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はじまり(犬彦の場合)
とある平日の午後、赤間部長はひとり、都内によくある小さな雑居ビルの中へと入っていくところだった。
うつむき加減のまま赤間部長は、ちょうどよく一階で止まっていたエレベーターに乗り込み、黙ったまま目的地である4階のボタンを押した。
狭くて古くさいエレベーターの内部で、赤間部長はひとり静かに、エレベーターが上昇していく音を聞いている。
このときの赤間部長はめずらしくナーバスな気分になっていた。
どんなに困難な商談であっても涼しい顔をして敵地に(相手方の会社へ)乗り込んでいくのが常の赤間部長なのに、今回ばかりは気乗りがしない憂鬱な心待ちで、足取りも重く、どんよりと暗い表情のままエレベーターに乗っている。(それでも他人から見る分には、いつもの落ち着いたポーカーフェイスとしか映らないのだが)
なんたって今日は…仕事じゃない、いや、これも仕事のうちなのだが、赤間部長は…検診の一環として産業医と面談をするためにコソコソと、こんな目立たない場所にある雑居ビルに来るハメになったのだから。
犬彦は病院が嫌いだ。
もともとが頑丈な肉体の持ち主なので、そもそも縁遠い場所ではあるのだが、病気も怪我も基本的には根性の自然治癒力で治すのがモットーの、この現代社会において野人かよとツッコまれても仕方がないくらいに病院を自らに寄せ付けない男である犬彦は、基本的に自分の意思で医療機関に行くことはない。(これまで、そんな思考回路の犬彦を何かの折に病院へ連れて行くのは、いつも栄治郎の仕事だった)
病院なんて、時間と金の無駄だ。
いま現在においても犬彦はその考えを覆してはいない。
しかし、そんな犬彦であっても、今回ばかりはおとなしく産業医との面談に臨むことにした。
自ら言い出して、兼業秘書である五月女に相談し、スケジュール調整をしてくれる彼女にだけ今日の受診のことを伝え、他の者たちには(永多にさえも)秘密にし、わざわざアリバイを作ってまでコソコソとここまで…赤間部長の勤め先の会社が契約をしている産業医のオフィスにまでやってきたのだ。
では赤間部長は今回、病院嫌いのモットーを捻じ曲げてまで、自身の身体のどこに健康不安を感じているのか?
それは、前回の事件が関与している。
あのとき(江蓮のふしぎな考察録6)犬彦は意識を失った上に、とても奇妙な夢を見た。
とてもじゃないが、分別のある大人の男が見るのに相応しくない、非常に荒唐無稽で幼稚であり、支離滅裂な夢だ。
知り合いが飼っている太った黒猫が訳知り顔で人語をしゃべり、犬彦を訳の分からない道理の狂った現象へ導く長い夢だった。
目が覚めたとき、ありありとその夢の内容を覚えていた犬彦は、とてもショックを受けた。
いや、ショックというよりも自分に失望した。
…なんなんだ、今の夢の内容は?
夢とは、自分の無意識領域に伴って現れる生理的な脳のノイズのようなものだろう、普段は夢など見ない自分なのに…あんなにもくだらない夢を見てしまうなど…まさか自分では認識の及ばない精神領域のどこかに、重篤な問題でも俺は抱えているのだろうか…?
体力に自信のある自分が謎に失神したことも加えて赤間部長は今、自分の精神面に疑念を持つようになってしまった。
これらが怖ろしいことに精神的な病の前触れなのだとしたら…さっさと専門医の診断をもらって早期治療したい、と赤間部長は考えていた。
万が一、また失神をおこして馬鹿みたいな夢を見ることがあれば、仕事に穴を空けてまわりに迷惑をかけてしまうかもしれないし、何よりも江蓮に心配をさせてしまうような状況だけは避けなければいけないからだ。
しかし赤間部長が心配しているそれらすべては、あのとき神社の境内の中で黒猫によって神域に引きずり込まれたときの別次元世界の記憶なので、まったくの杞憂なのだが、そんなこと知るはずもない犬彦は、憂鬱な気持ちのまま4階にあるクリニックのオフィスのドアに手を伸ばした。
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