338人が本棚に入れています
本棚に追加
アンリがこの世界に転生する前に打てる手は打とう。
あいつも記憶が引き継がれているとすれば、あいつが来てから動くのは悪手だ。あいつには何一つ情報を渡したくない、そうしなければバッドエンドよりもろくな目に遭わないと身をもって知らされた。
その日の授業を終え、放課後になる。
本来ならば教室まで迎えに来たハルベルとともに執務室まで送ってもらうことになるのだが、ここで俺は執務室に向かわずにハルベルに寮舎の自室まで送ってもらうことにした。
「本当に大丈夫ですか、医者に診てもらわなくて」
「ただの寝不足のようなものだと言ってるだろ。問題ない。今日は早めに休む」
「食事はどうしますか?」
「そのときの体調で決める。多分必要ないだろうがな」
「そうですか……」
――寮舎、自室前。
アンフェールに会いに行くのを止め、疲れが取れていないから今日は早めに休むということをハルベルに伝えたときからずっとハルベルはこの調子だった。
無論、これは仮病だ。ハルベルが動きやすくなるように敢えてこの選択を選んだのだが、必要以上に心配そうな顔を擦るハルベルを見ているとその選択肢を誤ってしまった気がしてならない。
「とにかく、俺のことは気にしなくていい。……寝るから邪魔をするなよ」
「リシェス様がそう仰られるのなら……」
半ば強引に押し切り、なんとかハルベルを部屋の前から立ち退かせることができた。
そして自室に入った俺は、そのまま扉に耳を寄せる。扉の向こうでハルベルが動き出すのを確認し、そろりと扉を開いた。
すでにそこにハルベルの姿がないのを確認し、俺は恐らくハルベルが向かったであろう廊下を歩いていくのだ。
俺の知ってるハルベルならば、恐らくすぐにでも俺の安眠のために香油を用意してくれるはずだ。
……でなくては困る。そのためにわざわざ仮病したのだから。
そして想像通りハルベルが寮舎を出ていこうとしているのを見て、俺はこっそりその後を追いかけた。
俺にはずっと引っかかっていることがあった。ユーノという男の存在だ。
前回の世界線ではアンフェールに調べてもらった結果、この学園に在籍している人間ではないと知った。
恐らくあの男はハルベルが街で雇ったのだろう。根拠はないが、本当にハルベルの友人である可能性よりはあるはずだ。
そして、初めて死に戻りの能力を使ったときに襲われたことを思い出す。
あれがユーノとは限らないが、あのとき俺が襲われ、殺された理由も不明だ。考えたくはないがもしハルベルが俺を殺害するようにと俺に依頼をしていたのなら――そんな考えがあった。
それから次の世界線、そこでユーノとハルベルが話し合ってるのを見た。
あのときハルベルの様子を考えるとなにやら企んでる気配は確かにあった。けれどそれはアンリに対するものだった。
けれど、あの世界で実際に命を落としたのはハルベルだった。――しかも、俺の部屋でだ。
そして、死体を見つけた俺を殺したのは間違いなくアンリだった。
ハルベルの死因はしっかり見ていないが、それでもアンリが俺を殺すために使ったあの斧と、ハルベルの死体の夥しい出血量を思い出す。
ハルベルがアンリを殺そうとした結果、アンリがハルベルを返り討ちにした――或いは最初からアンリはハルベルを消すつもりだった。
どちらにせよ、俺がアンフェールの部屋に泊まっている間になにかがあったはずだ。
この世界でユーノのその後は不明だ。
最後に、三つ目の世界線。
ハルベルは恐らくあの世界のアンリを殺した、或いは動けなくなるくらいには負傷させた。
実際にその死体を見ることはできなかったが、アンリのことだ。なにもなく、あの状況で大人しくできるとは思えない。
アンリにも俺と同じように死の概念が存在し、その度に世界を移り変わってる。それとも、複数の世界を同時に俯瞰して眺めてるのか。
――試す価値はあった。
そして、それを実行に移すには恐らく俺一人では不可能だ。ユーノに会う必要がある。
今から俺がやることはた一般人の暗殺依頼だ。
――それもまだ、この世界に存在しない架空のキャラクターの。
ハルベルと直接話すことも考えてきた。ハルベルならば喜んで俺の言うことを聞くということも分かっていた。
けれど、アンリは既にハルベルを要警戒してるのが分かっていたからこそ、ハルベルだけに任せられなかったのだ。
それに、と俺は先を行くハルベルの背中を見詰めた。
……俺はハルベルのことを知っているつもりでなにも知らなかった。
あいつがなにを隠しているのか知りたかった、或いはなにもなくてもいいから自分の目で確認して信じたかったという気持ちもあった。
つまりは好奇心だ。
上着を羽織ったハルベルは、そのまま裏門から森へと抜けた。流石に馬車かなにか用意してるのではないかと思っただけに少し驚いたが、確かに単身の方が動きやすいし街までには然程時間はかからないはずだ。
――実力があればの話だが。
馬でも借りようかと思ったが、音を立てればハルベルにバレてしまう。
裏門前、そのまま森の奥へと消えてしまうハルベルの背中を見て取り敢えず後を追おうかとしたときだった。
「――そんな軽装でどこへ行くつもりだ、リシェス」
頭上から落ちてきた低い声にびくりと背筋が伸びた。
――まさか、こんなところで会うなんて。
丁度訓練場へと向かうところだったようだ。剣を携えたアンフェールがそこに立っていた。
「アンフェール、どうしてここに……」
「たまたま訓練場帰りにお前を見かけただけだ。……それより一人で何してる? いつものあのチャラチャラした世話係は一緒じゃないのか」
チャラチャラした世話係、というのはもしかしなくてもハルベルのことだろう。
相変わらずアンフェールはこの世界でもハルベルのことをよく思ってないらしい。
「ハルベルは……少し野暮用だ」
「それで、お前はなにしてる」
「……野暮用だ」
咄嗟に上手い言い訳が出てこず誤魔化そうとするが、アンフェールはこんな言葉で誤魔化されるような男ではない。
「なんだと?」と眉を釣り上げるアンフェールに「冗談だ」と慌てて俺は付け足した。
こうなったら素直に吐いた方がいいだろう。それに、これ以上ハルベルを見失っても困る。
「少し街へいかなければならない急用が出来たんだ」
「馬車は用意してないのか」
「……急だったからな」
「まさかとは思うが、お前一人で森を下っていくつもりだったのか?」
「……そうだ」
「…………」
「分かってる。危険だという噂も知ってる。……だからこうして迷ってたんだ」
アンフェールに文句を言われる前に先に薄情すれば、アンフェールは呆れたように目を伏せる。そして、
「――俺も同行しよう」
「……え」
「同行する、と行ったんだ。聞こえなかったか?」
聞こえた。こんな通る声を聞き逃すわけがない。けれどもだ。
「けど、アンフェール……疲れてるんじゃ……」
「疲れてない」
「それに、生徒会で忙しいだろ」
「自分の婚約者を危険な目に遭わせるほど男は廃っていない」
「……っ、……こ、んやくしゃ」
「……なんだ、その顔は。俺はおかしなことを言ったか?」
「い、いや……おかしなことはないな、なにも」
――そうだ、俺とアンフェールは婚約者なのだ。
改めてそう言われるとなんだか胸の奥がむず痒い。けれど、アンフェールをこんなことに巻き込んでいいのかという気持ちもあった。
が、「なら問題ないな」と強引にアンフェールに捕まってしまう。
「街へ降りるなら馬を借りてきた方が早い」
「ま、待て、馬はまずい」
「まずい? 何故だ」
「……目立つからだ。あくまで、人目につかないように降りる必要がある」
「…………」
アンフェールの目がひたすら痛い。
疑われているのだと分かった。それでも、この際疑われた方がいいかもしれない。
「……分かった。じゃあこのまま下るぞ」
なんて、俺の思案なんて他所にアンフェールはそのまま校門へと歩き出すのだ。
大股で歩いていくアンフェールを慌てて追いかける。
「おい、本気でくるのか」
「なにか都合が悪いのか」
「……悪くなくは、ない……けどもだな」
いつもだったら興味示さないのに、何故今回はこんなに強引なのか。
しどろもどろと抗議をしたとき、アンフェールは通路のど真ん中でぴたりと立ち止まる。その背中にそのままぶつかりそうになり、慌てて俺は急ブレーキをかけた。
「――お前、俺になにか隠しているだろ」
「……っ、ぇ」
「詳細は後でゆっくり聞かせてもらう。……取り敢えず、急ぎというのなら急いだ方がいい」
――これ以上日が落ちれば、下手に動けなくなるだろうからな。
そう小さく続けるアンフェールに、俺はとうとう頷き返すことしかできなかった。
――なぜ、こんなことになっているのだろうか。
たくさんの人間で賑わう街の中。夜だというのに街灯や露店のお陰で明るく、それでいてどこか猥雑な空気が流れていた。
そんな中、俺はアンフェールと街の中を歩いていた。制服のままだと目立つから、と学園を出る前にアンフェールに渡された上着に袖を通したがいいが、やはりリシェスの顔立ちでは夜の街では浮いてしまうようだ。
いかにも輩風の男にぶつかられては「危ねえだろ、ガキ!」と怒鳴られる。
「っ、あ、す――」
「ぶつかってきたのはお前だろ」
すみませんでした、とつい咄嗟に謝りそうになったとき、隣にいたアンフェールが吐き捨てるのを見てぎょっとする。
「ああ? 兄ちゃんなんか言ったか?」
「ぁ、アンフェール……っ! いいから……っ!」
これ以上揉め事を大きくするつもりはない。慌ててアンフェールの腕を引き、「すみませんでした!」と俺は慌てて声をあげ、そのままアンフェールを引っ張って細い路地へとアンフェールを押し込んだ。
「何故お前が謝る」
「いいんだよ、こういうのは面倒だから流して」
「お前らしくもないな」
「それは……っ、そうかもな」
否定できずに俯けば、アンフェールは小さく舌打ちをする。
「いまのは、そういう意味じゃない」
アンフェールの言葉の意味が分からず、「なにがだ?」と首を傾げれば、アンフェールはバツが悪そうに眉間を寄せるのだ。
「……お前の悩みを揶揄したつもりはない、という意味だ」
どうやら言いすぎたと思ったようだ、アンフェールの方からそんな風に言うなんて。
相変わらず変なところで律儀な男だと思う。
そういうところに惹かれたのだろう、リシェスも。
……じゃあ俺は?
「――リシェス?」
「……あ、ああ。悪い。……行くか」
気を抜くと自分の世界に入ってしまいそうになる。
今はアンフェールも一緒なのだ。呆けてる場合ではない。そう何度も自分を叱咤しながら、俺はアンフェールとともに再び大通りへと向かった。
学園を出て街へと降りる森の中、俺はアンフェールに大まかな事情を説明した。
『最近、ハルベルの様子がおかしい』
『だから、一度後をつけてみようと思った』
要約するとこんな感じだ。嘘ではないし、遠からずでもある。実際、アンフェールは「そんなことか」という反応だった。
『様子がおかしいというのは』
『なにか隠し事をしてるように感じた。杞憂かもしれないが』
アンフェールはそうか、とだけ応える。
別に主が従者を気にかけることが不自然ではない。だからとはいえ、単身で動くのは我ながら暴挙という自覚もあったが。
それからアンフェールとともに街へやってきた俺だが、まずハルベルを探すところから始まり現在へと至るわけだが――。
「探すのは結構だが、宛てはあるのか?」
「……ない」
「………………」
「け、けど、あいつにはお使いを頼んでたんだ。恐らく、先にそこへ向かった……と思う」
「随分と自信がなさそうだが?」
「なにもないよりかはましだ。……取り敢えず、香油が売ってるある店を探す」
何故香油なのか、とアンフェールは言いたげな目を向けてきたが声にはしない。
「聞き込みからか。……今夜は学園には帰れなさそうだな。俺は宿の手配をしておく、聞き込みはお前に任せるぞ」
「……頼んだ」
なんだか、この世界に来てアンフェールには情けないところばかりを見せてしまってる気がする。
が、こういうしっかりとしたところを見てるとアンフェールが一緒でも良かった気がするのだ。
……なんか、前にもこんなことがあった気がする。
いや、これはゲームの記憶だろうか。それとも、もっと昔のリシェスの記憶か?
そんなことを考えつつ、俺は宿探しをするアンフェールを横目に近くの露店の店主や街の人に香油を取り扱ってる店の聞き込みをすることにした。
店の店主や詳しそうな婦人に声をかけ、香油が売ってある店がないか聞き込みをすること暫く。
何件かこの街に存在することが分かり、アンフェールと共に片っ端から向かうことになったわけだが、案外あっさりとハルベルの姿を見つけることができた。
いかにも女性客の多そうな華やかな店の構えに圧倒されつつ、こっそりと店の窓から店内を覗く。
「いたか」と、少し離れたところで仁王立ちしているアンフェールが声をかけてくる。
「見た感じ女の人ばっかり……」
そう言いかけたとき、店内の奥ですらりと背の高い男を見つけた。
にこにことを微笑みながら、なにやら女店主と楽しげに話しながら棚を眺めているその後ろ姿には覚えがあった。
「……いた」
「中に入るのか」
「いや、このまま出てくるのを待って……後をつける」
「そうか」とアンフェールは短く答えた。
何か香りの説明でも受けてるのだろう、楽しそうなハルベルの顔を見ていると、なんだかこうしてこそこそとストーカーみたいな真似をしている自分が恥ずかしくなってくる。
なんてハルベルを見つめていた時、不意に背後から視線を感じた。
振り返れば、アンフェールがじっとこちらを見ているではないか。
「……」
「な、なんだ……?」
「あれがお前の言っていたお使いか」
「まあ、そうだな」
「香油に興味があったのか」
「別に凝っているわけではないが、嫌いじゃない。……興味程度だ」
「それがどうした?」と聞き返せば、アンフェールは「そうか」とふいと視線を逸らした。
なんだ、何が言いたいのだろうか。アンフェールの方からこうして世間話のようなものを投げかけられることは貴重なだけに、なんとなく反応に困ってしまう。
「確かに、お前はいつもいい匂いがするからな」
「………………」
「なんだ、その顔は」
「い、いや……そうだな。……そうか」
不意打ち、というやつか。
すん、と近付くアンフェールに心臓の鼓動が激しく脈打ち出す。顔が熱くなるのを誤魔化すように、俺は視線を逸した。
なんだか妙に甘ったるい空気が落ち着かなかった。アンフェールは気にしてないようだし、俺が意識しすぎてるせいかもしれない。
わかっていても、心臓ばかりはどうもできない。
そんなやり取りをしている間に、買い物を済ませたらしいハルベルがこちらに向かってくる。
俺達は物陰へと身を潜め、店を出たハルベルの後をこっそりと追いかけた。
ハルベルが向かった場所は少し大通りから離れた場所にあるパブだった。
任務帰りの冒険者が客層のようだ、こんな庶民の社交場を生で見ることはなかっただけに窓越しからでもわかるその熱量に驚いた。
「……この街でもこんなに人が集まる場所があるのか」
「行ったことはないのか」
「ない。……噂では聞いたことはあるが、冒険者の間では情報交換の場になったりすると」
「まあ、間違いではないだろうがな」
「……アンフェールはあるのか?」
「生徒会の視察で何度か足を運んだことはあるくらいだ」
「へえ……」
確かに、生徒会活動の一環として街との交流や親交を深めるだとか聞いたことはある。
が、そうか。この世界では飲酒の年齢規定という仕組みすらもない。それでも俺――リシェスは両親から酒そのものを遠ざけられてきた。
だからこそ余計、なんだか目の前の空間が別世界のように思えるのは。
「入らないのか。この客の多さなら紛れることもできるだろう」
「……そう、だな」
気づけば店の外からではハルベルの姿は確認することはできなくなっていた。
せっかくここまで来たのだ、覗くくらいならばバチは当たらないだろう。
……それに、アンフェールも隣にいる。
それが一番俺にとっては大きかった。一人ではきっと怖じ気づいて中まで踏み込むことはしなかったはずだ。
俺はアンフェールに頷き返し、そのまま店の中へと恐る恐る入っていくのだ。
その空間では多くの人間が集まり、各々固まって酒を飲み交わしている。
四方から聞こえてくる歓談の声、怒鳴り声、店内の中央で行われる生演奏の音が混ざり合い、この猥雑とした雰囲気が出来上がってるのだろう。
落ち着かない気分のまま、俺は人にぶつからないように避けながらもハルベルの姿を探した。けれどそれらしい姿は見かけない。
それよりも、ハルベルを探して辺りを見渡していると、やたらこちらを見ている人間と目があった。
粘着いた笑みを浮かべ、微笑みかけてくる男たちがなんだか気味悪くてさっと視線を反らす。
「リシェス」
そんなとき、頭の上から落ちてきたアンフェールの声に釣られて顔を上げる。
どうしたんだ、と聞き返すよりも先に、アンフェールにそのまま手を繋がれるのだ。
手のひらを重ねるように、硬くて大きなアンフェールの掌が俺の手を覆う。乾いた指先が絡まり、心臓が小さく跳ねた。
どういうつもりなのかと顔を上げれば、こちらを見下ろしていたアンフェールの視線は逸らされる。
「こうしていた方がいいだろう。……変なのが寄り付かずに済む」
目を逸らされたと思いきや、どうやら辺りを警戒していたようだ。アンフェールの言葉に『そういうことか』と納得すると同時に、なんだか調子が狂わされるようだった。
先程までの粘着いた視線は減ったが、今度は若い女性たちの黄色い声と好奇心に満ちた視線を集めてるような気がしないでもないが。
アンフェールはそれ以上なにも言わなかったし、影できゃーきゃー言われるくらいならまだマシ……なのだろうか?
俺にはたまにアンフェールがよくわからなくなる。
甘い酒と香ばしい料理の匂いが充満した店内。
取り敢えずカウンターで適当に注文だけして、グラス片手に更に店内の奥のテーブル席までハルベルを探しに来た俺たち。
そして、ハルベルの姿は案外あっさりと見つけることができた。
ハルベルは二人がけのテーブル席で誰かと相席をしていた。店内の照明は薄暗く、その人物の姿形まではっきりと見えたわけではない。それでも遠目から見ても細身のハルベルに比べてガタイがいいのが分かった。
――ユーノか。
それは直感だったが、いつの日か校舎裏で見た光景と目の前の光景が確かにダブって見えたのだ。
アンフェールもハルベルに気付いたらしい。
「あそこの席が空いてる。……姿はお互い見えにくいが、会話くらいなら聞こえるかもしれない」
アンフェールの視線の先には確かに丁度いい二人がけのテーブルがあった。俺は頷き返し、なるべくハルベルに気付かれないように空いてたテーブルへと移動する。
この席からではハルベルの背中しか見えないが、逆にハルベルに見つからずに丁度いいかもしれない。
そしてハルベルの肩越し、そのまま相席している男を確認する。そしてすぐに視線を逸した。
――ユーノだ。
いつの日か見たときよりも髪は長いし、荒んだ雰囲気ではあるが、あのとき俺が出会ったユーノは学園に潜入するために整えられたあとだったのかもしれない。
賑やかな雰囲気の店内、二人のテーブルだけは一際浮いていた。笑い声も一切なく、BGMに掻き消されるほどの静かな声でやり取りをしている。
そのせいで、周りの人間もハルベルたちの席には近付かないようにしてるようだ。
ユーノとハルベルはここで出会ったのか。それとも、ハルベルはユーノと会うためにここにきたのか。
聞きたいことはあるのに、深入りできない。
盗み聞きがバレないように、俺は取り敢えず手に持ったままのグラスに口をつける。ずっと抱えてたせいで水滴を纏ったグラスの中、琥珀色の液体に少しだけ口をつけた。
「おい、あまり一気に飲みすぎるなよ」
「ん……っ、ぅ……げほ……っ」
「……言わんこっちゃない」
口の中、果実酒の通った後粘膜が焼けるように熱くなる。鼻腔の奥までも抜けていくアルコールはそのまま脳の髄まで染み込んでいくようだ。途端に目の周りが熱くなり、体の重心が傾きそうになるのをテーブルに手をついて耐えた。
おい、とアンフェールの目が細められる。
「大丈夫だ、これくらい……コクのあるジュースみたいなものだ。いまのは、……けほっ、変な器官に入ってしまっただけで」
アンフェールに初心者向けの一番クセのない酒を頼んでもらったはずだが、これで初心者向けというのならば俺は一生上級者向けの酒には手を出せないな。などと思ってると、伸びてきた手にグラスを取り上げられる。
「……お前にはまだ早かったらしいな」
俺の手からグラスを避難させたアンフェールは小さく呟いた。騒がしい店内なのに、アンフェールの低い声だけがやけに鮮明に頭の中に木霊する。
……心地良い。
「あんたは、呑まないのか」
「呑むつもりだったが、変わった。……酔っ払いを宿まで送り届けなければならないからな」
「……弱いのか?」
「お前程じゃないと自負してるつもりだが、万が一のことがある」
「万が一」
「体調やその場の空気で変わる」
場酔いっていうやつか。
大学で所謂飲みサーに入って毎日のように居酒屋だとかバーだとかに通ってるやつらのことを思い出す。なんかそんな話を教室の片隅で聞いてたのを思い出した。楽しかったら酒を飲んでなくても酒を飲んだみたいになるだとか、ならないだとか。
喉が熱い。乾いていく。酒の代わりにアンフェールが通りすがりの店員からもらった水の入ったグラスを俺に手渡した。ちび、とそれに口をつければ、すぐに粘膜に浸透していくようだ。
水がこんなに美味しいと感じたことも早々なかっただろう。
「……アンフェールは今、楽しいのか?」
ハルベルたちには相変わらず動きはない。
アンフェールはただ俺に巻き込まれたようなものだ。居てくれて助かったとは思うが、部屋で早めに休んで疲れを取った方がアンフェールからしても良かったのではないかと未だに思えて仕方ない。
けれど、アンフェールは相変わらずの仏頂面のまま、静かに目を伏せた。
「そう、なのかもしれないな」
「ふふ、……なんだか他人事だな」
「……そうだな」
なんだかアンフェールの声が普段より優しく聞こえた。楽しくなって、つい笑みが溢れる。
ふわふわとアルコールで満たされた意識の中、ハルベルたちの座っていた席の方からがたりと音が聞こえた。……どうやらハルベルが席を立ったようだ。
つられて俺も立ち上がろうとしたとき、そのままアンフェールに手を取られる。
「アン――……」
アンフェール、と名前を呼びかけたとき、顎を掴まれ、そのまま俺の顔を隠すように唇を塞がれるのだ。
ほんの一瞬、アンフェールの熱い唇と触れ合う。その熱は唇が離れた直後も残っていた。
「……アンフェール」
「――あいつを追うか、一緒にいた男の同行を探るか。どちらがいい」
顎を掴まれたまま、アンフェールは小さく続けた。その言葉に、俺はすぐに現実へと引き戻される。
ハルベルを追ってきたが、本来はユーノを探るためでもあった。
「……このままで、いい」
アンフェールの視線が僅かに動くのを見た。わかった、と小さく口にするとともに、アンフェールは俺の唇を再度塞いだ。
最初のコメントを投稿しよう!