第6章 天の川 9.風と火と

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第6章 天の川 9.風と火と

 どちらが彰だったっけ?  照井家の仏壇の前に正座して、七星は一瞬わからなくなる。彰と義母の位牌は盆の生花の向こうで、無機質な黒い面を七星に向けている。花は白菊とアネモネ、桔梗と竜胆。清潔だが可愛らしさもあるアレンジだった。彰の叔母が手配したのだろうか。七星はろうそくに線香を近づける。明るいオレンジ色の炎がまとわりつき、細い煙の筋がたちのぼる。  チン、とおりんを鳴らし、手をあわせて頭を垂れる。仏壇の横には写真が二枚並んでいる。パーマをあてた髪の下でぱっちりした目をひらき、笑顔を浮かべている中年女性と、短髪に精悍な眉、角ばったあごをして、まっすぐこちらを見ている青年。  義母の写真は叔母が持ってきたもので、彰の写真は七星のスマホから選んだものだが、何を考えてその写真にしたのか、今の七星には思い出せない。一周忌だったか、いい写真ね、と親戚の誰かがいったのは覚えている。  八月十一日。盆の迎え火にはすこし早いが、棚経の日取りは僧侶と照井家の都合で一方的に決められたし、七星もそれで不満はなかった。ただし、日を合わせて上京するはずだった七星の両親は真夏だというのにインフルエンザにかかったらしく、旅行自体をとりやめた。 「七星君も大丈夫か? 瘦せたんじゃないかね?」  僧侶が帰ったあと、テレビの前で義父の晶久がいう。高校野球の応援を聞きながら、七星はあいまいな笑みを浮かべて「そうですか?」と答える。叔母の美桜は何か足りないものがあるといって、慌ただしく出かけてしまった。 「暑くて食欲ないから、体重落ちたかもしれません」 「異常な暑さだからな。今日はゆっくりしていくのか?」 「いえ、このあと仕事なんです」 「そうか。忙しいところ悪かったね。ありがとう」  仏壇にあるのは七星の夫の位牌なのに、まるで他人に対するような言い方だ、と七星は思う。そして次の一瞬はたと気づく。実際のところ、晶久にとって七星は他人なのだ。息子のあまり長くない人生に、ほんの数年関わった人間にすぎない。  自分はもう、ここにいなくてもいいのかもしれない。  突然浮かんだ思いに七星はハッとする。彰とつがいになってから、照井家――彰の実家――は七星が属する場所のひとつだったはずで、彰が死んだあとも、その「居場所」の感覚は七星にずっとつきまとっていた。年に数回この家に来て、彰の遺影に対面するたび、自分の居場所はまだここにあると思ってきたのだ。それは七星にそこはかとない安心を与え、同時に重苦しさや不自由な感覚ももたらしていた。  七星は仏壇の方へ首を巡らせる。遺影の中の彰の目は、七星には向いていない。  ――もう、終わってもいいのかもしれない。 「駅からここまで暑かっただろう」  義父がテレビをみつめたままいった。 「ええ、まあ」  七星はうなずく。実はアウクトス・コーポレーションの境一有に照井家の近くまで送ってもらったのだが、口には出さなかった。どう説明すればいいのかわからなかったし、照井家の人々に、自分がトラブルの渦中にいるとも思われたくなかった。同じ理由で、実家の両親にも何も話せないでいる。  境一有には「普通に生活してください」といわれていたが、外出する時は今日のように送り迎えをしてもらっていた。今も近くで待機しているのだろう。  宮久保家との交渉は鷲尾崎弁護士が引き受けたから、この数日七星の周囲はひどく静かだった。しかし七星には、これで物事が平常に戻りつつあるようにはまったく思えない。むしろこの静けさは、これから起きる嵐を準備するもののように思われて仕方ない。 「お、打った」  義父は無感動な声を出した。七星は白球を追う歓声を聞きながら、しびれかけた足をそっと崩した。 「伊吹、どういうことなの?」  三城家の玄関をあけたとたん、まるで狙いすましたように母親の鋭い声が飛んできた。  伊吹は黙って靴を脱いだ。靴脱ぎにはサンダルや革靴が乱雑に散らばり、靴箱の上の壁には日めくりがかかっている。幸運を呼ぶといって、毎年母親がどこからか手に入れてくる暦だ。  八月十三日。  靴をそろえて振り向くと、廊下のいたるところに雑多なもの――新聞紙の束や靴箱や、チューハイの空き缶でいっぱいのビニール袋などが置いてあった。法要で蓮と共に来た時はこんな状態ではなく、きれいに片付いていたはずだ。だが本当は今のような状態が三城家の「当たり前」である。前に来た時はきっと、蓮にこんな状態を見せたくなくて、業者の手を借りたにちがいない。  母親の瑠璃は廊下の先で伊吹をにらみつけていた。父親の伊織がそのうしろにあらわれて顔をしかめる。 「帰ったのか」 「お盆ですから、顔出しは必要だろうと、当主が」 「顔出し? 何をいってるの。あなた宮久保家で何をしたの?」  伊吹は黙ったまま両親の視線を受けとめた。どちらも伊吹より背が低く、正面から向き合うと自然に見下ろすかたちになる。伊織の頭髪はすっかり薄くなり、隙間に脂ぎった頭頂が見えている。瑠璃は化粧した顔に汗をかいていた。暑さのせいかもしれないし、怒りのせいかもしれなかった。 「先にお線香をあげていいですか」 「それより説明しなさいっていってるの。私も嘉織も大変なことになってるのよ!」 「嘉織は来ていないんですか?」 「そのうち来るわよ。でもこのままじゃ、結婚式や新居の計画が完全に――」  母親の言葉に伊吹は取り合わず、黙って畳の仏間に行った。おざなりに飾られた花や供え物をながめ、正座してろうそくに火をつける。線香を立てて手をあわせたものの、プログラムされた動作をこなしているような気分だった。ここには何もないのだ、という言葉が心に浮かんだ。たしかに仏壇の奥には祖父母の位牌が置かれているが、あんなものはただの記号にすぎない。  伊吹はろうそくを消し、仏間を出た。敷居のすぐ向こうで瑠璃が待ち構えていた。 「いったい何をしたの」 「詳しいことは話せません」  リビングのソファに腰をおろして、伊吹は淡々といった。母親の目がきっと吊り上がる。 「どうして?」 「宮久保家以外の人間には話せないんですよ」  嘘ではなかった。両親であっても今回のことを一切話すなと、宮久保瀧は念を押したのだ。実際伊吹にも、その理由はよくわかった。今回の件がマスコミに漏れたとしたら、三城家の両親は第一容疑者になるだろう。 「そのくらいわかるでしょう。今の俺は宮久保伊吹ですから」  口に出してから、自分のことを「俺」といったことに気づく。ふいに何年も時が巻き戻ったような気がした。 「それにお母さんたちの口座がどうなっているのか、俺は何も知りません。結婚した時の取り決めはわかりますが、そのあとはお母さんが勝手にやっていることだ。当主も具体的なことはいちいち話したりしません」 「それでも、()()()()()()()()」  瑠璃はひとつひとつの音を区切るようにいった。 「私も嘉織も困っているのよ。お父さんだって」 「どうして困るんですか。あるものでやっていけばいいでしょう」 「だけどあの子は――」  母親は何かいいかけて口をつぐんだ。伊吹は父親が肩をすくめるのを見た。 「どうしたんです? 嘉織がまた何か……」 「何もない」  瑠璃は首を横に振る。 「今のは気にしないで。嘉織はいつもちょっと運が悪いのよ。それにおまえのように、困ったときに都合よく助けてくれる人は嘉織にはあらわれないの。あの子はベータだし、私たちしかいないんだから」  それはどういう意味ですか。喉まで出かかった言葉を伊吹は飲みこんだ。 「でもお金の話なら……」  慎重に言葉を選ぶ。 「あの時は嘉織のために使ったでしょう。例の負債は全額返したじゃないですか」 「当たり前よ! あの子は騙されたんだもの。おまえとおなじアルファにね」  瑠璃は奇妙にギラギラした目で伊吹を見た。 「いつもそうなのよ。おまえみたいなアルファがいるから、あの子はいつもうまくいかない」  伊吹はため息をつくのをこらえた。弟の嘉織は学生時代、友人だと思っていたアルファにそそのかされ、マルチ商法に多額の金をつぎこんだ。家族がそのことを知った時は、雪だるま式に膨らんだ負債は、学生はおろかふつうの勤め人であっても簡単に返せる額ではなくなっていた。  祖父から相続した金融資産を返済にあてるよう両親にいわれたとき、伊吹は反対などしなかった。その金は登録文化財となった不動産の維持管理にあてるべく、用途を限定して伊吹に遺されたものだったが、もちろん嘉織を助ける方が先だ――と、その時は思ったし、今も後悔はしていない。  祖父は遺言で資産を分配した。金融資産のほとんどは息子の伊織が相続したが、維持費の必要な家と土地は孫の伊吹の名義になった。伊織が相続した金がどこへ消えたのか、伊吹はたずねなかった。聞いたところでしかたがないと思ったのだ。  だが嘉織の金銭トラブルは、その一度に留まらなかった。嘉織が困った顔をしてこの家に帰ってくるたび、両親は――とくに母親の瑠璃は、彼の悩みを聞きだし、半狂乱になりながらも解決策を考える。  伊吹はいつも不思議な気分でその様子を眺めていた。自分がどうしようもない事態に陥ったときも、瑠璃と伊織がそんなふうに必死になってくれるとは、なぜか思えなかったからだ。 「俺にもやれることの限界はあります。嘉織だってもう学生じゃない。社会人なんだし、どうにかするでしょう」  そういったとたん、伊織がじろりと伊吹をみた。 「母さんがああいうのはおまえの不始末のせいだ。なぜそうやって偉そうにしている」 「俺は別に――」 「何が限界はある、だ。三城の財産を独り占めしているのはおまえだぞ。嘉織や母さんを助けたいなら、すぐにでもやれることがあるだろう。この際だ、例の家と土地を処分」 「しません」  大声を出すつもりはなかったし、出したつもりもなかった。それなのに伊吹の声は部屋いっぱいに響きわたった。その場を支配し圧倒するアルファの声だ。瑠璃の目は奥に引っ込んだように見え、伊織の肩はしゅんとすぼまった。 「……好きにすればいいさ」  伊吹は立ち上がった。 「戻ります」  父親も母親もソファの上で小さく縮んだように見えた。大股で戸口へ向かいながら、冷静になれ、と自分にいいきかせた。これでも家族なのだから、と思った時、瑠璃がぼそぼそとつぶやくのが聞こえた。 「お義父さんがああいったから私たちの子にしたのに、まったく……」 「おい、やめろ」  ()()()()()()()()。  敷居の上で伊吹は振りかえった。 「お母さん。今のはどういう意味ですか」  夕闇が迫るなか、小川のほとりで小さな子が甲高い声をあげている。蓮はテントの下に設えられたベンチに座り、女たちがぺちゃくちゃおしゃべりをしながら焚火をかきたてたり、柿の葉に五目飯を盛るのを眺めていた。  八月十四日。先祖の霊についてやってくる無縁仏を供養する盆釜の行事は、他の地域では川原や道端で行うものだという。だが宮久保家では毎年、敷地の一角をこのために解放するのが習わしになっていた。  三性の区別などいっさい気にしない年頃の小さな子供たちが母親とともにやってきては、木陰に敷いた赤い毛氈の上でままごとをし、駆けまわって遊んでいる。幼児に人気のキャラクターをかたどった氷の像があちこちに立てられ、耐えがたいほどの暑さを和らげようとしていた。  蓮はぼんやりその光景を眺めながら、数日前、姉の志野に聞かされた話を頭の中で繰り返していた。 (お母様は蓮に話してないみたいだけど、それってやっぱり変だと思ったの。だって蓮と伊吹さんは結婚してるんだから――)  伊吹が他のオメガと会っていた。  最初にそう聞いたとき蓮の心をよぎったのは、自分でも意外なほど不愉快な気分だった。  たとえばそれは、背中に泥をかけられたまま歩き回っていたことにひとりになってから気づいた時のような不愉快さだった。そして蓮に泥をかけたのは、絶対にそんなことをするはずがないと思っていた人間だった。  最近伊吹の姿をみないのは、それを知った当主が伊吹を別宅へやったからだという。 「それ、どうしてわかったの」  蓮がたずねた時、志野はすこし答えをためらったが、結局は教えてくれた。 「武流さんが気づいたのよ。すこし前から伊吹さんの様子が変だと思っていて、証拠をお母様に提出したって。先月の花筐会に伊吹さん、いなかったでしょう。あの時もそのオメガに会っていたらしくて……」  武流が?  小さくため息をついた志野をよそに、たちまち蓮の気分は別の方向へ傾いた。 「どうして武流兄さんが?」  前のめりにそういったオメガの弟を、アルファの姉はなぐさめるようにみつめた。 「見過ごせなかったのかな。軽そうにみえて、案外しっかりした人だし」  姉が武流についてそんなふうに論評するのは意外なことだった。数年前まで、志野はどちらかといえば武流に批判的で、軽薄だと非難していたこともあったはずだ。だが蓮の意識はそれよりも、証拠という言葉にひっかかっていた。 「証拠っていっても、お母様は中途半端な情報を信じる人じゃない」 「だから、中途半端じゃなかったってことでしょう」 「探偵でも雇ったってこと? どうして武流兄さん、そこまで調べたの?」 「許せなかったのかも。蓮を裏切るなんて」 「僕のためってこと?」  志野の手が蓮の髪をそっと撫でる。姉たちは今も時々、蓮を小さな子供のように扱うことがある。 「武流さん、苗字は春日だけど、昔から宮久保の一員みたいなものじゃない? 蓮のことだって小さい時から知ってるし、だからよ」  僕のため。僕のために武流はそこまでやったのか。  赤い毛氈をみつめながら志野との会話を思い起こし、蓮は口もとに小さな笑みを浮かべた。よく考えてみれば、伊吹に裏切られたことよりも、武流が自分を気にかけてくれている、その事実の方がはるかに重要なことではないか。  伊吹がこのあとどうなっても、蓮にはどうでもいいことだった。もし瀧が離婚すべきといったなら、一もニもなく同意するだろう。  離婚。  そうだ、これで伊吹と離婚したら――蓮は顔をあげ、あたりを見回した。ひとつの可能性が頭に浮かび、心臓がドキドキと脈打ちはじめる。  ひょっとして、武流は自分と結婚するためにそこまでやったのでは?  そう思うとじっとしていられなくなり、蓮はベンチから立ち上がった。  明日は武流も本家に来ることになっている。八月に入ってからどうもタイミングがあわず、一度も会えなかったから、久しぶりのことだ。この数日は電話もうまくつながらず、留守番電話にメッセージが残されているような状態だった。志野と話をしたあともそうだった。だから蓮は明日を待ちわびていたのだが、ドキドキとはやる胸を抱えていると「もうすぐ」という言葉を信じられなくなった。  今すぐ武流に会いたい――会わなければ。  蒸し暑い夏の夕暮れのなか、信号が赤くなり、青くなる。  黒い乗用車がオフィスビルの前で止まる。運転手が後部座席のドアをあけると、細い人影が飛び出すように車から降りる。  ガラス扉が押し開けられる。そっけないゴシック体で『株式会社エス・エー・エー』とある。人影は進みかけて、また車の方を振り返る。運転席の窓を叩き、何かささやいてきびすを返すと、ガラス扉に駆けこんでいく。  黒い乗用車がゆっくり発進する。  ビルの向かいの駐車場には白いワンボックスカーが止まっている。車体にプリントされているのは「水のトラブルお任せください」それに店名と電話番号だ。帽子をかぶった男がひとり、向かいのビルを注視している。盆休みの今、道路を通る車はまばらで、歩行者は皆無だ。  ワンボックスカーの運転席で、帽子をかぶった大男が身じろぎする。ビルのガラス扉が開いたのだ。  人影がふたつあらわれる。細身の小柄な影と、それより大きな影。小柄な影が伸びあがるようにして大きい影にすがりつく。すると大きい影は小柄な影に腕を回す。仲睦まじいことこの上ない。  ワンボックスカーの中では、大男が小さなカメラをかざしている。  寄り添ったふたつの影は一台のスポーツカーに乗り込んでいく。だがその直前に、カメラのレンズは熱烈な抱擁と重なりあう唇をはっきりとらえる。 「……まじかよ」  信号が青に変わる。スポーツカーが道路へ滑るように出ていく。大男はカメラをダッシュボードに置き、ハンドルを握る。十分な距離をとってスポーツカーのあとに続く。 「こちら木谷。春日がオフィスを出た。宮久保蓮が乗ってる」  まっすぐ前を向いてそういったとたん、ホルダーに置いたスマホがグリーンに光った。 『宮久保蓮が?』  いぶかしげな声がいう。 『自分でそこまで運転してきたのか?』 「いや。宮久保家の運転手を帰して春日の車に乗ったんだ。いっちゃん、一大情報があるぜ」 『なんだ?』 「あのふたり、できてる」 『……まじかよ』 「同じ反応だな」  大男はにやりと笑い、通話を終えた。
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