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第三話 ライブバー
夕刻になり、喫茶メニューにアルコールが追加される時刻になった。
夜になると名前はライブバーになる。が、そちらの呼び方はいつまでたっても浸透せず、一日中「ライブ喫茶」と呼ばれている。
最初のうちおれは妙な感じがしていたが、ならばいっそと名前に合わせ、夜も喫茶メニューを出すことにした。
ジャスティを訪れる客の中には、二十歳未満も一定数いる。
彼らが二次会や三次会で訪れたときに困らないようにするのも、学生街にある店の務めだ。
「マスター、こんばんはっ」
弾むような声とともに登場したのは、ピアノ弾きのバイトをしている哲哉だ。
オーバー・ザ・レインボウのリードボーカルをしていて、バンドでは鍵盤を弾くことはない。
昔からピアノを弾いていたおれは、店を持ったら生演奏を入れるのが夢だった。だがマスターの仕事をしながら自分で演奏するのはどう考えてもできることではない。
大枚叩いて買ったグランドピアノを前に、おれはどうしたものかと悩んでいた。
そんなときだ。哲哉と雑談している中で、彼が幼いころからピアノを習っていたことを知ったのは。
試しに一曲弾いてもらったところ、申し分のない腕だと解ったおれは、その場で生演奏のアルバイトを依頼した。
年末に、バレンタインデー向けの曲を探して練習しておくようにと頼んだら、冬休み明けにしっかりとマスターしてきた。
哲哉が弾いているのを聴けば、真面目に練習していたのが解る。表面では涼しい顔をしているが、あれで哲哉は相当の努力家だ。
「今日は『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』からスタートするよ。次に『星に願いを』と『いつか王子様が』なんてどうかな」
「ビル・エヴァンスかい?」
「いや、別に彼のコピーじゃないよ。今日に合わせてスタンダードナンバーを考えたら、たまたまそうなっただけなんだ」
おれは哲哉の選んだ曲を見て満足した。
いつも簡単な指示を出すだけで、選曲は哲哉の自由にさせている。それだけでこちらの意図を的確に読み取り、その日にふさわしい曲をみつけてくる。
頼もしく、将来が楽しみなミュージシャンの卵だ。
だがおれは、哲哉に弾き語りをさせるつもりはない。
ボーカルにあえて歌わせていないので、ときどきオーバー・ザ・レインボウのファンに質問されることがある。当たり障りのない答えを用意しているが、実は考えがあってのことだ。
おれは哲哉に、表現を抑えることの意味を学んで欲しいと思っている。
哲哉の歌は迫力と勢いがあり、聴くものを瞬く間に惹きつける魅力にあふれている。
だが言い方を変えれば、力で押してくるスタイルというわけだ。それを続けていると、リスナーが迫力に負けて疲れてしまうことを危惧している。
今は三十分ほどのライブが中心なので、それを感じるものはほとんどいない。しかしプロになって二時間のライブをこなすとなると、必ずこの問題にあたる。
そこでおれは、ピアノの生演奏を通じて、表現を抑える訓練をさせることにした。
バーでの演奏はライブとちがい、あくまでもBGMだ。自己主張しすぎては客の邪魔になる。
生演奏を始めたころはなかなか意図が伝わらなかったが、最近になってようやく主張しすぎない演奏を覚えてくれた。
これが身に着けば、いずれ歌の方でも強弱を取ることの大切さに気づくだろう。
自分の感情をぶつけるだけでなく、ときには淡々と歌うことで、聴く人たちに歌の意味を考えてもらう。そういう表現を覚えさせるのも、元スカウトマンでかつ彼らの相談役の仕事だ。
今日の演奏も、カップルたちの邪魔をすることなく、程よい距離感を保ちながら、ムードを盛り上げている。
これが歌にも活かされることを願うばかりだ。
「こんばんはぁ、マスター。席、空いてます?」
なじみのある元気な声にふりむくと、沙樹ちゃんが数名の仲間と店に入ってきた。
あの顔ぶれは、放送研究会の部員たちだ。
「いらっしゃいませ。こちらでよろしいですか?」
夜のバイト生の仁が、彼らをテーブルに案内した。
沙樹ちゃんは、ロック研に所属していないにもかかわらず、オーバー・ザ・レインボウの世話役をしている女子学生だ。その縁で、うちの店にもよく顔を出してくれる。
この時刻だと二次会だろうか。男女三人ずつの組み合わせで、女子がそれぞれ全員にチョコレートを渡している。
二組の男女は、どう見てもカップルだ。
だが沙樹ちゃんと残りの男子学生には、そういった雰囲気が感じられない。もっとも男の視線には、微妙な恋心が見え隠れしていた。
ただ残念なことに沙樹ちゃんは、彼の想いに気づいていない。
「こればかりは必ず報われるものではないからな」
男子学生に同情していると、仁が沙樹ちゃんたちのオーダーを持ってきた。ハイボール三つに、ウィスキーフロート、マティーニ、それと……。
「おや、これはまずいな」
レディーキラーのスクリュードライバーが注文されている。お酒の飲めない沙樹ちゃんが、勧められるままに頼んだのだろうか。
まちがいはないと思うが、男子学生の視線を考えると不安が残る。ここはマスターとして憎まれ役になろう。
おれはカウンターから出て、放送研のテーブルに近づいた。
「沙樹ちゃんは二十歳前だよね。スクリュードライバーは悪いけど出せないよ」
「え? あたしが頼んだのはオレンジジュースですよ、マスター」
「オレンジジュース? 入ってなかったけど、仁のミスかな?」
するとオーダーをまとめたらしい女子学生の顔色が変わった。
「ご、ごめん。あたし沙樹がオレンジって言ったから、オレンジベースのカクテルって意味だと思って……。すみません、マスター」
「いいんだよ。だれにもミスはあるから。お酒を飲ませたいなら、二十歳になってから堂々と注文してくれればいいからね」
ミスなのか意図的なのか解らないが、これ以上追及するのはやめよう。ただ沙樹ちゃんには、機会を見て警告しておいた方がよさそうだ。
おれは放送研のテーブルをそれとなく観察しておくことにした。
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