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春のこと(西岡side)
「なぁ……。あれ、大丈夫かな」
隣を歩く伊織に着ていた薄手のアウターの袖を引かれた西岡は、言葉の示す方へ顔を向けた。視線の先にはスーツを着た中年の男と高校生ぐらいにしか見えない私服の青年がいたが、どう見ても穏やかではない雰囲気に西岡は小さくため息をついた。ここは繁華街から外れたホテル街で、ここに来る理由なんて一つしかないのだから、揉めている理由なんてあらかた予想がつく。男に腕を掴まれている青年の腰が引けているのをところを見ると、少なくとも青年が男のことを拒絶していることは確かだろう。
面倒事には巻き込まれたくないが仕事柄見て見ぬ振りをするのは少々気が咎める。
仕方がないと覚悟を決めた西岡は伊織に「少し待ってろ」と声をかけ、揉める二人の方へ足を向けた。
「すみません! 俺、やっぱり帰ります! ごめんなさい!」
「怖くなっちゃった? 嫌なことは何もしないからさ……」
「おい、おっさん。目立ってるぞ。その辺にしておけ」
西岡がしつこく食い下がる男の肩に手を置きながら声をかけたとき、一拍置いて「にっしー……」と、か細い声が聞こえ西岡はギョッとしながら青年に目を向けた。暗く距離がある状態ではわからなかったが、近くで見るとそこには薄らと見覚えのある顔がある。
「おまえ……あっおいっ!」
西岡がどこで見た顔かを思い出そうと固まった一瞬の隙に、いち早く状況を理解した中年の男は「くそっ!」と悪態を吐きながら西岡の手を払い落とし一目散に逃げていく。西岡は逃げた男を横目に残された青年に声をかけた。
「こんなところでなにやってんだ」
青年はびくっと肩を揺らすと黙ったまま俯いてしまった。どうしたものかと思わずため息をつくと、青年は更に深く俯いてしまう。
「まぁまぁ、怖い思いしたばかりの子にそんな怖い顔しないで。ねぇ?」
この場をどう納めようか思案していると、いつの間にか側に来ていたらしい伊織が西岡と青年の間に割って入ってきた。
「おい……」
「こんばんは。君、大丈夫だった?」
青年は伊織の声に俯けていた顔を少しあげ「あっはい……ありがとうございます」と答えた。
「何事もなくてよかったよ~で、この子、徹の知り合いだったの?」
先程のやりとりを見ていたのだろう伊織が何気ない様子で問いかけてくる。知り合いは知り合いだが、友人などではない。
青年が気まずそうに目を泳がせる様子を見ながら、西岡は答えた。
「俺の学校の生徒だ」
「えっ徹って先生だったの?」
伊織の驚きの声を聞きながら、西岡は青年の方へ向き直る。
「受け持ちのクラスじゃないけど、顔を見たことがある。二年……いや、春休みが終われば三年か。名前は?」
「あっ……えと……橘 望です……」
「こんなところで何してたんだ」
「それは……」
橘は視線を合わせないまま消え入りしそうな声を出すと、そのまま答えづらそうにまた俯いてしまう。
二人のやり取りを見ていた伊織は周りをチラリと確認しながら二人に声をかけた。
「とりあえず、近くのカフェで温かいものでも飲んで一旦落ち着かない? こんなところでお説教なんて始めたら今度は俺らが目立っちゃうよ」
確かに人通りの少ないホテル街だが、全く人が通らないというわけではない。ましてや高校生を大人二人が囲んでいるこの状況は通報されてもおかしくないだろう。
「望くんもそんなに怯えなくて大丈夫だよ」
優しく声を掛ける伊織の向こう側で服の裾を握る橘の手が微かに震えているのが見えた。決して橘を問い詰めたいわけではないのに、橘を萎縮させるような態度を取ってしまっていたことに今更ながら西岡は気づいた。ただでさえ身長は一八〇cmを超え、水泳で鍛えた体は適度に厚みがあるうえに、キリッとした目元が印象的な西岡は普通にしているだけでも威圧感がある。西岡は最近癖になっている眉間の皺を指で揉みながら「すまん……」と呟いた。
三人は伊織が最近気に入ってよく来ているというカフェを訪れた。少しレトロで落ち着いた雰囲気の店は客層も良くとても居心地が良さそうだ。
三人が店の奥の窓際の席につくと、若い男の店員が近寄ってきた。
彼は伊織の知り合いらしく「伊織さん、こんばんわ」と微笑み、三人の前にお冷とおしぼりを置いていく。
「今日はお友達といらしてくださったんですね」と言うと、西岡と橘にも愛想よく微笑みながら「ごゆっくりしていってくださいね」と声を掛けた。
「翔太くん、注文いい? ブレンド二つと……もう少し悩む?」
「あっ……じゃあホットココアで……」
翔太と呼ばれた店員は「ブレンド二つとホットココアですね。かしこまりました」とオーダーを確認するとキッチンの方へ下がっていった。
西岡は癖で翔太の様子を観察していたが、背が高く適度にジムで鍛えているのだろう体つきと店内の女性客の目を惹きつけている甘めの顔に伊織はやはり面食いかと一人納得をする。
そんな西岡のことは無視して伊織は話を切り出した。中性的で派手な容姿をしている伊織はよく軽薄そうだと勘違いされるが、意外と面倒見が良い。今も橘のことが放っておけないのだろう。
「さてと、俺の自己紹介がまだだったよね。俺は山本伊織。よろしくね」
「よろしくお願いします……」
「単刀直入に聞いちゃうけど、さっきはどうしたの?」
「えっと……それは……」
橘はやはり答えづらそうに口籠る。あんな場所で、その上だいぶ年上の同性と揉めていたとなっては仕方がないだろう。西岡が口を開こうとしたとき、伊織は西岡に軽く目配せをして話を続けた。
「俺さー、あのあと徹と行くところがあったんだけど、どこだと思う?」
「おいっ」
突然何を言い出すのかと西岡が慌てて静止をしようとしたが、伊織は「まぁまぁ」と宥めながら話を続けた。
「あんなところにいたんだもん。行くところって言ったら一つしかないよね」
「えっと……あっ」
伊織の発言の意味に気づいたらしい橘は、顔を少し赤らめながら小さく驚きの声を上げた。最近の高校生には珍しい初な反応が新鮮だった。
「というわけで、俺らは多分お仲間だと思うんだけど、どう? 違うかな?」
伊織は軽い口調で橘に問いかける。ホテル街で出会ってからずっと不安そうにしている橘への伊織なりの気遣いが感じられた。
西岡も伊織に倣い柔らかい口調を心掛けながら伊織の言葉に続いた。
「別にお前の行動を罰したいわけじゃない。俺達はお前を心配しているんだ」
「そうそう、そういうこと。お兄さん達が話聞くよ?」
西岡と伊織の言葉を聞いた橘は軽く目を見張りゆっくり二人のことを見ると、徐に両手で顔を覆い「ゔぅ~~」と呻き声を発した。どうやら状況を理解して気が抜けたらしい。
「お待たせしました。ブレンドお二つとホットココアです」
場の空気が少し和らいだタイミングで翔太が注文の飲み物を運んできた。
「どうぞ」と言いながら飲み物を置いていく翔太に伊織と橘がそれぞれ礼を言う。
「大人二人で若い子いじめちゃダメですよ?」
翔太は飲み物を置き終えると西岡と伊織を諌めるような事を言ったが、顔が笑っている。遠くからこの席の様子を見ていただろう彼なりのフォローのようだ。
「いじめてないよ、ねぇ望くん?」
「あっはい、大丈夫です!」
律儀に答える橘に翔太は「何かされたら僕に相談してくれていいからね」と言いながらウインクをして見せる。驚いた様子の橘が「えっ!? あっ……ありがとうございます」とドギマギしながら答えると、翔太はその様子を見てにっこりと微笑むと「ごゆっくり」と声を掛けて下がっていった。
「……おい」
「うーん、聞いたことないけど、多分翔太くんもこっち側かな。まぁ良い子だから大丈夫、大丈夫!」
翔太の軟派な様子を目の当たりにした西岡が胡乱な目で伊織を見ると、伊織は苦笑い気味に答えた。
「まぁここには悪い大人はいないから、安心してね」
「……はい」
橘はようやく心から安心したのか、伊織の言葉に笑顔を見せ始めた。西岡は学校で同級生達と子犬のように元気に転げ回っていた橘の姿を思い出す。その時の様子からはやはり今日のような光景は想像がつかなかった。
「俺……」と橘はこれまでの経緯を話してくれた。
高校一年生の頃、新しい環境に浮かれた同級生の男子達はいつも女の子の話で盛り上がっていたが、橘はそういった話題にいつもついていけず自分の中で微かな違和感を感じていたらしい。そしてその違和感が少しずつもしかしたらに変わり、やがて核心に変わっていった。
決定的な出来事は、橘が二年生に上がった新学期に気になる人ができたことだった。
もちろん相手は男だった。一目惚れだったらしく、初めて出会ってからその人の事が気になるようになり、その気持ちは次第に大きくなっていった。しかし男同士の難しさも理解している橘は思いを告げることはせず、初めての片思いを密かに楽しんでいたらしい。
それでも橘も年頃の男の子である。周りの同級生達が彼女といつヤったかで盛り上がっているのを聞いているうちに、橘もそういうことへ次第に興味が湧いていった――
「でも学校で彼氏を作るなんて無理だし……そしたら友達が彼女とはSNSで知り合ったって話してて。そういう出会い方もあるのかと思ってアカウント作ってみたら、ゲイの人のアカウントをたくさん見つけて……」
「なるほどね……」
伊織は苦笑いしながら相槌を打った。
「危ないかなとは思ったんですけど……。でもゲイの人に会ってみたかったし、思い切って友達が欲しいって書いたんです。そしたらさっきの人からメッセージが来て……」
橘の顔が苦々しく歪む。
「あの人、メッセージでは大学生って言ったんです。あんなおじさんとは……」
自分の浅はかだった行動にか、いい年した男が大学生だと偽っていたことにか……橘はそこまで話すと深くため息をついた。まぁ両方に対してだろう。
「でもなんであんなところまで付いてっちゃったの?」
伊織が「会ったときに逃げちゃえばよかったのに」と言うと橘は「テンパっちゃって……」とその時のことを話した。
「僕らみたいなのは人目に付いちゃうから落ち着いてお話できるところ行こうかって言われて、そうなんだって……。でも、気づいたら怪しいところに来てて。ホテルに休憩って書いてあるし。怖くなって帰りますって言ったら凄く引き止められて……」
その時のことを思い出したのか橘は少し涙目になっていた。パッチリした目元が印象に残っている橘の瞳には、今は疲労と後悔の色が浮かんでいる。
西岡は諭すように橘に語りかけた。
「お前が今回のことを反省しているのはわかるからあまりくどい事は言わないけど、もうこれに懲りたらこういうことはやめなさい」
「はい、すみません……。あの、親には……」
橘は不安そうな目で西岡を伺い見た。西岡はちゃんと伝わるようにと、橘の目を見て告げる。
「今回はなんともなかったから黙っといてやる。でも、もしかしたらお前が傷つくことだって起きてたかもしれないことはわかるだろう? 次は見逃してやれないからな」
橘は西岡の言葉にハッとした顔をすると、目に薄っすら涙を浮かべながらもう一度「すみませんでした」と謝った。どうやらちゃんと西岡の真意は伝わったようだ。
「ていうかさ、気になってる人がいるんでしょ? だったら尚更自分のことは大事にしなね。ねぇ、好きな人はどんな人? 学校の子?」
「えっ! えっと……学校の人です」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら前のめりになる伊織に対し、橘は西岡と伊織を交互にチラチラと見ながら慌てた様子で答えた。
「いいじゃん! どんな子?」
「えぇ……」
橘が助けを求めるような目で西岡のことを見てきた。西岡は仕方がないとため息を付きながら助け舟を出してあげた。
「伊織、そのへんにしておけ」
「はーい。まぁ先生がいるから言えないか~」
伊織は頬杖をつきながら橘を見つめる。
「青春だね~。自分の高校時代を思い出すなぁ」
伊織は楽しげに話しているが、お説教タイムはこれで終わりということなのだろう。
しばらく伊織と橘が話している様子を眺めていた西岡は、腕時計で時間を確認した。
「 そろそろ行くか。橘、今日はタクシーで送るから」
西岡は伝票を掴んで立ち上がり、会計の方へ歩いていく。
会計を済ませて外に出ると橘から「ご馳走様でした」と礼を言われた。まだ疲れが見えるが表情には明るさが戻っていた。
西岡も橘も学校の近くに住んでいるので二人で同じタクシーに乗り込む。伊織は近くで飲み直すらしい。
伊織に見送られながらタクシーが夜の道を走り出しす。
車内ではお互いに会話はなく、橘は隣に教師が座っている緊張もあるのか少し畏まって座りながら視線を外に向けていた。
西岡はドア側に少し体を寄せ橘のことを横目でチラリと盗み見た。最近の高校生は大人びているが橘はまだどこかあどけなさが残っている。二五歳の西岡と歳はそこまで離れてはいないけれど、橘にはまさに今青春を過ごしているといった感じの青さとキラキラした眩しさがあった。友と学び、恋愛をして、失敗し成長していく。今日の出来事も数年後には青春の思い出になるのだろう。
西岡は自分の学生時代をぼんやり思い出す。ありふれた学校生活の思い出。そして西岡にもあった初めての恋。だが、あの頃のことを思い出す時、西岡の心を占めるのは後悔と自分に対する憤り、そして少しの寂しさだった。
自分の中で燻っているものから目を逸らすため、西岡も流れていく景色に目を向けた。
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