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二話
片割れの隙を突いて逃げ出し、霊体に変化して千里を越え、風と化して万里を駆け……単身諸国を回りました。
貴方の想像通り、世界は驚きに満ちていた。
市場には蜜が詰まった瑞々しい果実が並び、寺院からは朝な夕なコーランの祈りが響き、噴水広場では駱駝が水を飲む。
王侯貴族が白亜の豪邸を構える一方、貧民街には質素な砂岩の家々が犇めいています。
旅の途中、色んなものを見ました。戦火で滅んだ村落や涸れた泉の傍らを通り過ぎ、城壁をくぐった先では、華やかな目抜き通りをのし歩く象とその頭上の神輿を目撃します。
神輿に踏ん反り返っているのは恰幅良い金持ちで、両脇に美女を侍らし、群がる観衆に金をばら撒いていました。
高笑いする金持ちの足元で、老いさらばえた乞食が象に踏み潰されました。傾いだ家の窓を覗けば、粗末な寝台に仰向けた老婆が苦しげに息をしています。
薬代を稼ぐと前置きして出て行った息子は、色街で娼婦を抱いていました。
「人間って愚かだなあ」
人の営みを幾年も見届けるうち、ジブリールの口癖が移りました。とはいえ、そこに侮蔑や嫌悪の感情はこもっていません。貴方はあるがままをただ受け止め、愚かなものを愚かと評しただけです。
危険な目にあうこともありました。貴方の外見は人目を引く。街角で賊に待ち伏せされ、あるいは砂漠で襲われ、身ぐるみ剥がされそうになった事も一度や二度ではありません。
でも大丈夫、貴方は精霊ですもの。指ぱっちんでどろんしちゃえば安心安全、後腐れありません。
しかしまあ行く先々で煩わされるのも面倒なので、幾重にもフードを纏い、目元以外を注意深く覆いました。これで余計な注目を買わずにすみます。
賊や人さらいの標的になる危険を冒し、なお実体化を解かずにいたのは、五感を世界に開いて豊饒を享受する為。
貴方は足と心の赴くまま、様々な街や村を訪れ、市場の果実に舌鼓を打ち、辻で催される大道芸を見物しました。
特に心を惹き付けたのは勇壮な剣舞です。
銀月の弧を描くシャムシールを自在に操り、宙に投擲しては受け止める踊り子たちの芸の極みに、貴方は憧憬を募らせました。
「人間は愚かだけど、すごいなあ」
百年後。
貴方が訪れたのは大国と大国の中継地点にあたり、隊商の補給地として繁栄を極めた商都でした。
市街には白亜の家々が立ち並び、広場には瀟洒な噴水が鎮座しています。
蛇使いは笛で蛇を躍らせ、赤銅色の肌の巨漢が火を噴いて、麗しい踊り子が舞っていました。
「賑やかな街だな」
野次馬にまじって踊り子の舞を見ているうちに心が浮きたち、足が拍子をとっていました。
だしぬけに突風が吹き、フードを巻き上げ、貴方の素顔を暴きます。踊り子の柳腰に鼻の下を伸ばしていた隣の男がぎょっとし、鼻梁の秀でた端麗な横顔に魂を抜かれます。
踊り子に注がれていた視線が翻り、人垣の前から三列目で立ち見していた貴方に集中します。
「外国の人?」
「髪や睫毛まで白いぞ」
「あの瞳見ろ、宝石みてえだ」
ひそひそ、ひそひそ。
「まずいぞ」
風向きが怪しくなってきました。フードを被り直して踵を返す間際、無骨な巨漢が立ち塞がります。
「あっ!」
乱暴にフードを剥かれ、顎を掴まれました。
「ばか高そうな耳飾りだな。売れば当分遊んで暮らせそうだ」
「見た感じ世間知らずの坊ボンってとこか?」
「身ぐるみ剥いで奴隷商に売ってやる」
「その前にお愉しみといこうぜ、こんな上玉めったにお目にかかれねえからな」
「ええと……」
さて、困りました。
頼りない笑顔を浮かべてあとずさり、両手に掴んだ宝石を、ならず者の集団にさしのべます。
「これが欲しいの?ならあげる、別にいらないし。重くて嵩張るし持ち運び大変だったんだ、霊体になれば次元の歪みに隠せるけどね、人に化けてる間は物質化を余儀なくされるってジブリールが」
次の瞬間、刀が振られました。
地面に宝石をばら撒くと同時、煙と化して上方に離脱します。突然標的がかき消え、ならず者たちは戸惑いました。
「どこ行きやがった!」
「追えっ、逃がすな!」
ヒステリックに怒鳴り散らし、路地から路地へと散っていくならず者を見下ろし、貴方はたまらず吹き出しました。
「ジブリールの言ってたとおり、人間って愚かだなあ」
自分はすぐ上にいるのにそれすら気付かず、蟻の子のように地上を這いずり回る男たちが滑稽で、しばらく笑い続けました。その後は面倒を避け、屋根の上を飛び歩いて移動します。
剣戟が聞こえてきました。巨大な建物があります。なんだろうと視線を飛ばせば、剣を持った男たちが向き合っていました。両者とも疲労困憊、満身創痍です。
「いけ、殺っちまえ!」
「全財産賭けてんだぞ、ぶざまな戦いすんじゃねえ!」
階段状の座席を埋め尽くし、拳を振り上げてけしかけるのは、試合に熱狂した市民たち。いずれも殺気立っています。
その光景に興味を引かれた貴方は、闘技場の人ごみに紛れ、観客の一人に聞きました。
「何をしてるの」
「見てわかんねーか、奴隷を戦わせてんだ」
「何故そんな事を」
「楽しいからに決まってんだろ」
「ふうん」
人間って愚かだなあ。野蛮だなあ。
虎も獅子も狼も、貴方が砂漠で出会った獣たちは生きるために他の動物を狩っていました。自分の悦楽の為だけに同胞を嬲り殺し、ましてや殺し合いを仕向けたりしません。
貴方はしばらく試合を観覧し、すぐに飽きました。正直な所、殺しは見慣れていたのです。
片方の男が剣を落として倒れ、観客は総立ちになり、歓声が爆発します。
闘技場の通路は奴隷の居住区に通じていました。居住区といえば聞こえはいいですが、実際は地下牢です。ひび割れた石壁には等間隔に松明が燃え、牢の内部の様子を朧げに暴きます。
錆びた鉄格子を嵌めた牢屋には、足枷を嵌められた奴隷たちが幽閉されていました。
「虎の餌になるのはいやだああ、助けてくれええええ」
「ああ、どうしてこんな目に……」
男もいれば女もおり、大人がいれば子供もいました。石壁に頭を打ち付ける老人の隣では、うら若い女が啜り泣いています。舌を噛み切り果てた者もいました。
恐怖と絶望に支配された地下牢の様子は実に気が滅入るものでしたが、意に介さず進みます。
奥へ行けば行くほど雰囲気は荒み、獣脂が焼ける甘ったるい匂いと饐えた体臭が漂ってきました。この先が地獄に通じてる、と言われても信じてしまいそうです。
『劣等種に心を寄せるな。人間は醜い。同胞の間で立場の上下を作り、犯し殺し憎み合い、少しも進歩しない蛮族だぞ』
『精霊にも序列はあるじゃないか』
『それは世界が定めた掟だ。人間は自然の摂理に背いて同胞を貶める』
在りし日の同胞の言葉が、真に迫って感じられました。
何故引き返さなかったのです?好奇心に負けた?先に何があるのか知りたかった?大した探求心です。
獰猛な唸り声に視線を流すと、最奥の手前の牢で巨大な影が動きました。暗闇に光る一対の金の瞳……鎖に繋がれた虎です。前脚を撓めて牙を剥き、こちらを威嚇しています。
貴方は鉄格子の隙間に手を差し入れ、思いがけない行動をとりました。
「よしよし。いい子だね」
松明の火影が壁に影絵を投じる中、オパールと黄金の視線が交錯します。
寸刻の対峙を経て虎が膝を折り、大きな猫さながら喉を鳴らして甘えてきました。
貴方は小さく微笑み、掌を一度強く握り込んでから開き、よく冷えた水を湧かせました。
虎は貴方の手に口を付け、夢中で水を飲みます。可哀想に、余程飢え渇いていたのでしょうね。あるいはそうする必要があったのか……。
虎の檻に片手を差し伸べたまま、隣の牢に視線を移します。
人がいました。年の頃はたち前後、貧相な体躯の青年です。
薄い胸には痛々しく肋骨が浮き、脂と垢に塗れた髪は伸び放題。身に付けているのは襤褸の腰巻だけ。片足は太い鎖で繋がれ、その先は壁に打ち込まれてます。
いでたちだけなら他の奴隷と大差ありません。
貴方の心を捕らえたのは、青年が牢内で繰り返している奇行でした。彼は一方の壁に向き合い、両手を揃えて振り上げ、また振り下ろす動作を延々続けているのです。
「何してるんだい」
「素振り」
「牢屋で?」
「見りゃわかんだろ」
一瞬たりとも打ち込みの手は止めず、ぶっきらぼうに答えます。
動作に合わせて汗が飛び散り、松明の炎を受けてきらめきました。
「何故素振りをしてるんだい」
「世界一の剣士を目指してるからに決まってる。笑いたきゃ笑えよ、明日には虎に食われる奴隷の分際で何夢見てんだって……ォわっびっくりした、なんだお前番兵じゃねえのかよ!」
正面を一瞥、そこにいる貴方に初めて気付いて仰天します。
大袈裟にとびのく青年とは対照的に、貴方は鉄格子を掴んで興味津々身を乗り出しました。
「名前はなんていうんだい」
「……知ってどうすんだ。墓に刻んでくれんのか」
「それが望みなら」
「迷子だかなんだか知らねーけど、奴隷の牢を見物にくるなんて悪趣味だぜ。とっとと帰れ」
「知りたい事を聞くまで去らない」
貴方が返事をすると、体を斜に傾げて「ん」と片手を突き出します。残りの手はまだ素振りを続けていました。
「ただじゃ教えねェよ」
「お代ってこと?」
それはそうだ、うっかりしていました。市場では大勢の人々が貨幣と品物を交換し、踊り子にはお捻りが飛んでいたではありませんか。
「すまない、虫がよすぎた」
しおらしく頭を下げ、ますますもって渋面になる青年に、特大の金剛石を手渡しました。
「…………ッ!?」
「まだ足りない?」
息を飲んで硬直する青年の反応を勘違いし、その手のひらにサファイアとルビーを足します。
「えっ、なっ、ええっ?お前なんなの本当、宝石商の倅かなんか!?」
「僕は僕だよ。君は」
お代をせしめた以上知らぬ存ぜぬもできず、ぐっと顎を引き、ポツリと答えました。
「……マルズーク」
「何故ここに?」
「奴隷狩りだよ」
「他の家族は」
苛烈な双眸に暗い影が過ぎりました。
「みんな殺された。父ちゃん母ちゃん姉ちゃん兄ちゃん、妹もみんな」
マルズークが金剛石を噛みます。がちん。
「歯が欠けた」
「お腹すいてるの」
「本物かどうか確かめてんの」
サファイアとルビーにも同じように歯を立て、真贋を見極めたのち、腰巻に突っ込みました。
「そこにいれるの」
「文句あっか、これっきゃ纏ってねーんだから仕方ねえだろ」
「だよね……」
マルズークが鼻を鳴らします。
「まあいい、どっちみちやることなくて暇してたんだ。もらった宝石ぶん、ツマンねー身の上話でもしてやるよ」
斯様にマルズークは義理堅く、鉄格子を隔てて座った貴方に、奴隷に身を落とすに至った経緯を打ち明けてくれました。
「俺の故郷はここからずっと行った小さい集落。貧しい村でさ……井戸なんか広場に一個っきゃなくて、みんなほそぼそ暮らしてたんだ。うちはお袋も親父も石工で、年中石を彫ってたよ。家を継ぐのは一番上の兄貴って決まってた。俺は早く家を出て、都で成り上がりたいって思ってたんだ」
マルズークが揃えた両手を振り上げます。宙を切る剣筋が見えました。
「毎日毎日木剣で素振りした。早く軍隊に入って、親父やお袋に楽させてやるのが夢だったんだ」
しかし、そうはなりませんでした。
「一か月前……かな。村が盗賊に襲われたんだ。焼き討ちだよ。お袋と親父は焼け死んで、兄貴はあっさり斬り捨てられた。村一番の力自慢だったってのに、あっけねえ最期だよ」
「君は」
「……生き残っちまった」
素振りが巻き起こす風を受け、石壁の松明の炎がジッ、と燻ります。独白には苦い後悔と自責の念が滲んでいました。
「それから……盗賊にかっさらわれて、ここに売られた。故郷がどうなったかは知んねえ。灰に帰っちまったかな」
「どうしてまだ素振りを続けてるの」
何も掴めない手で。
「……」
「君だけ他の人と違うのは何故?」
「違うって」
「壁を見てブツブツ喋ってる人、床に寝転んだまま動かない人、壁にひたすら頭突きしてる人……マルズークだけだよ、目の焦点がちゃんと合ってるのは」
「ハッ、こんな所にいて気が狂わねえほうがおかしいさ」
「どうして君だけ狂わずにいられるんだい」
「諦めてねえから」
「何を?」
「逃げること……じゃねえな。生きること」
きっぱり言い直し、正眼の構えから両手を振り下ろします。剣を握ってないにもかかわらず、その素振りが巻き起こす風はさらに遠くへ波及し、松明が揺れました。
眼光鋭く虚空を睨み据え、マルズークが言いました。全身に闘気と生気が漲っています。
「俺は明日虎とやる。向こうの牢にいたジジイと一緒に引っ張り出されて、若いのと老いたの、どっちが先に食われるか賭けを張るんだと。番兵がそういってた」
「ふうん」
「牢から出された時が好機。番兵の隙を突いて、剣を奪って逃げるんだ」
「手が震えてる。本当は怖いんじゃないかい」
「……」
「声も変だ」
「気のせいだろ」
「皿が空っぽだ。ろくに食べてないんだろ。そんなに痩せ衰えて、まともに走って逃げれるのかい?」
「うるせえ」
「なんて愚かなマルズーク、君の逃亡計画が成功する見込みは砂漠から金剛石を見付けるに等しい確率だ。闘技場に何人の番兵が詰めてると思ってるんだい」
「できるかどうかじゃなくてやるんだよ、そのために牢にぶちこまれてから千回万回素振りを続けてんだ。剣がなけりゃ奪えばいい、番兵ぶった斬ってトンズラだ」
素振りが巻き起こす風圧に前髪が捲れ、闘志が滾る眼光を暴きます。貴方は呆れました。
「本当に君は愚かだねえ」
「なんでだよ」
「その足で逃げきれると思ってるのかい?」
マルズークには鉄の足枷が嵌められており、身動きのたび太い鎖がじゃらじゃら音をたてます。枷に拘束された足首は膿んで、赤黒く爛れていました。
「素振りを続けたところでかえって足を痛めるだけだ」
「……わかってる」
「じゃあ」
「何かしてねえとおかしくなっちまいそうなんだよ」
マルズークの主張は非合理でした。完全に破綻しています。本気で逃亡を企てるならむしろ体力を温存しておくべきなのに、壁に向かい黙々と素振りを続け、自分に言い聞かせるように独りごちるのです。
「これからは剣で身を立てるんだ」
「剣士になるのが夢なのか」
「いや。先がある」
「何?」
「王様になるんだ」
「なってどうするの」
「そりゃお前、たらふくうまい飯食って美人を抱いて贅沢して暮らすに決まってらあ」
ああ、この少年は。
「……面白い」
なんて愚か。
なんて強欲。
暗い地下牢に閉じ込められ、明日には虎に食われる運命だというのに、明日への希望を手放さず愚直に素振りを続けている。
それは気まぐれ。
貴方はマルズークの野望のはてを見たくなりました。
この子に付いて行けば、ひょっとしたら物凄いものが見れるかもしれないと期待したのです。
牢の中のマルズークが素振りを続ける前で、貴方は深呼吸して立ち上がり、白くたおやかな手を宙にのべ、おもむろに舞いだしました。
マルズークが手を止め驚愕。
他の牢の奴隷たちも相次いで顔を上げ、鉄格子にしがみ付き、感嘆の吐息を漏らして舞を見詰めました。
一人旅を続けた百年の間に、貴方は数多くの大道芸に立ち会い、見様見真似で踊り子の舞を体得しました。
白い髪が絹の清流めいて靡き、薄衣が雅に翻り、ラピスラズリの耳飾りが涼やかに揺れ、青い流星の軌跡を曵きます。
廻る、廻る、廻る。
貴方は廻る。
黄金律の均整がとれた四肢にベールを纏い、風を孕んで絶えず形を変えるそれを躍動的にたなびかせ、松明に煌々と映える横顔も美しく、神秘にけぶる睫毛の下、極光の流し目で奴隷たちを魅了します。
心を奪われたのは奴隷のみならず、言葉の通じない虎でさえ見とれています。
火影の陰翳を孕んで宙を薙ぐ、衣の旋回軌道が収束。
爪先から足裏へ緩やかに重心を移し、余韻が染み渡るのを待って深々一礼する舞い手に疎らな拍手が送られ、やがて万雷の喝采へと膨らんでいきました。
これぞ実体化にこだわった最大の動機。
技巧の仕上げに叩き込む体を必要とする逆説。
マルズークも放心状態で手を叩き、ハッとして怒鳴ります。
「なんで踊ったの?馬鹿なの?」
「慰めになればと思って」
「ハッ、有難ェ話だな。牢破りの手伝いをしてくれた方がよっぽど」
最後まで言わせず、悪戯っぽく笑んで指を弾きます。
途端に牢の扉が開け放たれ、奴隷たちの手足に嵌まった鉄枷が壊れました。
「閂が外れたぞ!」
「奇跡だ、みんな逃げろ!」
歓喜の涙を滂沱と流し、一斉に逃げ出す奴隷たち。立ち上がる力の尽きた老人には肩を貸し、母親は子供の手を引き、希望に顔を輝かせて出口を目指します。
虎も雄々しく咆哮し、前脚で床を蹴ります。
マルズークは呆然自失の態で、あんぐり口を開けていました。
「これ……お前が?」
「来る?来ない?」
わかりきった問いにグッと顎を引き、さしのべられた手を掴んで駆け出します。
飢えた虎が放たれた闘技場はパニックに陥り、観客や番兵が逃げ惑っていました。
「牢破りだ!」
「貴様が手引きしたのか、奴隷の逃亡幇助は大罪だぞ、即刻捕まえろ!」
槍や剣で武装した番兵たちが、貴方たちを指して叫び交わします。その背後で猛虎が巨大なあぎとを開け、番兵の頭に食らい付きました。
「ぎゃああああああ!」
「ははっ、ざまーみろ!」
マルズークが痛快に笑い、それに応じて貴方も笑い、青年を抱えて飛翔します。
「人間じゃねえの!?」
「精霊だよ」
褐色の指がそっと目に触れ、感嘆の吐息を零します。
「どうりで……綺麗すぎるわけだ」
「君は?これからどうする」
「言ったろ、修行にでる」
「なら付き合うよ」
「何ができんの?」
「僕は精霊だ。五大元素に干渉して事象を操作できる」
「たとえば」
おもむろに衣の袖をめくり、てのひらを上向れば、懇々と水が湧き始めます。マルズークは口笛を吹きました。
「最高じゃん」
「序でに」
マルズークの足首に手を添えれば、鉄枷の痕が瞬く間に癒えていきます。
さても奇妙な二人旅の幕開け。
「行きたい所はある?」
風を切って空を飛ぶ貴方の問いに、マルズークは束の間黙り込み、小さい声で告げました。
「……俺の村」
「了解」
貴方はその願いを承り、マルズークを故郷に運びました。
村には誰もいませんでした。
朽ちた家々と黒焦げの死体が、半ば砂に埋もれて風化しています。
マルズークが外壁の煤けた小屋に駆け寄り、入り口の手前で立ち尽くします。
「ここが俺んち……だった」
過去形で言い直し、手の甲で瞼を擦り、土間に横たわる骸をおぶって運び出します。貴方は手伝いもせず、ただそれを見ていました。
マルズークは中心の広場に大小七体の骸を並べ、順に指して紹介します。
「父ちゃん。母ちゃん。上の兄貴。下の兄貴。姉ちゃん。弟。んで、いちばんちびが妹」
「……そっか」
ジブリールの言うことは間違いだった。人間には個体差がある。皆が皆、愚かなだけとは限らない。
「みんな火を放たれて焼け死んだ。俺だけ助かった」
マルズークが貴方を振り返り、頭を下げました。
「水、出せるか」
無言のまま両手を翻し。
「掛けてくれ」
貴方が手より湧かす水は砂漠を潤し、黒焦げの骸に染み渡り、記憶の業火を癒しました。
マルズークはずぶ濡れのまま、貴方が降らす雨を浴びて嗚咽しました。
それから一人で砂を掘り、家族を埋葬し、貴方があげた金剛石で墓に名前を刻みます。
「漸く帰って来たぜ父ちゃん母ちゃん、待たせちまってごめん。家守れなくて悪い、兄ちゃん。姉ちゃんも……アーダムの嫁さんになるって決まってたのに、悔しいよな。カーミルとサフィーヤも、もっと遊んでやりゃよかった」
ガッガッ。
砂に立てた石に金剛石を叩き付けます。
「石工の倅が身の程知らずな夢見んな、家の事手伝えって怒られてばっかだったよな」
ガッガッ。石が削れます。
「けどさ父ちゃん。俺、絶対剣士になっから」
拳で強く瞼を拭い、真っ赤な目を瞬き、ぐるりを見回します。
「世界一の剣士になって、軍でどんどん出世して、べっぴんなお姫様と結婚して……しけた石工の倅が夢を見ても許される、豊かな国を作るんだ」
墓に誓いを立てるマルズークの隣で、貴方は優しい慈雨を注ぎ続けました。その水は砂漠をぬかるませ、隅々まで染み渡り、濁った泉が生まれました。
墓の方を向いたまま、マルズークが背中で頼みます。
「頼みがある」
「何だい」
「舞ってくれ」
言われた通りにしました。
白いおみ足でぬかるみを蹴散らし、跳ね、羽衣に見立てた薄絹を翻し、雨の中に架かる虹をくぐって舞い踊ります。手向ける花も摘めない砂漠の集落では、貴方の舞こそ最高の弔いでした。
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