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靴からの蕎麦
リサは、目の前を歩く男に目を奪われた。
いや、正確には男の履いている靴に目を奪われた。
リサの視界からは男の後ろ姿しか見えない。
それでも男が品の良い人だと言う事が分かる。
そう印象づけるのは彼の服装であった。
張りのある紺色のストライフのジャケットにスラックス、中肉中背の日本人だとどうしても着せてもらっていると言う印象になってしまうことが多いが彼の後ろ姿はそれを見事に着こなしていた。
職業柄、服装で人を見ては行けないと分かっているがやはり年頃の女性なので服装はどうしても気になってしまう。
そんな彼女の若いアンテナが目の前にいる男は品の良いことを示していた。
それだけに彼の靴は良い意味でも悪い意味でも彼を際立たせていた。
高級な靴だ。
上質な赤茶色の革と丁寧に形どられた柔らかなライン、所々にアクセントとして打ち込まれた星屑のようなビス。
ショーウィンドウに置かれようとも、地面を踏みしめようとも誰もがうっとりして見惚れてしまうであろうデザインだ。
普通なら。
靴の表面はとても傷つき、傷んでいた。口で噛んだらふにゃっとしそうな程な弱々しさを目で感じる。何度も補修されたのだろう、所々に破れたり、剥がれたりした箇所もある。ビスも何箇所か抜け落ちていた。
ビジネスマンなら、紳士なら間違いなく捨てる対象の靴だ。
しかし、目の前を歩く彼は平然とそれを履いて歩いている。
そしてリサは、その靴から目を離す事が出来なかった。
リサは、自分の手が、身体が、心が震えているのを感じた。
そして気づいたら目の前を歩く男に声を掛けていた。
「あの・・・」
靴が止まる。
男は、ゆっくりと振り返る。
男の顔を見てまず印象として入ってきたのは目だった。
白目が浮き出るような三白眼。
色白の肌がその目をより強く浮きだたせ、冷たいような、不機嫌な様子を見せた。
リサは、恐怖に胸がギュッと締め付けられる。
何で声を掛けてしまったのだろうと今更ながらに後悔する。
男は、小さく首を傾げる。
「何か?」
男の口から発せられたのは想像よりも穏やかな声だった。
何か・・・・。
リサは、胸中で男の声を反芻する。
そうだ。私はこの人に・・・しかし、聞きたい事があるのに言葉に出来ない。
男は、訝しみ、眉根を寄せる。
明らかに不審に感じている。
「・・・・何もないならこれで・・」
そう言って男は、振り返り再び歩き出そうと足を踏み出す。
靴が地面を叩く音がリサの耳を貫く。
リサは、決心し目を開く。
「あの・・・」
男は、足を止めて首だけを彼女に向ける。
「あの・・・その靴」
男の目が大きく見開かれる。
そして自分の履いている靴を見る。
「その靴は・・・貴方のですか?」
百人いたら百人が「何を言ってるんだ?」と思わず聞き返してしまうであろう台詞。
実際、質問を口に出したリサですら言ってから後悔してしまった。
しかし、男は、三白眼と口を大きく開いただけだった。
「・・・お腹空いてませんか?」
「へっ?」
リサは、思わず間の抜けた声を上げる。
男は、首をキョロキョロと動かし、一軒の蕎麦屋で目を止める。
「蕎麦でも食べませんか?奢ります」
これがこの奇妙な物語の序章であった。
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