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「仕事…」
仁見先生の言葉を聞いて犬彦は、自然と眉間にシワを寄せる。
にっこりと微笑みながら犬彦をまっすぐに眺めている仁見先生とは対照的に、犬彦はそのまま黙り込む。
「実は今、ちょっとした問題を抱えていてね、都内のある場所に先祖代々の土地があるんだけど…」
「待ってください仁見先生」
いかにも、これから頼みたい仕事の内容を話していこうとしている仁見先生の会話の勢いを、あわてて犬彦は口を挟んで止めた。
「個人的に小間使いのような仕事を請け負って小遣い稼ぎをしていたのは、昔の話…若気の至りです。
現在は会社勤めをしている庶民の身の上でありますから、副業めいた行動は取れませんし、俺では先生のお役に立つことはできません」
昔々、江蓮と一緒に暮らすようになる前の若き犬彦は、口利きで街のトラブルバスターのような仕事をすることで生活のための報酬を得ていた。
そのかつての顧客の中には、回数こそ少ないものの仁見先生もいたのだった。
(そういった縁から今では仁見先生は犬彦のかかりつけ医のようなポジションにあるわけだ)
いま犬彦は、仁見先生が話し出そうとした話題の中に、あの頃のときのような流れの気配を感じたから会話を止めたのである。
江蓮のために現在の自分は、ごくごく普通の会社員…カタギになったのだ、金にも困っていないし、いくら世話になっている仁見先生からの話であったとしても、今さらそんな荒仕事はできないのである。
「君の本業…会社の部長さんのお仕事が忙しいことはよーく分かっているよ、だから仕事の片手間にやってくれたらいいんだ、内容も大したものじゃないからね。
私の悩みは信用のできる相手にしか相談できない内容だし、そもそも鈴木くんの許可はもう取ってあるからさ、犬彦くんがいいよって言ったらお願いしていいよって鈴木くんも言ってた」
「……」
…栄治、あのクソ野郎…! 俺に黙って勝手に仁見先生へ俺を売りやがって…!
鈴木栄治郎は、赤間部長の所属する会社の代表取締役社長であり、仁見先生にとっては大学の後輩だった。
社会的いちおうのヒエラルキーは、仁見先生>鈴木社長>赤間部長、である。
というわけで、聡明な仁見先生がすでに鈴木社長へ打診済みであり、赤間部長の貸し出しオッケーの許可を得ているなら、ここで犬彦がウジウジと言い訳をして断ったところで意味はないのである。
かつてのトラブルバスター犬彦へ個人的に頼みたいという仕事とやらは、犬彦の意思の関係ないところでもう動き出しているのだ。
イライラ最高潮で心の中では、(栄治の野郎…次に顔を合わせたときにはぶん殴ってやる…!)と、殺気をみなぎらせながらも、すべてを悟った犬彦はおとなしく黙ったままうつむいている。
一方、犬彦が黙り込んだことで、その態度こそが許容の合図だと即理解した仁見先生は、うきうきとどこか楽しそうに依頼内容について続きを話しはじめる。
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