冬のこと(西岡side)

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冬のこと(西岡side)

 期末テストの答案の束と向かい合っていた西岡は眉間を指で揉みながら椅子の上で軽く体を伸ばした。色んなことがあった二学期だったが、あと何日かすれば冬休みが始まる。  今日は日曜日で学校は休みだが、来週には返却しなければならない答案の丸つけ作業が終わらず、西岡は自宅に篭り作業をしていた。  丸つけの終わった答案を退かし、次の答案を取る。そこに橘の名前を見つけて西岡は思わず手を止めて深いため息をついた。  文化祭以来、橘には徹底的に避けられていた。二学期の初めにも避けられていたが今回はその時の比ではない。  西岡は気分転換にコーヒーを入れ直そうとキッチンに移動した。ついでに換気扇の下でタバコに火をつける。普段は加熱式のものを愛用しているが、コンビニで買い足す際に久しぶりに紙巻タバコに手が伸びていた。  避けられるきっかけを作った自覚はあった。西岡は橘の気持ちを知っていたにも関わらず思わせぶりな態度を取った。それなのに橘から真っ直ぐな想いを告げられ逃げたのだ。ハッキリしない西岡に橘が愛想を尽かすのもしょうがない話だが、橘に避けられるたびに西岡の心にチクリと棘が刺さり、今も胸に残る痛みが西岡を苦しめていた。  西岡が何も考えないないようにぼーっとタバコを吸っていると、リビングの方からスマホの通知音が聞こえてきた。この時期は緊急の連絡の可能性もあるため、西岡はタバコを灰皿に押し付けるとリビングに戻りスマホを確認した。  スマホを開くと高校の同級生から忘年会のお誘いメッセージが届いていた。高校を卒業してから毎年続いている忘年会で、人数は多くはないけれど社会人になってからなかなかタイミングが合わない友人達に会う数少ない機会になっていた。  西岡は予定を確認してから参加で返事を返す。今は友人達と何も考えずに楽しく過ごせる時間がありがたかった。 「おー! よく来たな!」 「悪い、遅れた」  繁華街にある居酒屋の少し広めの個室に入ると幹事を務める小林が声をかけてきた。既に懐かしいメンツが六人が集まっていて、テーブルには酒や食べ物が所狭しと置かれている。西岡は久しぶりの友人達と雑な挨拶を交わしながら入り口近くの席に座り、おしぼりを持ってきた店員にビールを頼んだ。  程なくして冷えたビールが運ばれてきて、改めて集まった仲間達と乾杯をする。  男子校だったこともあり男だらけの忘年会は学生時代に戻ったかのような気安さがあった。働いているやつもいれば、まだ学生のやつもいて、仕事に恋愛にと各々の近況の話で飲み会は盛り上がっていった。西岡は友人達の話に適度に茶々を入れながら心の中に燻る憂いを一時でも忘れようと飲み会を楽しんだ。  飲み会が始まってしばらく経ったとき、小林が「ちょっとトイレ行くわ」と席をたった。みんな特に気に留めることなく話と食事を楽しんでいる。 「西岡、学校の先生はどうよ。順調?」 「まぁ、なんとかやってるよ」 「西岡が先生だもんなー」  意外だなんだと皆が口を揃えて言うのを、西岡は笑いながら「うるせー」と軽くあしらう。 「てか、いつからなろうと考えてたわけ?」 「高校の時には考えてたよ」 「えー! 知らなかった!」  お調子者の小野が大袈裟に反応する横で、大学から付き合ってる彼女と婚約したばかりの高橋が「でも実は面倒見良かったよな」と朗らかに話す。 「小野も西岡の世話になってたじゃん」 「確かに! その節はお世話になりました」   小野が冗談っぽく西岡に頭を下げると、おっとりした性格の谷が「あっ」と声を上げた。 「そういえば西岡と仲良しの先生いたよね。ほら学期の途中でいなくなっちゃったけど。何先生だっけ?」  西岡は「あー」と苦笑いする。あまりこの話題は避けたかったが、誰の目から見ても当時の西岡が慕っていたらのは明らかだっただろう。  西岡がその名を言おうと口を開こうとしたとき、トイレに行っていた小林が「はい、ちゅうもーく!」と個室の入り口で手を叩く。西岡を含めたその場にいた全員の視線が小林に集まった。 「実はサプライズゲストが来ています!」  ジャーンっと口で言いながら小林が横にズレると、空いたスペースにゲストが姿を現した。  皆がそれぞれ驚きと喜びが混ざった声を上げる中、西岡は驚きで時間が止まったように感じた。まさか、本当に……? 「柏木先生……」 「久しぶりだね、西岡くん」  西岡は居酒屋の喫煙所に座りながら二本目のタバコに火をつけた。突然のことに動揺している心を落ち着かせたいが、今も無意識で足が揺れている。  小林が呼んだサプライズゲストは西岡が高校時代に懸想していた柏木だった。小林と柏木は仕事で偶然再会し、忘年会が近いこともあって大人数でわいわいすることが好きな小林が柏木を誘ったそうだ。  柏木は盛り上がる皆に促され中央の席に座らされていた。柏木と距離が離れ西岡は密かに胸を撫で下ろした。  しばらくはその場で柏木が質問攻めにされている様子を見ていたが、不自然ではないタイミングを見計らって喫煙所に逃げてきた。  最後に会ったのはあの雨の日の生物準備室。あの時の記憶は今も西岡の中にしこりのように残っていた。 「西岡くん」  突然名前を呼ばれ声のする方へ顔を向けると、そこには柏木の姿があった。昔と変わらないように見えるが、あの頃より少し深くなった目尻の皺や僅かに見える白髪が年月の経過を思わせる。 「柏木先生……」 「教師になったんだって?」 「はい」 「あの西岡くんがねぇ」  柏木は「感慨深いな……」と言いながら西岡の隣に腰掛け、シャツのポケットからタバコを取り出すと火をつけた。タバコ吸ってたんだ、と柏木の知らなかった一面を見て西岡は内心驚いた。 「もう教師には慣れた?」 「はい、なんとか……」  そっかー、と朗らかに会話を続ける柏木に西岡は戸惑っていた。あんなことがあったのに柏木はどうして普通に話せるのだろうか。柏木は自分から逃げたのではないのか。 「どうしたの? 飲み過ぎた?」  反応が鈍い西岡を柏木が心配そうに見つめる。その瞳に裏があるようには見えなかった。  西岡の頭はハッキリとしていたが、もしかしたら酔っていたのかも知れない。もしくはこの状況に頭が混乱していたか……。何かに突き動かされるように西岡の口から言葉がポロリと溢れた。 「先生、あの時はすみませんでした」  西岡の言葉に柏木は一瞬何のことかわからないというような顔をしたあと「あっ」と驚きの表情を見せた。  謝罪の言葉と共に胸のつかえが外れ、そこから言葉が流れ出ていく。 「先生に迷惑かけて、本当にすみませんでした。許されるとは思ってないけど謝りたくて」 「西岡くん……」 「先生を困らせて、学校を辞めるほど追い込んで、考えなしでした。俺の顔なんて見たくなかったかも知れないけど、」 「ちょっ、ちょっと待って。学校を辞めるってどういうこと?」 「俺から逃げるために辞めたんですよね?」 「違うよ!」  心底驚いた様子の柏木に西岡も当惑してしまう。もしかして自分は何かを勘違いしていたのだろうか。柏木が驚きの表情のまま戸惑う西岡を見つめている。 「もしかしてずっと……」  柏木はそこで言葉を切ると、少し間を置いてからことの詳細を話してくれた。 「学校を辞めたのは付き合ってた彼女……今の奥さんなんだけど、彼女のお父さんが倒れたからなんだ」  柏木は当時彼女とは婚約していて婿養子になる予定だったこと、彼女の父親が倒れたことで向こうの家から急かされていたことを教えてくれた。 「あのあとバタバタしたまま学校を辞めてしまってみんなにちゃんと挨拶できなかったけど、まさかそんな勘違いをしていたなんて……」   思いがけない事実を知り呆然とする西岡を柏木は申し訳なさそうな顔で見つめる。 「まさか君がそんなに思い詰めていたなんて……謝るのは僕の方だ」  ごめんねと、と柏木が謝罪の言葉を口にする。  自分の想像とは違う事実に西岡は驚きが隠せなかった。確かに柏木本人から言われたわけではない。今思えばその時の状況から西岡が勝手に思い込んでいた。  先程まで緊張していた西岡は拍子抜けしてしまい言葉が見つからず、手持ち無沙汰を埋めるためタバコを一本取り出して火をつけた。柏木との間にしばしの沈黙が流れる。  西岡はタバコの煙を深く吸い込みながら自分の心の中を探ってみる。混乱、安堵、まだ残る罪悪感……。 「でも……俺に好かれて迷惑でしたよね?」  恐る恐る柏木を見やると、柏木は照れたような笑みを浮かべていた。 「迷惑なんかじゃなかったよ。言うことを聞いてくれないのは困ったけど……西岡くんの気持ちは嬉しかったよ」  その言葉を聞いたとき、夏のある日を思い出した。雨の匂い。二人で見た映画。自分の部屋で泣く橘に自分は何を言ったのか……。 「西岡くんは今好きな人がいるの?」  突然の問いかけにびっくりして柏木を見ると、そこには優しい眼差しがあった。そこには自分に対する恐怖や嫌悪の感情は見られなかった。 「はい、います」 「ふふ、その人のことが大好きなんだね」  僕も家に帰りたくなってきたなー、と言いながら柏木が楽しそうに笑う。 「そろそろ戻ろうか」 「そうですね」  柏木が「よいしょっと」と言いながら立ち上がり伸びをする。西岡も笑いながら短くなったタバコを灰皿に捨てた。煙が軽やかに立ち昇り、空気に溶けるように消えていった。
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