春のこと(橘side)

1/1
37人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ

春のこと(橘side)

 橘はタクシーの窓の外に視線を向けながら、そわそわと落ち着かずにいた。  今日は本当に色んなことが起きた。  そしてまさかこんな状況になるなんて――  短い春休みも残すところ僅かとなった今日、橘はSNSで知り合った男と会う約束をしていた。好きな人と恋愛をしたいと言う気持ちはありつつも、やはり年頃の男子である。かっこいい彼氏が欲しいし、あわよくばエッチなことも経験してみたいという好奇心に負け、期待半分不安半分で迎えた男との逢瀬は残念は結果となった。  あろうことか相手は歳を偽りしつこく迫ってきて、橘は混乱した気持ちを落ち着ける暇も与えられずあれよあれよとホテル街へ連れて行かれてしまった。自分が男と会おうとしていたことが家族や学校にバレたくはない気持ちがあり、大事にしたくなくてあまり抵抗できずにいた橘が心の中で助けを求めたとき、一人の男が橘を窮地から助け出してくれた。  その男の顔を見たとき、橘は驚きのあまり一瞬息が止まった。そこにいたのは橘の学校の教師で、そして橘が密かに思いを寄せていたその人だった。  西岡は橘が高校二年に上がる年の新任の教師だった。始業式以降、若いイケメンの先生が来たという噂は一気に学校中に広まり噂は橘の耳にも入っていたが、実際に西岡を初めて見たのは学校が始まってしばらく経ってからだった。  その日、橘が用事を済ますため休み時間に職員室を訪れると、職員室のドアの側に数人の女子生徒に囲まれた西岡が立っていた。橘は初めて見る噂に違わぬ西岡の姿に思わず目を奪われた。その頃には自分が同性に惹かれることを自覚し始めていた橘は、同級生にはない大人の男の魅力に胸のときめきを感じていた。  近くで立ち竦む橘に気づいた西岡はまだ離れたがらない女子生徒達を「他の生徒の邪魔になるから」とあしらうとドアの端により橘に道を譲った。 「悪いな、ドア塞いで」 「あっいえ……大丈夫です……」  橘はそそくさと目的の先生の机へ逃げるように向かったが、内心ではとても舞い上がっていた。 (話しかけられちゃった。かっこよかったな……)  それから橘は学校で西岡を見かけることが密かな楽しみになった。恋というにはまだ幼いこの気持ちは、どちらかというとクラスの女子が好きなアイドルのことを推しと話すのに近いと思う。一方的ではあるが西岡のことを知れば知るほど憧れる気持ちが強くなった。  そんな西岡に助けられたとき、一瞬自分が物語のヒロインになったような錯覚を覚えたが、そんな浮かれた気持ちも一瞬で砕けてしまう。この状況で、そして西岡は教師だ。気になっている人に自分のセクシャリティがバレてしまうこと、そして援交トラブルを疑われても仕方がないこの状況に橘は絶望的な気持ちになった。  しかしその後、更に思いも寄らないことが橘を待っていた。なんと西岡がゲイだというのだ。しかも怒られることを覚悟していたのに、西岡はとても優しく橘の心配までしてくれた。   地獄から一点、天にも昇る心地になった橘は隣に座る西岡の気配を意識しながら帰りのタクシーに揺られていた。  しばらくすると見慣れた風景が見えてきた。先に橘を家に送ると言っていた西岡に従い家までの道程を運転手に伝えると、あっという間に自宅前に到着した。 「今日はありがとうございました」  タクシーのドアが開き、橘はほんの束の間の幸せに後ろ髪を引かれながらタクシーを降りようと体の位置をずらす。そして体が半分ほど車外に出たタイミングで背後から「橘」と名前を呼ばれ橘は振り返った。 「おやすみ」  軽く手を挙げる西岡は窓から差し込む街灯の光に淡く照らされ顔には薄く影ができていた。その雰囲気がとてもかっこよくて橘はドキドキしながら「おっ……おやすみなさい」と何とか言葉を発した。  橘が完全にタクシーから降りると程なくして西岡を乗せたタクシーは走り出した。橘はタクシーが見えなくなるまで陶然としながら見送っていた。 (今日は本当にすごい日だった……)  橘は体の疲労と心の昂りを感じながら自分の家に入っていった。    新学期が始まって橘は少し浮かれていた。何故なら西岡との関係が少し変化したからだ。  以前までは遠目から見ているだけだったのに、あの事件があってからお互い顔見知りになったことで今では自分から西岡に話しかけることができる。  さらに橘のクラスの英語の担当が西岡になった。  今までは学校で西岡の姿を見れただけで喜んでいたが、週に何回も授業で姿を見ることができる。密かに憧れていた人との急接近に、橘は周りが見ても明らかな程に学校生活を楽しんでいた。  ただ橘には一つ気になっていることがあった。それは西岡と伊織の関係だった。  あの日はたくさんのことが起きて頭が回らなかったが、西岡と伊織は二人でホテル街にいたのだ。普通に考えたら二人は恋人同士なのだろう。しかしあの日の事を思い返してみると、伊織は西岡が教師だということを知らないようだった。付き合っていて恋人の職業を知らないものだろうか?  気になるけれど流石に本人達には聞けないので、橘は仲の良い友達の中で一番大人びている達也に聞いてみることにした。 「なぁ、付き合ってる相手の職業を知らないとかってあるかな……」 「えっ、急にどうしたの?」  購買で買ったパンの袋を開けようとしていた達也は思わず手を止めて橘のことをまじまじと見つめた。 「えっと、知り合いが付き合ってるっぽいんだけど、お互い相手が何をしてる人か知らないみたいなんだよね。そういうのって普通のことなのかなって……」 「うーん、望はなんで付き合ってるって思ったの?」 「あーそれは……」  自分から話を振ったもののこういう会話に慣れてない橘が言い淀んでいると、達也が「やることやってたとか?」と直球で聞いてくる。 「その情報だけだとセフレって可能性もあるかな」 「セフレ……」  正式名称はセックスフレンド。高校生にもなればそういう関係を耳にしたこともあったが、橘は自分には遠い世界だと思っていた。 (ということは付き合ってはいないのか……)  付き合っていないということは、西岡に恋人がいない可能性は非常に高くなる。恋人がいる人に懸想するのは気が引けるが、恋人がいないのならば自分が西岡に想いを寄せることは悪いことではないはずだ。 「望、なにか悩みがあったら相談しろよ」 「えっ急にどうしたの?」  達也が心配そうな目で自分を見ていることに気づき、橘は理由がわからず困惑した。何かおかしな事を言っただろうか。 「いや、望がどこの馬の骨ともわからない女の人とどうこうなっても、お前がそれで良いなら俺は何も言わないけど。でも望が傷つくのだけは見たくな」 「まって、知り合いの話って言ったじゃん! 俺じゃないよ!」  達也の誤解に橘は慌てて訂正したが、達也は(俺はわかっているよ)とでも言いたげな顔で橘の肩を軽く叩く。 「まぁでもお前もやることやってんだって知れて安心したよ。いつまでも純粋だから心配してたけど、お前も男の子だもんな」 「ちょっと、違うから! やめてよ!」  橘が慌てて否定しても達也は優しい眼差しを向けてくる。達也の腕を掴んで揺さぶりながら「違うってば!」と言っても照れ隠しに見えるらしい。誤解が解けず橘は困り果ててしまったが、心の内では西岡に恋人がいない可能性が高いことに密かに胸を撫で下ろしていたのだった。    それからというもの橘はどんどん積極的になっていった。  ある日、授業でわからないことがあって放課後に西岡のもとに質問に訪れた。西岡の教え方はすごくわかりやすい。ただ教えてもらうときの距離が近くて、橘はうるさく鳴る心臓の音が西岡に聞こえてしまうのではないかといつも落ち着かずにいた。  元々英語に興味があった橘が西岡にお勧めの勉強法を尋ねたところ、西岡から洋画や海外ドラマを勧められ、いくつかお勧めの作品を教えてもらうことができた。  橘は家に帰って早速お勧めしてもらった映画を一本見た。その映画は有名な作品だったが、温かく優しいストーリーにすごく感動して橘はその映画のことが大好きになった。そして映画を勧めてくれた西岡のことが益々好きになった。  次の日の放課後、お礼と感想を伝えるべく西岡の元を訪れると西岡は快く迎えてくれた。そして橘が熱心に話す感想を只々聞いてくれて、最後にまたお勧めの作品をいくつか教えてくれた。それだけのことがとても嬉しくて、西岡の好きな作品を知ることで自分が少し特別になれた気がした。  それを機に橘は事あるごとに西岡の元を訪れるようになった。英語の授業の質問や見た映画の感想を伝えるため。しばらくすると無理やり口実を作って会いに行くようになった。  友達に「最近にっしーと仲良くない?」と聞かれたが、英語を頑張りたいことやお勧めの映画を教えてもらっていることを素直に話したら納得してもらえたようで、面白い映画があったら共有するように言われてそれ以上は追求されなかった。  西岡は「用もないのに来るなよ」と呆れた顔をしていたが駄目とは言わなかった。そのことがとても嬉しい。自分が西岡に受け入れられているような気になって橘は益々浮かれていった。西岡が徐々に困った表情をするようになったことにも気づけないほどに。    気がつけば期末テストの時期になっていた。  橘は西岡に褒めてもらいたくて英語のテストを今まで以上に頑張っていた。良い点数を取ったら、もしかしたら西岡も自分のことを少しは好きになってくれるかもしれない。そう思うと自然と試験勉強にも熱が入った。  橘の頑張りが功を奏し、期末試験は学年でも上位の成績を収めることができた。橘は喜び勇んで西岡に報告しに向かったが、職員室には西岡の姿はなかった。  今日を逃すと夏休みに入ってしまう。早く伝えたくて仕方のない橘は西岡のことを探すことにした。  しばらく校舎内を探し歩いていると西岡はすぐに見つかった。しかし西岡の隣には女性教師の高橋がいて、橘は咄嗟に物陰に隠れた。  二人の会話は聞こえて来なかったが、高橋の方は西岡の腕に手を添えながら何かを話しかけている。その距離の近さを目の当たりにして橘はモヤモヤとした不快感を感じた。 「高橋ってにっしーのこと明らかに狙ってるよなー」  突然隣から声をかけられ思わず漏れそうになった悲鳴をなんとか飲み込み振り返ると、そこには達也が立っていた。 「なんでこんなところにいるんだよ!」  西岡達にバレないように小声で言うと「輝がこの後カラオケ行かないかって探してた」と達也は答えた。 「いく?」 「行く……」  橘の返事を聞いて「輝に連絡するわ」とポケットからスマホを取り出してメッセージを打ち始めた達也に橘は先程の言葉について質問をした。 「高橋先生ってにっしーのこと狙ってるの?」 「本当のことは知らないけどみんなそう言ってるよ。まぁ高橋に限らずだと思うけど」 「えっ!」  驚く橘をよそに、達也は「うーん」と少し考えたあと何の事はないという様子で話を続けた。 「女子もいつもにっしーのことで騒いでるしね。まぁかっこいいよね、優しいし」  橘は達也の言葉に「そうなんだ……」と返したが、内心かなり狼狽えていた。西岡に自分がどう思われているかしか気にして来なかったが、確かに西岡はかなりモテるだろう。  西岡が同性に惹かれることを知っているので学校の女の子達については正直な話優越感を感じるときもあった。しかしよくよく考えてみればバイの可能性もあるのではないだろうか。それに伊織のような相手も他にいるかもしれない。その中に西岡に本気の人は何人いるのだろうか。  達也に「輝達、校門で待てるって。にっしーのところ行かなくて平気?」と聞かれ「大丈夫」と答えながら、橘は何が大丈夫なのだろうかと突然胸に生まれた焦りを無理やり隠すことしかできなかった。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!