家に誰かいた?

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 僕の手は震えが止まらなくなり、止まっている先生の指先が指している女性の姿がブレた。はっきりと細部まで見えないその姿は、ますます不気味なものにしか思えない。  しかし、僕の家に誰かが存在しているのが本当なら、僕は一刻も早く家に帰らなくては。 「先生。僕。帰らないと。すぐに」  慌てて席を立ち帰ろうとする僕の肩に、立ち上がった先生は手をかけた。そして僕の目を覗き込みながらゆっくりと左右に首を振る。 「ちょっと待ってください。わかります。帰らなくてはいけない気持ちもすごくよくわかります。でも、ちょっと落ち着きましょう。と言っても、落ち着けるわけないという気持ちもわかります。だからほんの少しだけ、僕に時間をくれませんか?もう一度その動画を確認するだけの時間だけでも……」  一刻も早く家に帰りたい僕は肩に置かれた先生の手をなかったもののようにして、診察室から飛び出した。  誰が。誰が僕の家に。不審者。いつから。昨日僕は一日中家にいた。カギの確認だって、窓の確認だって何度も何度も何度も何度もしたはずなのに。一体どこから?いや、それよりも前から僕の家にいたんだろうか。いつから?ずっと?僕の家に?  駅まで歩きながら、僕はスマホの動画を再生する。何度か誰かにぶつかったような気がするけどそれどころじゃない。  家を出てから診察室であの動画を見るまで、僕は何度か動画を再生してチェックを行っていたはずだ。その時は確かに誰も映ってはいなかった。  ほんとうに?  鍵やガスのチェックに気を取られすぎていて、気が付かなかっただけなのかもしれない。現に先生に指摘されるまで、僕はあの場所に誰かが座っていることに気づいていなかったのだから。  ちょうど赤信号で足止めされたとき、あの女性が移っている場面に到達した。僕は足を止め、動画を一時停止する。確かに映っている。僕の家のソファに座っている長い髪を顔の前にたらした女が。  なんだなんだなんだ。この女は。  全身にじっとりと汗が滲む。手からスマホが滑り落ちないようにしっかりと力を込め、もっとよく見えるように画面に顔を近付ける。額を伝った汗が見開いた目に流れこみ、その激痛で何度も目を瞬いた。するとどうだろう。  僕が目を閉じ、開くたびに画面に占めるその女の面積が大きくなっているような気がする。  まさかそんなことがあるわけない。  でも画面の中の人物は確かにゆっくりとこちらに近付いてきているのだった。  僕はゴクリと唾を飲み込んだ。カラカラになった喉は飲み込んだ唾ではこれっぽっちも渇きが癒えなかっただけでなく、その音を最後に僕の周りから音が消えた。  静寂の中、僕と向かい合う距離まで近付いてきていた画面の中の女の口が動いた気がした。 「ひさしぶり」  音の消えた僕の耳にその声は、これでもかというくらいはっきりとよく聞きとれた。  久しぶりってなんだよ。ていうか、お前は誰なんだよ。  そう叫んでやりたかったけど、僕は頭の中でその言葉を繰り返すことしかできない。  そんな僕の頭の声が聞こえているかのように、画面の中の女は言葉を続ける。 「そんなこと言わないでよ。ねえ。せっかく会えたんだから」  うつむいていた女が少しずつ顔を上げていくと、顔全体を覆っていた髪の毛が割れて下のほうから順番に女の顔を露出していく。  女の顔がこちらに向き切ったとき、八の字に割れた前髪はまだ女の両目を隠したままだった。それでも髪の隙間からちらちらと見え隠れする目からは喜びのようなものが見て取れた。 「私に黙ってどこかに引っ越してしまったあなたを探すの、本当に大変だったんだから。でもね、本当は簡単なことだったのよ。それに気が付くまで何年もかかっちゃったけど」  そういうと青白い顔に引き立てられた真っ赤な唇の端がにいっと上がった。  黙って引っ越した。その言葉で僕は学生時代に付き合っていた彼女のことを思い出した。この女はあいつなのか? 「ほんと、どうしてすぐに思いつかなかったんだろう。気が付いたときは本当、つくづく自分が嫌になっちゃった。だからあなたも私から離れていったんでしょ?ごめんね。愚図な女で」  僕の知っていた彼女はショートカットの地味な女だった。いくら断っても付きまとってくる彼女から逃げ出したくて、僕は彼女にかなりひどいことをした。僕が屑で彼女が求めているような男じゃないことを知れば、彼女のほうから離れていってくれるだろうと。  殴る蹴るはもちろんのこと、彼女には思いつく限りの暴言を吐き続けたし、何度もお金を巻き上げた。  はじめはなんでも言うことを聞く彼女をいたぶるのが楽しかった。しかしそれもしばらくすると快感より彼女に対する嫌悪が勝るようになってきて。そしてその後は畏怖の念を抱くようになってきた。  気味が悪い。  奴隷のような扱いをされても、どこか幸せを感じているような目をする彼女は、僕にとってとてつもなく都合のいい女のはずなのになんだか怖い。じっとりとねっとりとしたドロドロの奥底に不気味に光るなにか。牙をむいてくるような怖さではない、なんというか。何ともいえない気味の悪さ。  あの気持ち悪さと同じ類のまとわりつくようなオーラが僕のスマホの画面から流れ出してきて僕の手を伝い始めた。 「でも安心して。私は変わったの。あなたがあきれるほど馬鹿だった女はもういないの。だから。ね。また一緒に仲良くやっていこう」  一緒にだって……? 「そう。愚図でノロマで馬鹿な女は私の肉の塊と一緒に海の底に置いてきたの。私はあなたの望む女になったのよ。だから、今の私と一緒になれば、どれだけ私があなたにピッタリな女かわかってもらえると思うわ。あなたがずっとずっと私に厳しかったのは、私に代わってほしかったからでしょう?もっと自分好みの女になってほしかったからこそなんでしょう?好きの反対は無関心っていうもんね。私、知ってるもの」  僕は女から逃げ出したくてスマホを投げ捨てようと思いっきり手を振り下ろした。  しかしスマホはぴったりと僕の手に張り付いていて離れない。なんで。どうして。パニックになりながらスマホを持っていた手を見ると、スマホから青白い骨ばった女の手が飛び出していて、僕の手首をがっちりと握りしめていた。 「うわぁぁぁぁぁぁ」  半狂乱になりながら僕はスマホを持った手をぶんぶんと振り回す。と、その時。僕の身体が宙を舞った。ゆっくりゆっくり回転する街並み。交差点。どんどんと近付いてくるアスファルト。横断歩道が白の大地にまで拡大されたその時、時間が加速しはじめ、ズシャッと地面に投げ出された音を合図に僕の世界に音が舞い戻る。ざわめく人々の声。けたたましく鳴り響くクラクション。  いつの間にか僕の手から離れていたスマホが仰向けに横たわる僕の上に振ってくるのが見えた。画面の中身なんて見えない距離、見えっこない速さで顔面に落ちてくるスマホの中で、あの女は満足そうに笑っていた。 <終>
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