ピクトグラム

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 あたしの彼氏は、太陽レッドだ。  真っ赤なヒーロースーツ。額には輝く、金色の太陽マーク。  彼は今日も、宇宙征服をもくろむ悪の組織ブラックホールから、地球を救うため、命をかけて戦っている。  実際に戦っている姿は、あたしは見たことがないんだけど。  でも絶対かっこいい。  目の前でレモンティーを飲む彼を見ながら、あたしは考える。  グラスに詰め込まれた多めの氷をストローでざくざくするみたいに、悪役モブ、コズミックダストを蹴散らして、仲間と共に巨悪に立ち向かう。  彼の仲間は、水星ブルーに、金星イエロー、そして木星グリーン。ピンクは……割愛させていただきます。  ブラックホール大魔王は、人間の心に入り込む。  心に芽生えた塵ほどの小さな悪意を吸い上げ、増幅させるのだ。  おびえ、後ろめたさ、虚栄心、そういうものが大好物だ。そして多くの人間はそれを持ち合わせている。  地球は農場。  悪意は魔王の嗜好品。  煙草をぷかぷかするみたいに、人の心を消費する。  ま、ちょいちょいダサい設定が気になるっちゃ気になるけど。  でも、彼がヒーローなのは事実だ。  だってほら、今だってそう。困っている人がいたらすぐに駆けつける。デートの最中だって。  ファミレスで隣の席の人がスマホを忘れたまま席を立ってしまったと知れば走って届け、その途中で迷子になった子どもと一緒にお母さんを探し、おばあさんの荷物を持ち、日本語がわからない外国人を駅まで案内して、やっとあたしのもとへ帰ってくる。息ひとつ切らさずに。  お店に戻ってきた彼は、空になったグラスに水を注いでくれた店員さんに、片手をあげて感謝する。  あたしのグラスにも、透明な液体が注がれた。  ありがとうございます。  それから真っ赤な苺ソースがかけられたパンケーキを平らげ、あたしたちは外に出た。  白い手袋のうえから、手をつなぐ。つなぐのはいつもあたしからだけど、彼に軽く握り返されるだけで、あたしの心臓が音を立てる。  感触はいつもするっとした化繊素材。少しだけぬくもりが伝わるこのじれったさが好きだ。  もっと触りたい、そんな気持ちにさせる。  赤いマスク、黒いゴーグル、そのしたの彼の素顔を想像する。  どんな目をしてる?鼻は、口は?肌の色は?一日中考え込んでみたって、正解はわからない。  彼の素顔が見てみたい。恋人なら、当たり前の欲求じゃない?  ヒーローの彼女としては、我慢するところなのかもしれないけど。  あたしたちは日当たりの良い河川敷をゆっくりと歩いた。ランニングウェアのおじいちゃんが、あたしたちを追い抜いていく。  前方には、仲良く犬の散歩をする夫婦。あたしは彼との未来を夢想する。  途中で彼はやっぱり子どもたちにつかまって、水切りのコツを教えている。  平たい石を選んで、腰を落として、体を斜めに倒した独特のフォームで投げた石が川面を滑って、子どもたちが歓声をあげた。  芝生の上に座って、あたしは赤いスーツの背中を誇らしく見つめた。地球はきっと救われる。彼の手によって。  日が傾きかけてようやく、彼は解放された。  子どもたちが手を振る。あたしも小さく手を振って返した。  涼しい風が吹く。彼はあたしの隣に腰掛けた。  子どもたちの姿が小さくなったのを見計らって、あたしたちは芝生に座ったまま、出会って2度目のキスをした。  その感触はやっぱりさらりとした化繊素材だったけど、彼の唇の形が少しだけわかって、あたしは満足した。  黒いゴーグルの奥にあるだろう瞳を見つめて、彼の背中に手を回す。  平たく堅い感触の彼の胸に、頭を預けた。  そっと目を閉じる。風の匂いのなかに、彼のぬくもりが混ざり合う。  抱きしめ返してくれたらいいのに。  あたしはいつも物足りなく思ってしまう。  彼の態度にある、ほんのわずかな逡巡を、あたしは知っている。  その迷いのわけを、あたしは知りたい。  はじめてわがままを言ってみる気になったのは、どうしてだろう。夕闇のせいかもしれない。 「顔、見たい。本当の顔」 彼はすぐにかぶりを振った。 「誰にも言わないから、お願い」  あたしは体を離し、彼のマスクを見上げる。そっと手を伸ばすと、白い手袋があたしの手をさえぎった。  強い拒絶を感じて、あたしは悲しくなった。  今までこんなふうに思ったことはなかったけど、はじめて彼との関係に不安を感じた。 「わかった。もういいよ」  立ち上がって、スカートの芝を払う。  バッグを持ち直し、背中を向けようとしたとき、彼があたしの手をつかんだ。  黙ったまま、あたしを見上げてくる。顔は見えないのに、困ったような彼の気持ちが伝わってきた。  彼は強くあたしの手を握って離さない。あたしはまた、芝生に座り直した。  別れたくない気持ちは、あたしも一緒だ。だけど、別れても仕方ないかもって気持ちもほんの少しだけある。  その気持ちを切り札に、あたしは彼を揺さぶる。  川向こうの町並みに、日が沈んでいく。  取り残された光がぼんやりと世界を照らしていた。  彼は決意したように、ゆっくりと自分のマスクに手をかけた。  首元から、赤い布を引っ張り上げていく。  彼の腕が邪魔して、よく見えない。  赤いヒーローマスクは、額まで持ち上げられ、最後にはくしゃくしゃになって彼の頭から取り払われた。  あたしは彼の顔を見た。  真っ黒で、目も鼻も口も見えない。額に白い星のマークが3つ。  彼は悪役モブ、コズミックダストだった。  あたしは彼の顔を見つめる。彼も見つめ返してきた。口元がわずかに動く。 「がっかりした?俺が、君の思っているようなヤツじゃなくて」  はじめて聞いた彼の声は、思ったより高く、震えていた。 「俺は悪の組織に属している。君をずっと騙していた。このヒーローマスクで」  彼は手の中の赤い布きれを握りしめる。  あたしは静かに、彼の声を聞いた。 「嫌われても仕方ないって思う。ごめんな」  あたしはちぎれてしまいそうなほど首を振った。  そして彼を抱きしめた。  体は真っ赤な太陽レッド、顔は悪役モブの彼を。 「別れない。絶対」  彼に触れた感触は、やっぱり安っぽい化繊素材だった。  でも、関係ない。 「だって、あたしはあなたの本質を知ってる。あなたが本物のヒーローだってこと、知ってるから」  はじめて彼は、あたしを抱きしめ返してくれた。  すっかり日の落ちた裏通りを、あたしたちは手をつないで歩いた。  太陽が沈んだとたん、空気がふっと重くあたしの体を押してくる。 「今からうちに来て、俺の両親に会ってほしい」  彼の申し出に、あたしは心をときめかせた。  暗闇が深く、あたしの行く道を示している。 (了)
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