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第6章 天の川 10.蝉時雨
朝の十時にもならないのに、墓地には残酷な日差しが降りそそいでいた。
寺院との境界にそびえたつ楠の木から蝉の鳴き声が響きわたる。伊吹は供花と手桶をさげて、霊園の端にある三城家の墓まで大股に歩いていった。
何気なく振り返ると、ここまで伊吹を連れてきた運転手の姿はどこにも見えない。きっと車中に避難したのだろう。伊吹がどこにも逃げようがないのは明らかだから、見張る必要はないと判断したのだ。
八月十五日。まだ盆休みの最中だが、宮久保家当主からは、昼の会食とその後の盆行事に出席するよう指示が出ている。伊吹は早々に宮久保家へ戻らなければならなかった。
もとより気は進まないが、それ以上の苛立ちを感じているのは蝉の声と暑さのせいか。この三年、伊吹は義務をこなすことを厭わずに生きてきた。自分の選択は正しいと信じていたし、選択が正しかったのだから、何が起きても自分は傷つかないと、どこかで信じてもいた。
もしかしたらそれにも限界はあるのかもしれない。
「私たちの子にした」とはどういう意味だ。一昨日そうたずねた伊吹に、伊吹の母親の瑠璃はこう答えた。
(今さら何をいってるの? 前から知っていたでしょう。お義父さんが話したにちがいないわ。なのにいつも平然とした顔で私を馬鹿にして。戸籍で宮久保家もわかってるでしょうけど)
(戸籍?)
(特別養子縁組も戸籍をみればわかるの。民法何条とか、但し書きがついてるわよ)
ようやく伊吹は思い出した。蓮と結婚する前、宮久保家が求める書類を取り寄せたとき、戸籍謄本に違和感を覚えたことを。だが戸籍自体が伊吹には見慣れない書類だったし、急かされていたのもあって、そのまま宮久保家の弁護士に渡してしまった。
伊吹は絶句して瑠璃を見返し、それでやっと向こうも伊吹の当惑に気づいたようだった。父親の伊織が何かいいかけたが、伊吹は聞かなかった。逃げるように実家を出たからだ。その足で戸籍謄本を取り、滞在中の別宅に戻った。
それから丸一日が過ぎ、今の伊吹はただひたすら、蝉の声がうるさかった。
歩きながら見知らぬオメガを想像した。きっと望まない妊娠をしたオメガだ。アルファの赤ん坊は乳児院に引き取られ、それからベータの夫婦の長男となる。特別養子縁組をすれば法的には実子と同じ扱いになる。とはいえ養親になるのは簡単なことではない。ネットでざっと調べるだけでもそれはわかった。伊吹の両親――伊織と瑠璃にしたところで、それなりの覚悟があったはず。だがそれから二年とすこし経ち、夫婦のあいだに子供が生まれる。自分たちとおなじベータの子供。一方、よちよち歩きの幼児の頃は目立たなかったアルファの長男の特質は、成長するにつれてはっきりしはじめる。そのちがいは次第に両親を苛立たせるようになってくる……。
(お義父さんがああいったから)
(お義父さんが話したでしょ?)
この想像に祖父はどう関係してくるのだろう?
伊吹は三城家の墓石の前で立ち止まる。つい最近掃除をしたらしく、まったく荒れていなかった。花立に持ってきた生花をさしながら、祖父母の家の管理を頼んでいる湯浅儀一を思い出した。このあと自由に動けるのなら、この足で祖父母の家に行き、湯浅に会いに行くところだが、今日はそれもままならない。しゃがんで線香に火をつける。立ち上る煙をみつめるうちに、伊吹の心はまたさまよっていく。
瑠璃は伊吹が知っていると思い込んでいたが、祖父母は伊吹にそんな素振りを見せたことは一度もなかった。とはいえ、戸籍については自分で気づいてもよさそうなものだ。少年のころから、なぜ自分は家族のなかでひとりだけ「ちがう」のだろうかと不思議に思っていたのだから。
違和感を持っても調べなかったのは、知りたくないと無意識のうちに思っていたのかもしれない。
宮久保家は伊吹の忠実を買うことにしか興味がないから、知っていても問題にしなかったのだろう。自分ひとりが蚊帳の外だったわけだ。
父親には似ていなくても、祖父には似ていると思っていた。
これもただの願望にすぎなかったのか。
(近いうち関連会社に異動して、国外に行ってもらいます)
宮久保瀧の言葉が頭をよぎった。宮久保家の道具として使われてもかまわないと思っていられたのは、守るべきものがあったからだ。守るべきもの――
今の俺にとって、守るべきものは何だ。
伊吹は首筋をしたたる汗をぬぐい、線香の火を消した。蝉の鳴き声はさっきより激しくなっている。うだるような暑さの中で、なぜかどしゃぶりの雨の中に置き去りされたような気分だった。
すぐ近くで蝉が鳴いているようだ。窓を閉め切ったマンションの中にもジージ―と響いてくる。
『ごめんね、七星。十三日、そっちに行けなくて』
スマホから母親の未来の情けない声が聞こえる。まだゴホゴホと咳をしながら、真夏にインフルエンザにかかるなんて、と嘆いているのだ。七星はスマホを耳に押し当てていった。
「その声、まだ治ってないんでしょ。気にしなくていいよ」
『ユーヤにも行きたかったのに……近いうちに機会を作るから。祥子さんにもよろしくいっておいて』
「うん、わかった」
『七星も病気してない? なんだか元気ないわよ』
「なんで? そんなことないよ?」
すこし声のトーンを上げてから、無理に明るくするのも変だと思い直す。
「忙しいからね、疲れてるのかも」
『やっぱりそうなの? 気をつけなさいよ。今日は仕事?』
「あ、うん。そんなところ。じゃあね」
七星はスマホをポケットに戻し、リビングに戻った。ソファに座っている鷲尾崎叶と境一有に「すみません、わざわざ来てもらったのにお待たせして」というと、ふたりは揃って感じのいい笑顔を返した。
「まさか。ただの中間報告ですから、お気遣いなく。それでははじめましょうか」
宮久保家を揺さぶる材料が集まってきたので、知らせておきたいというメールが来たのは昨夜おそくだった。母親にはああいったが、今日はシフトのない日である。そう話したら七星の自宅まで出向いてくれたのだ。
外は猛暑だというのに、アルファの鷲尾崎は今日もスーツを着ていて、ベータの境一有は濃いブルーのシャツにネクタイ姿だった。七星は何気なく視線を落とした。ふたりとも細い金の指輪をつけている。オメガ独特の嗅覚のために、鷲尾崎につがいがいないのは何となくわかる。それでも指輪をはめているということは約束した相手がいるのだろう。
伊吹がいつも指輪をはめていたことを思うと胸の奥がずきりと痛んだ。七月末の出来事が陥れられた結果だとしても、四月末のあれは七星の落ち度だ。
鷲尾崎の話を聞いているあいだも、勝手に手が首のうしろをさすろうとしているのに気づいて、七星はあわてて腕を組む。今日は七星も半袖シャツ姿だ。この二週間というもの襟のある服しか着ていないのは、うなじを不用意にさらさないためだった。
二週間たってもまだ、押し当てられた伊吹の唇の感触を、甘い痛みをありありと思い出せる。もう二度と会えないかもしれない――会えなくてもしかたないというのに、夜になって枕に頭を乗せると、うなじの傷がひそやかに疼く。せめて声を聞くことができれば――
「大丈夫ですか?」
境一有が心配そうに七星をみつめていた。だめじゃないか、と七星は自分を叱った。こんなときにうわの空になるなんて。
「は、はい。すみません……」
「安西徹については調べがついています。犯罪に関与している可能性が非常に高い男で、警察に情報を提供しました。春日が動画を彼から手に入れたことを宮久保家が知っているかどうかはこれからさぐりを入れます。ところで、照井さんは宮久保蓮と春日武流の関係についてはどう思われましたか?」
七星はきょとんとした。
「宮久保さんと春日さん? 従兄弟同士ですよね?」
(従兄は広告会社のシニアディレクターでさ、いろんな界隈に顔が広いんだ)
「そういえば……宮久保さんが何度か春日さんの話をしていました。宮久保さんを車で迎えに来たこともあった気がします。仲が良さそうというか、宮久保さんがすごく……慕っているように見えましたけど」
「昨夜こんな報告があがってきたんです」
引き延ばされた写真が七星の前に置かれた。何枚もある。ビルの前で抱きあうふたり。そのまま唇をあわせているふたり。助手席から身をのりだして、また抱擁とキスをくりかえしている。助手席は宮久保蓮、運転席には春日武流。
カタカタ、とリビングのテーブルのテーブルが鳴った。自分の震えるこぶしがテーブルを叩いているのだと七星が気がつくまで、すこし時間がかかった。
「つまり宮久保さんは……伊吹さんを裏切っていた?」
「いつからこうなったのかはわかりませんが、昨日今日の関係には見えない」
七星は写真をみつめていた。自分がいま何を感じているのか、よくわからなかった。目の奥がひどく痛かった。これは伊吹が感じるべき痛みではないだろうか。沈黙に覆われた部屋の中にまた蝉の鳴き声が忍びこんでくる。
(第7章「糸のゆくえ」に続く)
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