「よかったわね、伊吹さん。あなたは健康そのもの、性病の心配もなかったし、医師は〈番狂わせ〉は疾患ではないという。でもあなたにこれ以上、蓮を任せることはありません」
「離婚、ということですか」
伊吹は無感動な声でいった。宮久保家と縁を切るというのはつまり、宮久保家に加わることで得たものをすべて手放すことを意味する。伊吹の両親は怒り狂うだろうし、蓮と結婚するのを決めた時の、伊吹自身の望みも断たれる。
それでも伊吹の胸の内は落ちついていた。今は状況がちがう――今はもっと優先すべきことがある。
ところが瀧の返答は伊吹が予想したものではなかった。
「まさか。それはありません」
伊吹は思わず問い返した。
「なぜです?」
「なぜ?」
瀧はオウム返しにいい、伊吹をまじまじとみつめた。呆れた目つきだった。
「当たり前でしょう。どんな理由であっても離婚は蓮の醜聞になります」
「しかし、原因は私の過失です。離婚したところで蓮が責められることはないはず」
伊吹は冷静な口調を保とうと努力したが、瀧の目つきは変わらなかった。
「何をいいますか。これが蓮の汚名にならないと思うの。蓮は名族に生まれたオメガなのに、一般人のアルファに裏切られたのですよ。オメガとしてのあの子の価値に傷がついたことになる」
価値? ひやりと嫌な感じが心をよぎり、伊吹は何かいいかけたが、瀧はさらに言葉を続けた。
「しかも 万が一〈番狂わせ〉が関わっていると知られたら、どうなるかはわかるでしょう。ゴシップ記者やネットで格好の的にされる。ああいう物語が好きなベータのために、蓮が悪く書かれるのは目に見えているわ。そもそも宮久保家には離婚などありえません。それ自体が不名誉なことです。名族会でもどう思われるか……」
最後の話はともかく、蓮が的になるというのはわからなくもない話だった。それに〈運命のつがい〉の話がどこかへ漏れたら、七星まで巻き込んでしまうかもしれない。
「だから離婚はありません。でも、蓮の近くにあなたを置いておくわけにはいきませんし、あなたが勝手にスキャンダルを起こす可能性も捨て置くことはできません。伊吹さんは関連会社に異動して、国外に行ってもらいます」
伊吹はハッと息を飲んだ。
「国外? 待ってください――」
「蓮が同伴できない国なら不自然にはならないし、蓮には次のヒートに合わせてアルファの付き人を選ばせますから、心配はいりませんよ」
伊吹は唖然として瀧を見たが、宮久保家を率いるアルファ女性は平然としている。
「実際考えてみると、あなたを離縁して、他のアルファを蓮のために迎えたとしても、また家内をかき回されるかもしれない。私は外部の男性アルファに息子の夫という立場を与えるべきではなかったのよ。もっと早く気付くべきだった。ただそうね、三城家への援助についてはすこし削らせてもらおうかしら。何のペナルティもないというのもおかしいですからね」
ペナルティ。伊吹の腹の底に冷たいものが突き刺さった。祖父母の家が頭に浮かぶ。
「当主、例の建物と土地の件は……」
不覚にも声がかすれた。伊吹をみつめながら、瀧はかすかに目を細めた。
「あれはそのままにしておきましょう。その気になればどうにでもなります」
その気になればどうにでもなる。
その言葉の意味は明らかだった。伊吹の脳裏に祖父の偉月が残した家が思い浮かぶ。和洋折衷の母屋と、庭に建てられた切妻屋根の書庫。地震で崩れた石塀は修復して、祖父母が生きていた時と同じ姿を保っている。しかし周辺は開発が進み、そこだけ時間が止まったように、古いままぽつんと取り残されたようにも見える。伊吹が宮久保家と取引した結果、そうなったのだ。
「蓮にはこれから話します。番狂わせのオメガのことは話しません。若いオメガは〈運命〉に夢を見がちだから、あの子を動揺させたくないの。魂祭に出席した時はあなたもそのつもりで――」
と、ふいに瀧は片眉をあげ、喉になにかひっかかっているような、奇妙な表情になった。
「代理人と交渉になったのは意外だったわね」
伊吹はそのつぶやきを聞き逃さなかった。
「弁護士を立ててきましたか?」
「ええ。一般人のオメガが名族につてを持ってるなんて予想外だったわ。すぐに片付くでしょうけど」
では七星は自分のメッセージを理解したのだ。この数日で初めて聞いた、すこしだけ心が楽になる知らせ。
感情が揺れたのを悟られないよう無表情を保ったままの伊吹に、瀧は淡々と最後の命令を下した。
「伊吹さん、たとえ国外に出てもあなたは宮久保家の一員です。家名に恥じないふるまいをするように」
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