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4. 天狗の世界
闇夜を照らす松明が煌々ときらめき、木々しかないその場所が、まるで異次元へ誘う門のように感じられる。
何かしらの決意を持って花岡里香は前を見据えて立っている。見送りは不要と言い渡してあるので他には明羽と木葉以外誰もいない。
「里香さん、心の準備はできているかな」
「はい」
明羽の問に里香はしっかり頷いた。
「よろしい。では、参る」
明羽の言葉と共に松明が揺れる。そして何もなかった空間にぽっかり穴が空いた。奥は暗闇で見えない。深淵を覗き込むようで恐怖を覚えるものだが、里香は拳を握って強い眼差しをそこへ送っている。
頼もしい、と明羽は思う。大事な友だちを取り戻すために、彼女は強くあろうとしている。なんて美しい姿なのだろうか、と明羽は感動すら覚える。
木葉が先頭に立ち、続いて里香、そして後ろに明羽が立つ。
明羽の瞳が紫紺に変わる。
びゅう、と風が吹いて、三人の姿が消えた。
真っ暗闇の中、おぼつかない足取りで進む里香に手を差し伸べて、明羽が隣を歩いていく。目が慣れると、不思議なことに煌々と松明で照らされた石畳の道を三人は歩いていた。
神社の祭りの夜の風景のように、夜店が並んでいるような雰囲気だ。しかし、誰もいない。
前を行く木葉は慣れた様子で進んで行く。明羽の手を握ったままの里香は物珍しい光景にキョロキョロと辺りを見回して、その彼女の瞳に写った明かりがキラキラと瞬いて、明羽の紫紺の瞳に映る。
「綺麗なところですね」
里香が呟くように言った。
「そろそろコレを使ってもらおうかな」
明羽はどこから取り出したのか、天女の衣のようなふんわりした肩掛けの羽織を里香にかけた。
「これは人間だということを誰にも悟らせない為の道具なので外さないように」
明羽の言葉に里香はしっかり頷いた。
「人間だと分かると、どうなるのですか」
しばらくして、少し不安そうに里香が尋ねる。気にしていたらしい。
「天狗の世界において特にどうと言うことはない。でも相手は魔物。人間を敵視するモノもいれば食べようとするモノもいる。比較的人間に友好的で徳を重んじる天狗の中にも、もしかしたらそういう物騒な輩がいるかもしれない。怖がり過ぎもいけないが、用心の為気をつけるに越したことはない。それに天狗の領域とは言え、完全に天狗ばかりいる訳ではないからね。天狗の敵も侵入している可能性はある」
「敵?」
里香が不思議そうな表情で明羽を見た。
「そう。魔物や神の世界は奪い奪われ、力が支配するからね。強い神として名を馳せている天狗とて、危険な目に合わないということはない」
「あの、明羽さん。天狗は神様なのですか、魔物なのですか」
里香の問いに明羽は微笑んだ。
「同じもの、と私は思っている。神である一方、魔物と捉えることもできる。表裏一体というヤツだね」
「私には少し難しい話です」
里香はうつむく。
大事な友だちが神だか魔物だかの所にいるのだ。まず、そんな世界があることを受け入れるのも難しい話だろうに、里香はそれを受け入れ、友達を元の世界へ戻そうとしているのだ。
「理解しろとは言わない。君が納得できるように私は手助けするだけだ。納得いかないならどこまでも知ろうとすればいい」
「はい」
里香は顔を上げた。
「そろそろですよ」
前を行く木葉が振り返り、告げる。
風景が変わっていく。
ざわざわとした喧騒の中に、目のある部分に穴の空いた、そして鼻の長い仮面を付けているこの街の住人たちが現れ、路地を行き交っている。仮面の色は深い赤か白。口元は見えるようになっているが、仮面をつけていることで表情が全く分からない。
一様に紋付きの黒い着物を着ている。時折袴姿の者も混じっているが、黒色は変わらない。
行き交う流れに混じって歩く明羽を横目で見ていく者は多い。だが明羽は気にもしていない。
緊張した面持ちの里香が躓いた。
明羽は優しく微笑み手を差し伸べる。
天狗たちは無感情に通り過ぎて行く。
松明が弾け、炎が揺らめく。そして。
無音。
天狗たちの音なき足音が激しさを増す。更に激しく松明の光が弾けた時、ふわりと石畳に舞い降りた者がある。
漆黒の長い髪に両肩から伸びる暗黒の大きな翼が広がり、満月のように輝く白い肌に真白き仮面、そして紅い唇が覗く。妖艶な女だ。
他の天狗に比べると背が高い。頭一つ抜きん出て、その場にいるだけで彼女に跪いてしまいそうになる風格を持っている。
パチン、とまた松明が爆ぜた。
音が戻ると同時に、行き交っていた天狗たちが一斉に石畳に伏せた。
「夜の王の気配がすると思えば、本当にいた」
楽しげに女が言った。
「我が神域に何用であろうか」
女が明羽に近づいて行く。
明羽は見上げた天狗の長い鼻先に触れる。頭を垂れているはずの天狗たちが息を呑むのが分かる。
「怖いもの知らずなのか、それとも絶対の自信の為せるものか」
「天狗の王よ、少し邪魔している。挨拶が遅れて申し訳ないね」
明羽はいつもの調子で気楽に言い、仮面の鼻先から手を放した。
「相変わらず、君は美しい」
明羽の言葉に天狗の王は鼻で笑ったようだ。仮面の下に隠された表情を読み取るのであれば、だが。
「その忌々しい瞳。抉り取って妾に付け替えようか。それとも、その目自体に力がないのなら、お前を喰ってしまおうか」
天狗の王は明羽の顎に手をかけ、顔を近づけてくる。明羽はカラカラと笑って目を突き刺しそうな鼻柱を避ける。
「相変わらず、面白い冗談を言うんだね」
それを聞いた途端に天狗の王がそっぽを向いた。
「その顔よ。口惜しいのう」
「天狗が人間を食べるなんて、画期的なことだよね?」
明羽に揶揄されて天狗の王は無言を貫く。
「空腹に耐えかねて人間を食べてしまいたいなんて同情するが、直ちに徳を失い天狗として生きていられなくなってしまうからお勧めできないな」
「誠、忌々しい口じゃ」
天狗の王は明羽の口を右手で摘む。
「怒らないでくれ。美しい顔が怖い顔になってるぞ」
もごもごと天狗の手の中で明羽が言うと今度は頬を摘む。
「そなたが怒らせるのが悪いんじゃ」
とうとう両方の頬を引っ張られて明羽が「悪かった」と謝罪を口にする。
「最初からそのように素直であれば良いものを」
天狗の王はぽんぽんと明羽の頭を叩きながら微笑む。
「ところで」
と天狗の王が里香を見下ろした。
「そこな娘は固まっているようじゃが、とても綺麗な心根をしているな?妾の好みじゃ」
じいっと見据えられて里香が息を止めて耐えている。
「そのくらいにしてくれないか?彼女が怖がっている」
明羽が里香をぎゅっと抱きしめて天狗の王から姿を隠す。
「ふうん。そなたの手付きか。面白くないのう」
天狗の王はすぐに興味を失くして木葉の側に移動する。
「妾はやはりこの者が良い。ずっと欲しかったのじゃ。今宵こそ、夜の王を見限り、ここに残ってはどうじゃ?」
天狗の王の言葉に木葉は優美に微笑んだ。一瞬、大人の顔を見せた木葉に天狗の王はニヤリと口元を歪める。
「そなたは我らを惹き付けてやまない。そなたの心の深淵まで覗き込みたくなる」
舌なめずりしそうな勢いで天狗の王は木葉の顎を細い指先で上げ、お互いの唇が触れ合うかという距離まで近づける。
「そなたの欲を喰らいつくしたい」
「大変ありがたいお申し出ですが、残念ながら俺は明羽さんに売約済みです」
「それを承知で申しておるのに無粋な」
「そう、俺は面白みのない人間ですよ」
「そなた、まだ人間のフリをしているのかえ」
「俺は人間です。今までも、これからも」
睨むように木葉が言った。
ふ、と明羽が笑い、瞬時に天狗の王との間合いを詰めて木葉に触れる彼女の指先を優しく払う。
「戯れが過ぎると後悔することになる」
明羽の言葉に天狗の王の眉が顰められるが、すぐに笑顔を見せる。
「そなたと争う気はない。敵に回して得なことなど一つもないからな。それじゃあ、ゆるりと過ごせ、夜の王」
バサリと大きな羽音を立てて王は去った。途端に天狗たちが動き出す。
時間の流れを取り戻したように活気溢れる彼らは、明羽の横を通り過ぎるときだけ黙礼して行く。王の客人に対する礼儀だった。
明羽は木葉に肩をすくめてみせ、震えていた里香の背を撫でた。
「さあ、君の探しびとを見つけに行こう」
明羽の言葉に力を得たように里香は大きく頷いた。
往来から逸れ、三人は人気のない路地へ入っていった。明羽が迷いなく進んでいくので里香は不思議に思いながらも遅れないように付いていく。
山の手前の民家のある場所まで来ると里香も少し疲れていて足取りが重くなっていた。配慮するように明羽の歩みも遅くなっている。
しばらくして、話し声が聞こえてきた。
若い衆と親方のような雰囲気に里香がビクリと肩を強張らせる。
「片付けが済んだら飯だ。合羽、作業場の戸締まりはお前がしろよ。テツ、川に行って水くみしてこい。できるな?」
「はい」
若い衆が一斉に返事を返した。
里香がフラフラと声のする方へ小走りに行ってしまう。明羽と木葉は視線を合わせて、後からゆっくり彼女を追った。
「誰だい、お客か」
若い衆の一人が里香に気づいて声をかけた。
そこは庭のようになっていて、たくさんの石が積まれていた。
「あの、私……」
「お嬢さん、ここは職人の工房だ。若い女の子が来るような所じゃねえよ?」
何か事情があるのだろう、と若い衆は優しく里香に言う。
「てっちゃん!」
里香が叫ぶ。
「お、あんたテツの知り合いなのか」
若い衆の中でも一番年下だと分かる哲郎を皆が見る。
彼は黙々と箒を手に掃除をしている。里香を見ようともしない。
「俺の知り合いじゃない」
ぶっきらぼうに哲郎が答えた。
「でもよ」
年長の青年が哲郎と泣きそうな顔の里香を見比べる。それを遠巻きに明羽と木葉が見ている。
「お嬢ちゃん、俺は合羽ってんだけど、ここの若い衆のリーダーをしている。哲郎は新入りだけどよ、よく働くし、ゆくゆくは天狗道の修行者に選ばれるだろう。俺たちの希望の星なんだよ。だから今は余裕なくってあんな態度取ってるけど、分かってやってくんないかな」
天狗道の修行者と言えば、異能の力を極める者たちのことだ。天狗の王に仕えることを目的とした、言わばエリートなのだ。
「それはてっちゃんの意思なの?」
里香はこちらを見ようともしない哲郎を真っ直ぐ見つめて問う。そのあまりに真摯な瞳に誰もが胸を打たれているというのに、当の哲郎は冷たい顔をしたままだ。
「テツ、答えてやれよ」
見かねて合羽が言うと、哲郎は動きを止めて、やっと里香を見つめた。
見つめ合う二人に沈黙が降りる。
黙ったまま見つめ合うこと数分、耐えかねた合羽が口を開く。
「お嬢さん、テツは今まで人間の世界にいたから、ここでやってくのに必死なんだ。どういう知り合いかは知らねえけど、テツの才能を伸ばす手伝いをしてやってくれよ」
「人間の世界でも幸せだったと、そう思えなかったの?人間と暮らす日常が嫌になったの?」
「おい、お嬢さん、天狗が人間の世界で生きていくには天狗道を修めないと消滅しちまうんだよ。テツに死んで欲しいって言ってんのかい?」
口調を強めて合羽が言うと、やっと哲郎の顔に感情のようなものが表れる。
「合羽、お嬢様は悪くない。責めないで」
「んおお?お前の大事な人なんだな。そうか、そうか」
合羽は哲郎の様子に納得して、他の皆を連れて建物の中へ入って行った。
気を使われて残されたテツは箒を置き、木のバケツを手に取って歩き出す。その後ろをとぼとぼと里香も付いていく。
哲郎は沢の方へ歩いていき、バケツで水を汲むとまた元の場所へ向かって歩き出す。バケツの水は井戸の中へ流し、それを何往復もしている。
ふいに付いて来ているはずの里香の姿が見えなくて、哲郎は焦ったように走り出し、途中の道で地面に座り込んでいる里香を発見した。
「里香お嬢様」
大慌てで駆け寄り、哲郎は里香の状態を確認する。
膝から血を流し、痛みに顔をしかめている里香を心配そうに哲郎が覗き込む。
「立てますか?」
「うん」
「無理をするから」
「だって、てっちゃんが話してくれないんだもの」
里香は拗ねたように口を尖らす。
「ここであなたが人間だとバレたら、あまり良い結果を生みません。俺はまだ非力だから、あなたを守れない」
辛そうに哲郎が言った。
「どうして人間だといけないの?」
「俺の父親が人間だから。母さんはここの上の地位の人らしいんです。それで人間の男に良くない影響を受けたと思われてて、そんな風にした人間に対して否定的な感情になってるんです」
「でも、おじ様とおば様は仲睦まじくしてらしたでしょ?」
「本人達はそうです。人間と同じで天狗にも色々な考えの人がいるから、回りからどう見えるかっていうのは俺には分かりません」
「そうなのね」
里香はちゃんと哲郎が話してくれたことに笑顔を見せる。
「ねえ、本当に帰りたくないの?」
彼女の問いに哲郎は首を横に振った。
「俺は修行したいんです」
「私と一緒にいて欲しいって頼んでも?」
「それは……」
哲郎が目をそらした。
答えなど、決まっている。
「てっちゃん、お願い。一緒に戻ろう?消滅するとか、嘘だよね?もし本当だとしても、なんとか生きていける方法を探せばいいよ」
それが叶わないことを彼女はもう知っている。涙目で訴える里香から距離を取って、哲郎は頭を下げた。
「俺のことは忘れてください」
でも、いつかきっと会いに行くから。
哲郎の声にならない思いは里香には伝わらない。
「てっちゃん」
拒否されて、里香はうつむいた。
ぽとりと涙が地面を濡らす。
「さようなら。お元気で」
哲郎が駆け出した。成り行きを見守っていた明羽に頭を下げて通り過ぎる。
追いかけることもできずに、里香は突っ立っている。
「里香さん、そろそろ戻ろうかと思うが、いいかな」
明羽が声をかけ、彼女の手を取り歩き出す。
うつむいたまま、涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、里香は手を引かれるままに異界の門を抜け、自分のいるべき場所へ戻ってきた。
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