訪れる春のこと(西岡side)

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訪れる春のこと(西岡side)

 軽くシャワーを済ませた西岡は自宅のリビングで缶ビールを飲みながら今日の卒業式を思い返していた。  とても良い式だったと思う。今年は三年生の授業を担当していたこともあり、教師として感慨深いものがあった。そしてなにより橘も今日無事に卒業式を迎えることができた。  卒業生の入場の時、列の中から見つけた橘はとても晴れやかな顔をしていたがが、退場のときには笑顔に涙が浮かんでいた。その様子に西岡の胸も熱くなるものがあった。  初詣のときに橘と偶然会ってから、橘とは一回も話していない。接触を控えていたのは教師としてのけじめと、受験を控える橘の邪魔をしないためだった。それに加え新学期に入ってからは三年生は自由登校になり会う機会は殆どなかった。しかし学校で姿を見かけるときはいつも、橘と無言で目があった。二秒見つめ合ってそらされる視線。他に人は気づかないであろうその短い時間にお互いの熱が伝わり合う。  その時の光景を思い出し西岡は橘への思いを一層募らせた。  橘とは卒業式の日に返事を聞く約束になっていたが、その日は朝から夕方までみっちり予定が詰まっていることを西岡は新学期が始まってから知った。卒業式とホームルームが終わると卒業生達はホテルの宴会場を貸し切った慰労会に参加し、その後はクラス毎の打ち上げが行われる。ホテルへは移動もあるので卒業生の自由な時間は意外と少ない。  西岡は橘に全部終わってからゆっくり会いたいと連絡していた。最後の高校生活を橘に楽しんでもらいたかったし、会えば離れがたくなってしまうと思ったからだ。  西岡は自分のスマホを取り出しメッセージアプリを立ち上げて橘とのやり取りの画面を開いた。橘からは『わかりました』というテキストメッセージとシュンと落ち込んでいるクマのスタンプが送られてきていた。約二四時間前に送られてきたこのメッセージを見ると西岡は思わず頬が緩んでしまう。橘も会いたいと思ってくれていることが嬉しい。  慰労会が一六時に終わり、その後は片付けなどの雑務を手伝い西岡は学校には行かずにそのまま帰宅した。今の時刻は一九時になろうというところ。  今頃橘はクラスの打ち上げに参加しているのだろう。橘のクラスは駅前のファミレスで食事をした後カラオケに行く予定だと、慰労会の会場で生徒が話しているのを小耳に挟んでいた。  カラオケが終わるのはいつ頃だろうかと、追加の缶ビールを冷蔵庫から取りながら西岡はぼんやりと考える。  最後のクラスメイトとの交流を今頃楽しんでいるのだろうか。缶ビールを開けながら西岡はソファに座り、テレビをつけた。画面には生徒達の間で流行っているお笑い番組が映し出される。西岡は暫く画面を眺めていたが五分程でテレビを消した。無意識でスマホを起動しメッセージアプリを立ち上げると、もう何度も見ている橘からのメッセージを見た。今頃クラスメイトと羽目を外しているんだろうか……。  西岡はソファから立ち上がり持っていた缶ビールを飲み干すと、寝室に向かった。服を仕舞っているクローゼットから黒のダウンジャケットを取り出すと、着ていたるグレーのスウェットのセットアップの上に羽織った。  スマホと加熱式タバコを上着のポケットに突っ込み玄関に向かう。ここから橘がいるであろうカラオケまではそう遠くはない。別に橘に会おうとしているわけではない。一瞬でも元気そうな顔が見れたら……ただ橘への思いが西岡の足を動かしていた。    橘がいるだろうカラオケ店に着いた西岡は何をするわけでもなく、向かい側の公園の花壇に腰を掛け加熱式タバコを吸っていた。火をつけてから生徒に見られたらまずいと気づきダウンジャケットのフードを被ったが、傍から見たら不審者のように見えるかもしれない。  一本吸い終わったら帰ろうと心に誓い、既に三本目に手を伸ばしている。あまり見過ぎると店員に怪しまれるかもしれないので何気ないフリを装いながら店の入り口を確認する。  カラオケ店の一階は受付だけのようで、カラオケの個室は二階から上の階にあるらしい。そのためか出入りする客以外の姿はなかなか現れない。  橘達が何時間いるつもりかはわからないが、この様子だとフリータイムの可能性もある。それに今更だが橘に会ったらなんと説明すればいいのだろうか。ずっと出てくるのを待っていたなんて言えるはずもない。  西岡は今度こそこれで最後にしようと心に決め、タバコをつけた。店の入り口を見ても今は客も店員も一人も見当たらない。  仕方がない、邪魔をしたいわけではない。最後にメッセージだけでも送ろうとスマホを開いてアプリを起動する。文章を打ち込もうとするが、キーボードを打つ指が進まない。『クラスの打ち上げは楽しかったか?』と送ろうか。それとも『落ち着いたら連絡が欲しい』と送るか……。スマホの画面と睨めっこをしていると、少し離れたところから控えめな声が聞こえて来た。 「先生……?」 「橘……」  西岡がスマホの画面から顔を上げると、西岡の顔を見た橘が安心したような笑みを浮かべ小走りで駆け寄って来た。 「誰かいるなーと思って見てたんですけど、びっくりしました」  「あ―、散歩してて……ここでクラス会だったんだな」  西岡の咄嗟の言葉に橘は「散歩でこんなところまで?」と不思議そうにしていたが、西岡は構わず話を続けた。 「クラス会おわったのか?」 「いや、俺だけ先に帰ろうと思って」 「そうか、この後は何かあるのか?」 「西岡先生に会いたくて」  橘が「我慢できずにでてきちゃいました」と西岡に笑いかける。冷たい夜風に晒された鼻がすこし赤くなっている。西岡はその鼻に触れたい衝動に駆られながら、なるべく大人な態度を勤めた。 「そうか……。どこか飯行くか? でも腹は減ってないよな」 「……先生の家行きたい。親には友達の家に泊まるって言った」  西岡が驚きながら橘を見ると、自分で言って照れたらしい橘は俯いてしまう。サラリと流れる髪の隙間からほんのり赤く染まる耳が見える。西岡はぎこちなく橘の手を取った。 「じゃあ、一緒に帰ろう」  西岡は自宅の玄関扉を閉めながら、先に靴を脱いで上がっている橘の様子を眺めていた。緊張しているのかキョロキョロしながら短い廊下を歩いている。リビングに着くと部屋の隅に荷物を下ろして廊下に戻ってきた。 「手を洗っていいですか?」 「もちろん」  脱衣所に消えていく橘を見送ってから西岡もリビングに移動した。スマホと加熱式タバコをローテーブルの上に置くと、ダウンジャケットは適当にソファの上に放った。  キッチンで空き缶を片付けるついでに手を洗っていると橘がリビングに戻って来たが、そのままどこに座るわけでもなく立ち尽くしていた。  西岡はゆっくり橘に側まで歩いていった。橘がゆっくりと西岡を見上げる。抱きしめたい気持ちを抑え、両方の手で橘の肘あたりに触れ、そのまま手の方へ下げていく。その先で触れた手と手を軽く繋いだ。 「卒業おめでとう」 「ありがとうございます」  繋いだ手に少し力を込めると橘も握り返してくれる。 「橘は高校を卒業して、これから大学生活が始まるけど。俺は四月からも高校の教師だし、今までのように会えなくなる。俺はそれがすごく寂しい」 「はい」 「四月からも、その先もずっと、橘に会いたいし、側にいたい」  西岡は橘の目を真っ直ぐに見つめながら気持ちが伝わるように願った。 「その権利を俺にくれないか? 俺と付き合ってほしい」  橘の目にじわじわと涙が浮かび、真剣な表情が泣き笑いに変わっていく。 「はい、もちろんです」  そう言うと俯いてしまう橘を今度は両腕でしっかりと抱きしめた。やっと捕まえた愛おしい存在を感じて胸が熱くなる。  橘は一瞬だけ体を緊張させたが、すぐに硬さが抜け、同じように西岡の体に腕を回してくれた。  時折、橘が鼻を啜る音が聞こえる。西岡は橘の顔が見たくなり、橘の顎にそっと手を添えると顔を上げさせた。  橘の顔は少し泣いたせいか鼻から目尻にかけてほんのり赤くなっていた。パッチリした目からは今にも涙が零れそうになっている。  西岡はその涙に引き寄せられるように橘の目尻にキスを落とした。驚いた橘が目をギュッと瞑り、とどまっていた雫がこぼれ落ちる。西岡は橘の頬に伝う跡を羽で触れるように柔らかく唇で追っていく。そうして唇の端にたどり着くと橘の体がピクッと反応した。  西岡が橘の唇に触れる前に少し顔を離すと、目を固く瞑り緊張で体を強張らせながらも西岡を待つ橘の姿があった。西岡の胸が苦しいぐらい甘いもので満たされていく。  西岡はチュッとわざとらしく音をたてながら、優しく触れるだけのキスを橘の唇に落とした。西岡が今まで経験したどのキスよりも甘く感じるキスだった。  西岡は自分の理性が溶かされる前に体を少し離した。橘はゆっくり目を開けると深く息を吐く。 「息止めてたのか?」 「はぁ……だって、緊張した……」  橘は顔を赤くしながら恥ずかしそうに唸っている。初心な反応を見せる橘に西岡は(今日はここまでかな)と心の中で呟いた。既に欲望の火種が生まれていたが、気合いで抑え込む。  西岡は橘の頭をくしゃくしゃと撫でてからソファへ移動した。 「ソファでゆっくりするか?」 「えっ」 「また映画でも見ようか」  西岡がテレビのリモコンを手にソファに座ると、橘が慌てて隣に座った。 「えっ、もう終わり?」 「今日は色々あって疲れただろ?」  西岡は橘の頬を優しく撫でた。 「それは、そうだけど……」 「時間はいっぱいあるし、ゆっくりいこう」  好奇心が旺盛な年頃の橘は不満げな表情だが、それで失敗している過去を知る西岡は大事に進めたい思いがあった。それに大人の男として紳士でいたいというプライドもある。  西岡は隣に座る橘の肩を抱くと宥めるようにその肩を撫でた。 「ソファでまったりするのも悪くないと思うけど?」  橘は口を尖らせながら「でも……」となおも不満を漏らす。 「もっとしたい」  そう言いながら上目遣いになる橘が可愛くて思わず決意がグラついてしまう。 「もっと、って?」  普通に聞き返したつもりが自然と甘さを含んでしまうのは、恋人同士になった二人にはしかたのないことだろう。  橘は口を開きかけたが「あっ」と何かを思いだしたように口を噤む。何かを言おうか迷ってる様子の橘に西岡は「どうした?」と問いかけた。  橘は照れているのかもじもじとしながら、西岡の耳元で小さく呟いた。 「今度は俺のお願い聞いてくれるって約束ですよね?」
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