秋のこと(西岡side)

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秋のこと(西岡side)

 新学期の慌ただしさが落ち着いた頃、西岡は行きつけにしていたゲイバーに久しぶりに足を運んだ。  有名なエリアを少し離れた路地にあるその店は気さくなマスターがいつも暖かく出迎えてくれる。重厚な扉を開けて入る店内はオーセンティックバー寄りの洗練された雰囲気だが見た目ほど敷居は高くなく、どちらかといえばアットホームな雰囲気だ。マスターの趣味でかけられているジャズのレコードが心地よく、店内は客や店員の会話が程よいざわめきを生んでいた。出会い目的よりも会話や酒を楽しむために足を運ぶ人が多く、西岡はその居心地の良い雰囲気を気に入っていた。 「あれ? 久しぶり。珍しいじゃん」  西岡が扉を開けてバーの店内に入るとカウンター席でマティーニを飲む伊織がいた。店内は客がまだ少ないとはいえ、華やかな見た目の伊織はすぐに目についた。  西岡は少し迷ってから黙って伊織に隣に座る。学校の春休みに伊織に会って以来、西岡はこのエリアには近づいていなかったので伊織と会うの数ヶ月ぶりだ。 「しばらく見かけなかったけど、男でも漁りに来たの?」 「いや……今日は飲みに来ただけ」 「ふーん」  西岡は顔馴染みのバーテンダーに軽く挨拶をしてからビールを頼む。暦の上では秋でも九月はまだまだ残暑が厳しい。  すぐに冷えたビールが運ばれてきて、西岡は目の前に置かれたビールを一気に呷った。冷えたビールののどごしは最高だが、胸の中のモヤモヤまでは流れてはいかなかった。 「望くんを振ったんだって?」 「なんでお前が知ってるんだよ……」 「連絡先交換したからねー」  伊織の視線を横顔に感じながら、西岡は黙秘を示すようにお通しにだされたナッツを口に放り込んだ。 「なんで振ったの? あんな可愛い子」 「生徒だぞ、ありえないだろ……」  伊織はマティーニに口をつけながら探るような視線を西岡に向ける。 「遊びじゃないならありだと思うけど?」 「……ありじゃない」  西岡はビールを飲もうとしてグラスが空になっていることに気づきおかわりを頼んだ。伊織は「まぁいいけど」と言うと自分も追加のドリンクを頼む。 「まぁ、徹も本気の恋愛はしないタイプだしね。で、何か飲みたくなるようなことがあったんでしょ? お兄さんが聞いてあげるよ」  伊織はカウンターに片肘をつきながらニッコリと微笑みながら西岡を見る。  今度は西岡が伊織に探るような視線を向けたが、若いバーテンが二人の前に追加のドリンクを置きながら「伊織さん良かったですね」と口を挟んできた。 「伊織さんも今日は愚痴会ですもんね。さっきから色んなイケメンが気分じゃないからって伊織さんに袖にされてたんですよ。仕事じゃなかったら僕がおこぼれもらったのに」  バーテンダーは「羨ましいなー」と言いながら別の客に呼ばれて行ってしまった。 「珍しいな」 「俺だってそういう気分のときだってあるから。あと愚痴りたかったんじゃなくて、誰かと楽しく酒飲みたかっただけ」  伊織は恥ずかしさをごまかすように新しいドリンクを一気に飲み干す。どうりで強い酒ばかり飲んでいるわけだ。伊織はザルらしく酔っている姿を見たことはないが、西岡が来たときに飲んでいたマティーニはアルコール度数が高いことで有名だし、今手に持っているものはウィスキーのロックだ。 「徹だって何かあったから来たんでしょ?」  伊織は「ほらほら」と西岡に話すように促す。  伊織とはそこそこ長い付き合いだが、お互い都合が良いという点で相性が良かっただけであまり個人的な話をしたことはなかった。伊織からこういう話を振られることも珍しいが、ただ今はそのさっぱりとした関係が西岡の口を軽くしていた。 「別に何かあったわけじゃないけど……」 「じゃあ、最近のこと聞かせてよ」  西岡は手の中でグラスを弄りながら、ぽつりぽつりと話す。 「橘が来なくなって……」 「えっ、どこに? 学校?」 「いや、職員室」 「……それは良くないことなの?」 「いや、そういうわけじゃないんだが……」  西岡は気まずそうに「前は毎日来てたから……」とつぶやいた。  伊織は珍しいものを見るような顔で西岡を見ながら「うん?」と相槌を打つ。  西岡も自分がしょうもないことを話している自覚があった。けれど、橘との間の些細な変化に気づくたび、どうしようもなく心がざわついてしまう。  この際だからすべて吐き出してしまおうと西岡は意を決して話を続けた。 「それと……大したことじゃないんだが……」 「いいよ、聞かせて?」 「俺を西岡先生って呼ぶんだ……」  夏休みまでは他の生徒と同じように『にっしー』と自分のことを呼んでいた橘が、新学期に入ってから『西岡先生』と呼ぶようになった。タメ口も敬語に戻っている。夏休み、西岡の家での一悶着がきっかけなのだろうということはわかる。そして呼び方を変えることは、きっと橘なりのけじめなのだろう。しかし西岡は呼び方が変わったことに自分でも意外なほど狼狽えていた。 「……徹は一度自分の胸に手を当ててよく考えたほうがいいかもね」  伊織は感心したような顔をしながらナッツをポリポリと摘んでいる。  伊織の言いたいことはわかる。生徒だからありえないと言っているのは誰に対しての言い訳なのか……。それでも西岡は自分の気持ちの変化に気づかないふりをする。  西岡は手に持ったグラスの中身を一気に飲み干すと、またおかわりを頼んだ。  いつもと違う伊織との夜は、静かに更けていく。    二学期はスポーツ大会に文化祭と何かとイベントが多い。特に三年生は受験前、最後の思い出作りのタイミングとあって浮かれ気味の生徒も多かった。  西岡はそんな生徒達を眺めながら、彼等とは真逆の自分にため息をつく。  職員室のドアがノックされるたびに思わず顔を上げてしまうことも最近ようやく落ち着いた。誰が来ることを期待していたかなんて、自分でもわかっていた。  橘が職員室を訪れなくなったとしても西岡には英語の授業があるので橘を見る機会はいくらでもあった。しかし西岡にも受験を控える生徒を受け持っているという教師として責任がある。授業中はクラス全員に気を配るため、橘と会話をする機会は殆どなかった。そして西岡はこの状況になって初めて、用がない限り自分からは橘と接点を持つことができないことに気づいたのだった。    いつの間にか当たり前になっていたことが当たり前ではなくなってしまった代わりに西岡に新しい習慣ができた。  火曜日の五限目、受け持ちの授業がないこの時間に西岡は職員室の校庭側の窓辺で珈琲を飲む。窓から見下ろす校庭では生徒達が体育の授業を受けいた。  西岡はその中に橘の姿を見つける。自分でも重症だと思いながらクラスメイトと楽しそうに授業を受ける橘を密かに眺めていた。  元気そうな姿を見ればホッとする気持ちもある反面、寂しさも感じる。西岡は(夏休みまではあの笑顔を自分にも向けてくれていたのに……)とぼんやりと考えたが、すぐにハッとしてその考えを頭から振り払った。  珈琲を飲み終えるまでの束の間のひとときを、西岡は敢えて何も考えないように過ごした。 「西岡先生、休憩ですか?」  窓の外を眺めていると同じ英語教師の山村が声をかけてきた。山村は定年が近いベテラン教師で、いつも品が良く朗らかな山村は生徒からじぃじと呼ばれて親しまれていた。 「お疲れ様です」 「今日は天気がいいから気持ちいいですね」  山村は「体育をやっているのは三年生かな?」と校庭に目を向けた。 「あっ、橘くんが居ますね」  山村からでた橘の名前に西岡は思わずドキリとしたが、山村は気がつかない様子で「はいはい、元気ですね」と楽しげに手を振りながら外を眺めている。  山村に釣られた西岡が山村の視線の先に目を向けると、こちらに手を振る橘と目があった。久しぶりに正面から見た橘にドキリとしながら西岡が思わず手を挙げると橘は控えめに会釈を返しクラスメイトの輪の中にそそくさと帰っていく。 「橘くん、最近は職員室に来ませんね」 「えっ、あ……そうですね」  山村から突然振られた話題に西岡は思わず動揺したが、山村は気にも留めない様子で話を続けた。 「あれだけ懐かれてたのに急に来なくなって西岡先生も寂しいでしょう?」 「あー、そう……ですね」  西岡は「先、戻りますね」と山村に言うと自分のデスクに戻った。  次の授業の準備をしながら、今しがた山村に言われたことを思い返す。  周りから見ても橘が自分に懐いていたことは明らかだった。それはまだ良い。生徒に過度に好かれる教師はたまにいるし、特に問題が起きない限り周りも微笑ましく見ているのが常だ。だが、逆はどうだろうか。教師が一人の生徒に過度に接すれば周りは訝しがるだろう。  そうなれば困るのは自分だけではない。橘にも少なからず迷惑がかかる。自分の気が緩んでいたことを自覚する。自分は教師で相手は生徒だ。相手はまだ未成年で、自分は分別のある大人だ。  西岡は自分の心の中で大きくなっていく気持ちをを律するように身を引き締める。  そして思いを振り切るように、机の上の書類に向かった。    秋晴れが心地よい十月の第三水曜日。今日は全学年で行われるスポーツ大会の日だ。  スポーツ大会はフットサル、バレーボール、卓球の三種目が行われ、トーナメントによって優勝クラスを決める。日程は二日間用意されているが、スポーツ大会と文化祭の準備期間が重なっているため、生徒たちは試合がない時間は文化祭の準備を進める事になっていた。  クラスを持たない西岡は運営全体のサポートに回っている。とはいえ、スポーツ大会は体育教師が主体となって動くため西岡自体に仕事は殆どない。そして西岡は三日間の準備期間を経て行われる週末の文化祭の責任者を任されていたため、職員室で一人黙々と文化祭準備に勤しんでいた。  フットサルの試合が行われる校庭から生徒たち賑やかな声が聞こえて来る。  一際大きい歓声と共に聞こえてきたホイッスルの音が試合終了を告げる。どうやら午前の最後の試合が終わったようだ。  西岡はデスクで軽く伸びをしながら職員室の時計を確認する。午前中に集中して作業を進められたおかげで予定よりも早く仕事が片付きそうだ。  西岡は昼食を取ろうと立ち上がり購買に向かった。  購買の近くに来ると何やら盛り上がっている生徒達が目に入った。どうやら掲示板にスポーツ大会のトーナメント表が張り出されているらしい。  西岡の足は自然と掲示板に吸い寄せられる。生徒達と軽く会話を交わしてからトーナメント表に目を向けた。  スケジュールは滞りなく進んでいるようで、西岡はホッとする。今日中に全種目の準々決勝までが行われ、準決勝以降を明日行うことになっていた。  これまでの結果にざっと目を通した西岡は無意識に橘のクラスを探していた。男子がフットサル、女子がバレーボールで、卓球は男女混合で行われる。橘が出るとしたらフットサルだろうと当たりをつけてトーナメント表を辿っていくと、どうやら午後の一試合目が橘のクラスのようだ。  西岡は少し考えた末に午後の試合に顔を出すことにした。午前中に頑張ったおかげで午後は少し時間がある。橘のクラスだけではなく、ぐるっとクラスを回れば別に不自然ではないだろう。  俺は橘を見に来たのではなくスポーツ大会の様子を見に行くだけ、と誰に対してかわからない言い訳を考えながら弁当を買いに再び購買へ向かった。  職員室で昼食をとった西岡は、午後の試合が始まるまで職員室で休憩をとってから校庭に向かった。  校庭にはフットサルコートを二面分用意してあり、四クラスが試合を行っていた。  西岡はひとまず橘のクラスではない方のコートに向かった。応援席の生徒達は西岡に気づくと「にっしーが来た!」「にっしーも応援してよー!」と元気に話しかけてくる。  西岡は話しかけてくる生徒の相手をしながら、時間を掛けてゆっくりと回っていく。担任を持たない西岡はなるべく生徒達と平等に接することを意識するが、無意識のうちに隣のコートに意識が向いてしまう。  何回か生徒に呼び止められ移動するタイミングを逃している内に見ていた試合の前半が終わった。応援の生徒達が試合に出ていた選手のもとに集まった隙きに隣のコートに静かに移動した。  隣のコートではまだ前半の試合が続いていた。西岡が少し緊張しながら橘のクラスに近づと、試合が行われているコートに元気に走り回る橘を見つけることができた。  橘は運動神経が良いらしく、積極的に声を出しながら自分より身長の高い選手にも果敢に挑んでいた。その姿を見て西岡は思わず頬を緩ませる。  よく見えるところに移動しようと橘のクラスの応援席に近づくと、気づいた生徒に「にっしーだ!」とここでも元気に声を掛けられた。  クラス一丸となって盛り上がる生徒達の姿が微笑ましい。  生徒達の相手をしようと西岡が口を開きかけたとき、突然コートからけたたましいホイッスルの音と女子生徒の悲鳴が聞こえてきた。  西岡は生徒達の注目の先に目を向け思わず息を呑んだ。地面に倒れる橘と心配そうに取り囲む選手達が目に入る。  西岡の体は自然と橘の方に駆け寄っていた。  騒然とする応援席。体育教師を呼びに行く生徒の声。心配そうに橘に声をかける選手達。そして苦痛に顔を顰めながら右足首を抑える橘。  西岡は橘を取り囲む選手達をそっと手で避けると、「どうした?」と声をかけた。すると橘の一番近くにいた体格の良い生徒が西岡に状況を説明してくれた。 「俺と接触して倒れたときに足首捻ったらしくて……」  どうやら体格差から橘が派手に吹っ飛んだらしい。 「すみません、もう大丈夫です……」  橘は痛みが落ち着いたのか体を起こした。  周りの生徒が心配の声をかける中、笑顔を見せて気丈に振る舞うが目に薄っすらと涙が浮かんでいる。 「痛ッ……」  橘は立ち上がろうとするが捻った右足が痛むのかよろけてしまう。西岡は咄嗟に橘の体を支えた。  橘が驚いて西岡の顔を見る。至近距離で目があった。  潤んだ瞳に日焼けでほんのり赤くなった顔、支えた体から伝わる橘の体温。 「あっ……わぁ!」  西岡の中で突如湧き上がった衝動に抗こともできず、橘のことを抱き上げていた。  応援席からおちゃらけた生徒の囃し立てる声が聞こえる。  お姫様抱っこをされた橘は驚きで耳まで顔を赤くしながら西岡の腕の中で固まっていた。 「橘は保健室に連れて行くから」  時間も押してるからお前達は試合を続けなさい、と選手と運営の生徒に声をかけると西岡は橘を抱いたまま保健室へ向かって歩きだした。  橘を心配した生徒が何人か駆け寄ってきたが、西岡の付き添いに安心して試合の応援に戻っていく。  西岡は平常を装っていたが内心では生徒達の前で大胆な行動をとった自分に驚いていた。怪我をした生徒を保健室に連れて行くことはおかしいことではないと心の中で自分に言い聞かす。そして少しの緊張から思わず橘の抱く腕に力が入ってしまう。 「西岡先生……俺、重くないですか?」  橘が西岡を気遣って控えめに訪ねてくる。 「いや……大丈夫。むしろ軽す……」  西岡は途中まで言うと言葉を濁して咳払いをした。橘の視線を横顔に感じる。  しばしの沈黙の後、橘がズバリ聞いてくる。 「西岡先生はもっとある方が好みなんですか?」 「今のは忘れてくれ」 「なんでですか?」 「いいから忘れろ」  西岡は自分の失言に思わず顔が赤くなるのを感じながら「深い意味はないから」と口籠る。そんな西岡に橘は楽しそうに「はーい」と返事をすると、ふふっと忍び笑いをしていた。  二人の間に和やかな空気が流れる。ちらりと橘を見ると、恥ずかしそうにしながら西岡の腕の中で大人しくしていた。 (かわいいな……)  橘と触れ合うところから体温と一緒に温かいものが流れ込んでくる。  この感覚には覚えが合った。  幸せで、少し怖い。  西岡は腕の中のものを大事に抱えながら目的の場所へと足を速めた。
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