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いつかの夏の終わり
授業に耳を傾けながら西岡は教室の窓を流れる雨をぼんやりと眺めていた。
夏休みも中盤に差し掛かった八月の頭、高校三年生の西岡は学校で行われる受験向けの夏期講習に参加していた。十日間の日程で行われる夏期講習も今日で七日目だ。
西岡の成績なら参加する必要はあまりないけれど、長い夏休みに西岡が柏木に会うためには必要な口実だった。
柏木は西岡が通っている学校の生物教師だった。
全体的に地味な容姿をしているが、教師の中では二十代と若いことと素朴な雰囲気から癒やし系として生徒達に親しまれていた。
西岡の柏木との出会いは高校の入学式だったけれど、最初は他の教師達と同じように特に気にもとめていなかった。柏木を意識し始めたのは初めて会話を交わしたとき。入学式から一ヶ月ほど経ったある日の昼休みに校庭の片隅にある花壇に水をやる柏木を見かけたことがきっかけだった。
草花を見つめる柏木の横顔がとても優しくて、その顔を見たとき西岡は思わず声をかけていた。
「先生が植えたんですか?」
「そうだよ~、ここは僕の花壇なんだ」
そう言ってにっこり微笑んだ柏木はお日様のように暖かく、西岡はその熱にのぼせたように顔が赤くなった。自分達に降り注ぐ春の陽気のような暖かさが西岡の心にじんわりと広がっていく。
「興味ある?」
「いや、その……はい……」
西岡は赤くなった顔を隠すために花壇に顔を向けながら横目で柏木を伺い見る。
昨日まではなんとも思ってなかったはずなのに、柏木に強烈に心惹かれていく自分に西岡は戸惑いすら感じていた。
これが恋だと気づくのはもう少し後になってからだった。そして西岡は柏木の優しい笑顔を自分だけに向けて欲しいと思ってしまったのだった。
西岡は自分が男に惹かれる質だということを物心ついた時からなんとなく気づいていた。
保育園時代は大好きだった男性の保育士にべったりだったらしい。そして人一倍独占欲が強く、他の子達とその保育士を巡ってよく喧嘩を繰り広げていたそうだ。
卒園のときには先生と離れたくないと保育園に立てこもり、両親や保育士達を困らせた記憶が朧げにある。
小学校に上がると周りを見る余裕が生まれてきたこともあり、自分が周りとは違うことを少しずつ理解できるようになっていった。そして感情のコントロールができるようになり、保育園の時のような行動は取らなくなった。西岡の有り余ったエネルギーを親の勧めで始めた水泳で適度に発散できていたことも良かったのかもしれない。しかしいつでも興味を惹かれる相手は男だった。
夏期講習の終わりを告げるチャイムが鳴ると西岡は荷物をまとめて教室を出た。向かう先は柏木がいるであろう理科準備室だ。仮に理科準備室に柏木がいなくても帰ってくるまで居座るつもりだった。
理科準備室に着いた西岡がドアの小窓から中を覗くと、机に向かって作業をしている柏木の姿が見えた。コンコンと二回ノックをすると柏木は顔を上げこちらを見るが、西岡の顔を見た途端、柔和な顔を顰めた。そんな柏木の様子に気づかないふりをして西岡は理科準備室の引き戸を開ける。
「また君か」
「生物でわからないところがあって」
嘘ではない。嘘ではないが文系志望の西岡に生物の勉強がそこまで必要なのかと言われると否と答えるしかない。
「そんなに熱心なら今からでも理系に進んだ方がいいんじゃないか?」
「先生は俺に理系に進んで欲しいんですか?」
西岡は柏木の許可を待たずに入室すると、部屋の手前側にある簡易テーブルの側のパイプ椅子に座った。理科準備室を訪れるとき、いつも自分の席のように使っている位置だ。
「先生が理系に進んで欲しいって言うなら理系に変えます」
柏木は勝手に居座ろうとする西岡の側まで困り顔でやってくると、鞄から教科書を取り出そうとする西岡の手を止める。
「そうやって先生を揶揄わないで欲しいな……。あと、ここに入り浸るのはやめなさいって昨日言ったよね?」
西岡は冗談ではなく本気だったけれど、西岡がここまであからさまな行動をとっても柏木は自分が本気で好意を寄せられているとは考えにも及ばないらしい。西岡はそのことに寂しさを感じながら、昨日も一昨日もその前も言われたことに反論を返す。
「ここが静かで集中できるんで」
「図書室だってあるでしょ?」
「あっちは静か過ぎて集中できない」
柏木は「ああ言えばこう言うんだから……」と言いながらも西岡を無理に追い出したりはしなかった。ただ、西岡にはその態度が子供に対する大人の余裕のように見えて歯がゆさを感じた。柏木にもっと自分を男として意識してほしい気持ちが募っていく。
柏木は自分の席に戻ると机の上を片付け始めた。その様子を怪訝に思った西岡が柏木を見ていると、その視線に気づいた柏木は少し申し訳無さそうに話した。
「今日は僕もこれから用事があって帰るから、西岡くんも今日はこの部屋は諦めてね」
「今日なにかあるんですか?」
「内緒」
柏木はそう言うと照れくさそうに笑った。
その嬉しそうな顔を見た瞬間、柏木のこのあとの予定を察して西岡は息を呑んだ。
柏木に恋人がいるか直接聞いたことはなかったし、敢えて聞かないことで現実を見ないようにしていたのかもしれない。それに事実を知ったからと言って、自分の気持ちを諦められるとも思えなかった。しかし、どうしたってこの手の噂話は耳に入ってしまう。昼休みにクラスの女子が柏木の恋人の話で盛り上がっていたこともあった。
帰り支度をする柏木を呆然とした気持ちで見ていた西岡の中にどす黒いものが溢れ出し、気づいたときには叫ぶように言葉を発していた。
「そうだ、君に話して……」
「行くな!」
自分の声を遮るように響いた西岡の声に驚いた柏木は、目を丸くしながら「どうしたの?」と西岡を振り返る。
西岡は柏木を引き止めたいのに良い方法が思い浮かばず、焦りともどかしさで落ち着きをなくしながらなんとか言葉を絞り出した。
「生徒を置いて帰るんですか」
「勉強ならここじゃなくてもできるでしょ?」
「教えて欲しいところがあるんです」
「西岡くん、毎回そう言うけどほんとにわからないの? いつもちゃんと理解してそうに見えるけど。それに西岡くんのクラスは岡先生でしょ? 僕に懐いてくれるのは嬉しいけど、岡先生が寂しがるよ?」
西岡は「他の先生じゃなくて、柏木先生がいいんです」と縋るように柏木に近づいていく。
柏木は「どうして……」と呟いたあと、西岡が思いのほか距離を詰めてきていたことに気づきたじろいだ。一歩後ろに下がろうとしたところで机にぶつかりハッとする。
柏木の瞳に僅かに恐怖が浮かんだことに気づきながら西岡は柏木を逃さないように不意に抱き留めた。西岡は高校に上がってから身長がぐんと伸び、一七〇センチ程度の柏木の体をすっぽりと覆ってしまえる程になっていた。
柏木は慌てて抜け出そうとするも、水泳で鍛えられた西岡の体はびくともしない。
「西岡くん、離して」
「いやだ」
「一回落ち着こう。話があるなら聞くから」
ここで柏木を離して話をしたら、色好い返事をくれるのだろうか。
距離を取ろうと西岡を必死で押し返す柏木を更に強く抱きしめる。先程まで余裕そうに見えていた人の少し焦っている姿に言葉にし難い喜びを感じてしまう。
「先生を困らせないで、いい加減にしなさい!」
この状況でも柏木は教師の立場を崩さない。西岡から逃れるために体に力を入れて抵抗していた柏木は、真っ赤になった顔で西岡を睨み据える。
西岡は柏木の口を自分の唇で塞いだ。もうこれ以上、自分を苛立たせる言葉を聞きたくなかった。
「んッ……やめッ……」
柏木が制止の言葉を発する隙きを突いて西岡は無理やり舌をねじ込む。キスの経験はなかったが、ぎこちなくも本能的に体が動いていた。
静かな教室に雨の音と二人の吐息がだけが聞こえる。
西岡は左手は柏木の腰を引き寄せ、右手で後頭部をガッチリと掴み、柏木の口の中で逃げる舌を追いかけた。
しかし必死の攻防も長くは続かなかった。
息が切れそうになった西岡が息継ぎをしようと顔を少し離した隙に、柏木は西岡の頬に平手打ちをした。
パンッという音と共に受けた左頬の衝撃で西岡は我に返る。そして次第にジンジンと熱くなる左頬とは裏腹に身体中で沸騰していた血は一気に冷めていった。
西岡は一歩後退る。混乱で揺れる瞳が西岡のことをじっと見ていた。
「俺……」
西岡は掠れる声で訴える。
「俺、柏木先生のことが好きです」
柏木が息を呑む声が聞こえる。
「西岡くん……」
柏木は思わずといった様子で顔をそらす。西岡から柏木の表情は見えないが、その仕草は西岡を絶望的な気持ちにさせるには十分だった。
「俺、今日は帰ります。すみませんでした。頭冷やしてきます」
「あっ……待って」
柏木の制止する声を無視して西岡は教室から逃げるように立ち去った。
柏木のことは好きだった。でもこんなことをするつもりではなかった。
誰もいない教室に逃げ込んだ西岡はドアを締めるとその場にへたり込んだ。いつの間にか握り込んでいた両手はかすかに震えていた。
西岡は嫉妬に目がくらみ自分があそこまでのことをしたことに、自分の中から溢れ出した抑えきれない情動に戸惑っていた。自分でも知らなかった自分の一面に僅かな恐怖を感じた。
しばらくの間じっとしていた西岡だが、次第に自分がどうするべきか考えられるようになっていく。
(先生に謝ろう)
しかし今から柏木の元に行く気力は残っていなかった。
(明日改めて先生に謝ろう。許してもらえるかはわからないけど)
それでもこのときの西岡は謝れば大丈夫だと心のどこかで思っていたのかもしれない。
翌日、西岡は夏期講習に参加したあと生物準備室に向かったが柏木は不在だった。次の日も、更に次の日も西岡は柏木に会うことはできなかった。
その上、学校の夏期講習が終わったあとは塾の夏期講習があり、西岡は学校に近づくことさえできなかった。
そして西岡は柏木に会うことができないまま新学期を迎えることとなった。
始業式の日は朝から雨が降っていた。朝練がなくなった運動部の姿も多く、教室は夏休みの話題で盛り上がるクラスメイト達の話し声で賑やかだった。その中で西岡だけが落ち着かない様子でホームルームが始まるのを待っていた。
今日やっと柏木に会うことができる。時間だけは十分にあったので、何度も謝罪の言葉を考えていたが、いざとなると不安が沸々と湧いてくる。
西岡は何度も時計を確認しながら、考えてきた言葉を心の中で練習した。柏木を想う気持ちはなくならないけれど、柏木を困らせたくはない。柏木に嫌われるよりは生徒として側にいることは許されたかった。
しかし、西岡の望みが叶うことはなかった。
「柏木先生は一身上の都合で退職されました」
ホームルームで担任が告げた言葉にクラスメイト達は驚きの声を上げたが、西岡は一人茫然としていた。
何故、どうして、柏木は学校を辞めてしまったのだろうか。ホームルームの後に担任に理由を聞きに行っても理由を教えてはもらえなかった。
放課後、西岡は傘を差しながら柏木が大切にしていた花壇の前に佇んでいた。
雨に濡れる花壇の草花は主人の不在を示すように少し枯れていた。
唐突に終りを迎えた柏木との関係に西岡は打ちのめされている。
行き場をなくした謝罪の言葉が西岡に追い討ちをかけていた。落ち込む気持ちが、ネガティブな推測を立て始める。
もしかしたら自分から逃げたのではないだろうか……。
西岡の頭には最後に見た柏木の顔がチラついていた。
理由を問いたくても柏木には会えない。それに、もし理由が自分のせいだったらと思うと西岡はその場から一歩も動けなかった
西岡の誰かを想う気持ちが迎えた結末は、西岡の心に小さく深い穴を開けた。
西岡は心の中で「ごめんなさい」とつぶやく。
夏の終りの雨は静かに降り続いていた。
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