夏のこと(西岡side)

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夏のこと(西岡side)

 雨が降っている。  理科準備室の懐かしい匂いがする。 「俺、柏木先生のことが好きです」  自分の声が聞こえる。 「西岡くん……」  先生の声が聞こえる。  でも、この時の先生の表情が思い出せない。  戸惑いに揺れる声だけを覚えている。  雨が降っている。  教室のざわめきが聞こえる。 「柏木先生は一身上の都合で退職されました」  どうして先生は辞めていったのだろうか。  俺が好きだと言ったからだろうか。  先生は迷惑だったんだろうか。  でも、その問いに答えてくれる人はもういない。    ジメジメとした不快感を感じながら西岡はゆっくりと夢から覚めた。雨の時期になるとたまに見る昔の夢。今日は休日で、昼食後に少し横になろうと思ったら寝入ってしまったようだ。外はいつの間にか雨が降っていた。  学校は夏休みに入っていたが、教師の西岡にはあまり関係はない。授業はないがやらなければならないことが多く、西岡は引き続き忙しく過ごしていた。ただ生徒に会わないことだけは今の西岡にとっては良かったのかもしれない。  春休みに橘と色々あってから妙に懐かれてしまった。  最初は授業の質問に答えていただけだったが、橘が熱心に英語の勉強を頑張っていたので西岡は学習に対するアドバイスをするようになった。それが気づけば橘は殆ど毎日西岡の元へ通うようになっていた。  教師として生徒に慕われることは嬉しいが、最近では橘から教師に対するそれ以上の視線を感じるようになってきていた。  正直どうしたものかと西岡は悩んでいる。  橘から直接言われたわけではないので無碍にはできないが、教師と生徒の間で過ちなどありえない。それは過去の自分が痛切に思う事だった。  嫌な夢を見たせいか橘のことを考えていると自分でもよくわからないもやもやが胸に生まれ、西岡はテーブルの上のタバコに手を伸ばした。しかし箱の中にはタバコは一本も入っていない。西岡は舌打ちしながら窓に目を向けた。  窓の向こうではザーザーと音を立てながら雨が降り続いていたがコンビニまではそう遠くはない。西岡は気持ちをを切り替えるように気合を入れて立ち上がった。    タイミングが良いのか悪いのか、西岡がコンビニ着くと見慣れた顔があった。  橘が全身ずぶ濡れのジャージ姿でコンビニの軒下から空を見上げていた。  西岡が声をかけようか迷っていると橘のほうが西岡に気づき一瞬驚いた顔をしたあとパッと笑顔になって駆け寄ってくる。 「にっしーこんなところで何してるの?」 「それは俺のセリフだ」  橘は濡れた髪を掻き上げながら「走ってたら雨に振られちゃった」と笑顔のまま答えるが、心做しか顔色が良くない。八月とはいえここまで濡れれば体調にも影響はあるだろう。 「家はこのあたりじゃないだろ」 「うーん、走って二〇分ぐらいかな?」  橘の答えを聞きながら西岡はどうしようか悩んでいた。このまま見捨てて帰るのは流石に可哀想だが、とはいえ連れて帰るわけには……。 「へっくしゅん!」 「はぁ。買い物してくるからちょっと待ってろ」  西岡は観念すると、急ぎ買い物を終えるためにコンビニの中に入っていった。  家につくと橘は物珍しそうにキョロキョロと当たりを見回していた。 「人の部屋をあまりじろじろ見るなよ。風呂はそこ。脱いだ服は洗濯機に入れたら乾燥までしておいてやる。タオルと着替えは後で脱衣所に置いておくから。ドライヤーが脱衣所にあるから髪は乾かしてからこいよ」  西岡は仕舞ったままになっていた靴乾燥機を引っ張り出しながら橘に指示をする。  結局あのまま放っておいたら風邪を引きそうだった橘を自宅に連れ帰った。タクシーに乗せるにしてもあのままの格好では乗車を断られるだろう。自分に好意を寄せている生徒を自宅に入れるなんて色々とまずいが仕方がない。スマホの天気アプリによればしばらくすれば雨は止むようなので、服を乾かしたら自宅へ返すつもりだ。  風呂場からバタンと扉が閉まる音がしたのを確認して西岡は脱衣所に行き洗濯機を回す。そして橘のために着替えとタオルを用意すると軽く部屋を片付けてからソファに座り加熱式タバコをつけた。  思えばこの部屋に人を入れたのは初めてかも知れない。自宅に遊びにくるような友達もいなければ恋人もいない。ましてや恋なんてものは自分には向いていないとずっと避けてきた。西岡は慣れない人の気配を感じながら深くため息をついた。あの夢のせいか今日は余計なことを考えてしまう。  しばらくすると風呂場の方からまたバタンと扉の音がした。どうやら橘が風呂から出たようだ。  ドライヤーの音が聞こえてきたタイミングで西岡はキッチンでコーヒーを二人分、片方はミルク多めで用意する。以前、橘がコーヒーはカフェオレにしたら飲めると話していたのを何の気なしに覚えていた。  西岡は淹れたコーヒーを少し迷ってソファ前のローテーブルに、片方を端に寄せる形で置いた。仲良く二人でソファに座ることは想像できないし、端に置けば橘は意図を理解してソファには座らないだろう。  ドライヤーの音が止むとガチャリと部屋のドアが開く音が聞こえたので、西岡は「体は温まったか?」と聞きながらドアの方へ向き直る。そして橘の姿に思わず息を呑んだ。 「にっしー、服でかい……」  ドアの側には西岡の部屋着を着た橘が立っていたが、両手両足の裾は折り曲げてもだぼだぼで、ズボンは油断するとずり落ちるのか片方の手でウエスト部分を掴んでいる。そして広く空いた首元からは温まってほんのりと火照った肌が見えていた。  橘の声にハッとした西岡は軽く咳払いをすると「服が乾くまでだから我慢しなさい」といいソファに腰を掛けた。想定外にそそられる姿に西岡は動揺を隠すように次のタバコに手を伸ばす。 (流石にないだろ)   一瞬でも揺れてしまった自分に苛立ちが募る。 「カフェオレ淹れたから」  橘は机の上のカフェオレに気づきローテーブルの横に緊張気味に座ると「お風呂ありがとうございました。カフェオレも」と言って頭を下げてからカップを手に取り口をつけた。一口飲んだ橘の顔がほころぶ。  二人して無言の時間が少しの間続き、西岡はテレビの電源を入れて動画配信サイトをつけた。 「なんか見るか?」 「じゃあ、にっしーのお勧めとか。気になるのがあれば」  西岡は少し迷って短め洋画を流した。ヒューマンドラマ系の作品だが、橘は意外とアクションなどよりもこういう作品を好む事を今では知っている。  まだ少し緊張した様子で座っていた橘も映画が始まって暫くすると集中して画面を見始めた。その様子を確認してから西岡も映画に集中した。  鑑賞中に一度だけ橘がもぞもぞと座り直しているのに気づき視線を向けると橘と目があった。橘は少し考える素振りを見せたあと控えめな口調で「お尻痛い。ソファいっちゃだめ?」と聞いてきたので、西岡が無言で横にズレると橘は静かに西岡の横に収まった。  そのあとは映画が終わるまで二人で静かに画面を眺めていた。  家族以外とこういう時間をもつはいつぶりだろうか。もしかしたら初めてかもしれない。  必要な時に後腐れのない相手と適度に発散してきた。それで十分だったし一人でいるときが一番安らぐ事ができたはずだった。それなのに隣から感じる体温に心地良さを感じ始めている。そのことに西岡自身も戸惑っていた。  西岡はゆらゆらと定まらない心に、今はただ考えないようにすることしかできなかった。
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