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第二話 開店しました
十一時になり、扉にかかった札を「CLOSED」から「OPEN」に返す。
今日のランチメニューを書いたブラックボードをおきに外に出ると、一組の学生が開店を待っていた。オーバー・ザ・レインボウのキーボードを担当している直貴と、女子三人組だ。
「おや、いらっしゃい。今日は早いんだな」
「マスター、聞いてよ。ぼくさ、彼女たちにさっき電話でたたき起こされたんだよ。でもって部屋に襲撃されて、ここに連れてこられたんだ」
おれのあいさつに、直貴はしかめ面と眠そうな表情を交互に出して、横にいる女子三人に視線を向けた。
一流企業の社員だといっても通じそうな女子三人は、最近エアバンドを始め、直貴をアドバイザーにした。
というとプロデューサがアイドルグループをマネージメントしているように聞こえるが、実際はそうではない。押しかけバンドガールは、直貴の意思を無視して指導をさせている。
「たたき起こされただの、連れてこられただの言って、ナオくんひどくない?」
ツインテールの女子が鼻にかかったアニメ声でしゃべりながら、直貴の襟を軽く引っ張る。直貴は困ったような、それでいて少し頬を赤くしながら腕組みをした。
「ひどいのはそっちだろ。ぼくは朝の四時まで、曲をPCに打ち込んでたのに。人の都合なんてお構いなしで引っ張りまわして」
「だってナオくんがいないと、あたしたちのバンド、何にもできないんだよ。頼りにしてるんだから」
ショートカットの女子がウインクすると、直貴は急に青ざめる。
「いいから、中にお入り。ここで立ち話していても寒いだけだろ」
おれは苦笑しながら、直貴たちを中に入れた。
放射冷却で朝は冷え込んでいたが、その分青空が広がっていい天気だ。
ブラックボードを定位置におき、軽く柏手を打って「今日もいい一日になりますように」と心の中でつぶやく。
カウンターに戻ると、玲子が直貴たちからランチの注文を取ってきた。食後のドリンクにみんなが選んだのはココアだ。
寒い日は、暖かくて甘い飲み物が恋しくなる。今日はいつもよりココアの注文が多くなるかもしれない。
「ええっ? 明日までにオリジナル曲を作って、DTMに入れろって? そんな無茶な……」
人もまばらな店内で、今日も直貴の嘆き声が響く。相変わらず無理難題を吹っ掛けられているようだ。
がんばれ直貴。このむちゃくちゃな経験も、プロになった日には必ず役に立つぞ。
そうこうしているうちに次々とランチ目当ての客が訪れ、店内はすぐ満席になった。
注文と配膳を玲子に任せ、おれはせっせとランチを作る。
ふと店内に目をやると、今日はいつも以上にカップルが多い。やはりバレンタインデーは毎年カップルの率が上がる。
頬を赤く染めながらハート形の包みを渡す少女。受け取る男子も、みな幸せそうな表情を浮かべている。
ジャスティが暖かい雰囲気で満たされているのは、玲子が選んだオレンジ色の明かりだけが原因ではなさそうだ。おれは忙しい中でも、微笑ましい気持ちに包まれる。
目まぐるしいランチタイムも終わり、客の数も少し落ち着いた。
一息ついたおれはカウンター内の椅子に座り、スマートフォンをチェックする。やはりメールもメッセージも届いていない。この時間では当たり前だな。
今日は予想通りココアの注文が多く、カウンターにも甘い香りが残っている。
「お疲れさん。玲子、きみも今のうちにお昼をすませときな」
食器を下げている玲子をカウンター席に座らせると、おれは残ったサンドイッチ二人分をテーブルにおいた。
今日のツナサンドは、みじん切りされた玉ねぎとピクルスが入っていて、ほのかな酸味が食欲をそそる。
作り方がいたって簡単なこれは、アメリカに住んでいたころ、行きつけていたダイナーのシェフに教えてもらったものだ。
ろくに料理をしなかったおれなのに、このサンドイッチだけは昔からよく作っている。
「飲み物はココアがいいかい?」
「ココアもいいけど、動きまわって暑いから、アイスレモンティーが飲みたいです」
「そうかそうか。確かに今日はいつもよりカップルが多かったせいか、店内の気温が高くなっていた気がするな」
「マスターの言うとおり。やっぱりバレンタインデーはちがいますね」
とはいうものの、最近はカップル以外で、世話になった人にプレゼントを渡すことも多い。
「友だちやお世話になった人に感謝の気持ちを示すのには、いいイベントだと思いませんか?」
「そうだな。うちでもお客さんにチョコレートを準備しておけばよかったな。来年は忘れずに配ろうか」
「いいですね。楽しそう」
と手のひらを合わせて口角を上げたあとで、玲子はスタッフルームから紙袋を持ってきて、赤い小さな包みを取り出した。
「マスターにも。いつもお世話になります」
「おれに?」
これまで女子をアルバイトで雇ったことがなかったから、従業員からもらえること自体うれしい誤算だ。
包みを開けると、箱の中からウイスキーボンボンが出てきた。
「お酒入りだから、食べるのは仕事が終わってからにしてくださいね」
「ありがとう。家でじっくり味わうよ」
おれはチョコレートをカウンターの下においた。そして出来上がったアイスレモンティーを玲子に出し、自分のためにホットコーヒーを淹れた。
「こんにちは、マスター」
カラカラとドアベルの音が響き、扉が開いてひとりの常連客が姿を見せる。
「あ、武彦さん!」
玲子の表情がパッと輝く。
オーバー・ザ・レインボウでベースを弾いている武彦は、玲子の彼氏だ。
武彦はカウンター席に座ると、「いつもの」とアップルティーを注文した。
「バイトが終わるまで、まだ一時間はあるのよ。来るのが早すぎるんじゃない?」
「うん。でも部屋にいても退屈だからね。ここで本を読みながら、玲ちゃんのバイトが終わるのを待っていてもいいかなって思ったんだ」
どうやらこの後はデートの約束をしているようだ。
バイトを早い目に上がらせてあげてもいいが、武彦と音楽の話もしたい。月末の合同ライブはオーバー・ザ・レインボウも出演する。今一番の有望株は、どんな練習をしているのだろう。
客もまばらな中、武彦とライブの話や音楽の方向性などを話していると、夕方からのバイトをしている仁がやってきた。
仁も武彦たちと同じロック研の部員だが、バンドは別だ。
仁は年齢の割に古いロックにも詳しい。なぜだろうとよくよく聞いてみると、父親がバンド経験者で、ハードロックを子守歌代わりに聞いて育ったそうだ。
由緒正しきロッカーではないか。
おれが昔からずっと追いかけてきたバンドを、仁も好きだという。彼らが日本に来てくれたら、一緒にコンサートに行きたいものだ。
「じゃあ、あたしはこれで上がりますね」
エプロンを外しながら玲子が声をかけてきた。腕時計を見ると、ちょうど休憩時間に入ったところだ。
話が途中で終わった武彦は、少し名残惜しそうに席を立つ。
「続きはまたな。音楽のことを話したくなったら、店を訪ねてくれよ。ただし営業時間内に頼むな」
「解っていますって。閉店直後に押しかけるのは迷惑だって学習しましたから」
武彦はマイペースすぎて、凡人がついていけないような行動をとるときがある。だがその一途さが武彦の真の魅力だ。
何かを生み出すような人物は、どこか型破りなくらいがちょうどいい。
オーバー・ザ・レインボウのメンバーは、多かれ少なかれ全員がそういう部分を持ち合わせている。
リーダーのワタルは、若いのに彼らをよく束ねているものだ。とてもおれにはできない。
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