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酷い夢を見た。
本来ならばアンフェールがいるべきそこにアンリがいる悪夢のような夢だ。
膨らんだ俺の腹を撫で、やつは笑っていた。『ようやく会えたね』なんて悍しい言葉を口にして。
あまりにも耐え難い悪夢に無理矢理脳を叩き起こした。
ぐっしょりと汗をかいて冷たくなっていた身体を動かそうとしたが、身動き一つとることができない。それに、視界だ。確かに目を開いているはずなのに視界は真っ暗なままだった。
身体の下の柔らかい布の感触からして自分がベッドの上にいるということは分かった。
未だ冷めない熱に頭もまだぼんやりと靄がかっているようだ。それでも、全身の倦怠感も肛門の
違和感もどれも現実だった。
誰かいないのか、と声を出そうとして舌先が何か硬いものに当たった。なにかを噛まされているようだ、声は物理的に遮られてしまう。
そんなときだった、ひんやりとした空気が僅かに振動したような気がした。足音、そして布が擦れるような音が聞こえてくる。誰かいる、と身構えた矢先――。
「おはよ、リシェス君」
「……っ」
前方から聞こえてきたその声は、今まさに聞きたくない声だった。
近付いてくる足音は俺の目の前で止まる。
目の前にあいつが――アンリがいる。
そう考えただけで全身は緊張し、次第に呼吸は浅くなっていく。逃げようと身じろいだ瞬間、腹の中がやけに重たいことに気付く。そして、動いただけでぬるりとしたものが垂れてくる下半身。嫌な予感がして、咄嗟に足を閉じようとすれば、どこからともなく伸びてきた手が目隠しをゆっくりと外す。
暗闇に覆われていた視界に光が戻っていき、目の前に浮かび上がった人影に息を飲んだ。
「苦しいよね。ごめんね、リシェス君」
「けど、君には確実に僕の子供を身籠ってほしくてさ」そう笑うアンリは俺の身体に触れてくる。つられて視線を落とし、目を見張った。深く肛門に突き刺さったガラス製のプラグ。俺の体温に慣れてしまっていたが、拭えないほどの違和感はそれが原因だったようだ。
なんだこれはとなんとか引き抜こうと身を攀じるが、無駄だった。栓で塞がれた腹の中にやつの精子が溜まってるのだと思うとただ気持ち悪かった。
吐き気がした。早く、早く洗い流さなければならないのに、アンリはそれを許さない。それどころか。
「そうじゃなきゃ、君はアンフェール君に捨てられないだろうから」
こいつは本気で俺を陥れるつもりなのだと、その顔を見て理解した。汗が流れ落ちる。
声を上げて抗議することもできない。
「まだ目が覚めきってないのかな。……震えてるね」
「……ふ、……ッ」
伸びてきたアンリの指が首筋を撫でた。
するりと這わされるその手付きで、自分の首にあるべきものがないことに気付く。
――首輪がなくなっている。
「あ、気付いた? これ、邪魔くさかったから外させてもらったよ」
そして、凍りつく俺の眼前。アンリはどこからともなく取り出した“首輪だったもの”を手にする。ナイフで強引にねじ切ったのか、ぼろぼろになったそれを見て身の危険を覚えた。
「う、む……っ」
「あー、ほらそんなに暴れちゃったら危ないよ。なに? そんなに大事なものだった? もしかしてこれ」
「でももう大丈夫だよ、もうこんなもの必要ないんだから」そして、手にしていた首輪を指で弄ぶアンリ。
その言葉の意味を理解したくなかった。そんな俺を見て、「あ、どういうことか分からないって顔だ」とアンリは笑った。
オメガにとっての首輪は、本来合意もなく項を噛まれて一方的に番にさせられないために必要なものだ。
生きていく上で必要不可欠なものなのにも関わらず、この男の言葉はまるで――。
そこまで考えて、すり、と頸動脈に触れるアンリの指先に血の気が引いた。
――まさか、こいつ。
青ざめる俺を前に、アンリは猫のように目を細めるのだ。
「……リシェス君、君は僕が異世界から来たって言っても驚かなかったし、すんなりと受け入れてくれてよね」
「ふ、ぐ……っ」
「……僕、嬉しかったなあ。君はどこの世界でも僕のこと、見てくれなかったし話すら聞こうとしてくれなかったんだもん」
「まあ、そんな馬鹿で愚かなところがリシェス君のいいところでもあるんだけどね」くるくると指の先で首輪を玩びながら、アンリはそのままするりと俺の項に触れるのだ。逃げたいのに、顔を逸したいのに、この男から目を反らすことができなかった。
どこの世界でもって、まさかこいつも――。
「僕は君と一緒になりたかった」
「ふ、ぐ」
「ようやく、ようやくここまでこれたんだ。何度も繰り返してやっと見つけた、君が僕を見てくれる世界を」
何を言ってるのか脳が理解することを拒んでいた。
アンリの指はそのまま俺の後頭部を掴み、俺を抱き寄せるのだ。身動ぐ俺を無視して、そのまま俺の身体を抑え込んだアンリ。項に生暖かい息が触れてびくりと仰け反ったとき、続けざまに項をべろりと舐めあげられる。
本能的な嫌悪感が全身に広がった。
――こいつ、俺の項を噛むつもりだ。
そう理解した瞬間、目の前が真っ暗になっていく。
「む、う……ッ!」
「逃げないでよ、リシェス君。せっかくここまで来たんだ、僕はまたやり直したくなんてないよ」
「僕に酷いことをさせないで、リシェス君」とアンリは俺の首筋を撫で、そのまま位置を決めるように俺の項を探っていくのだ。
喉仏の辺りに添えられた手に、いつか首を締められた恐怖が蘇る。
やめろ、と身動ぐことも許されない。
「うーん、ここかなあ」とすぐ耳の裏辺りから聞こえてくるアンリの声にただ全身が震えた。
「せっかくだし、どこから見てもわかる場所がいいよね。こことかいいんじゃない?」
「どうかな、リシェス君」と覗き込んでくるアンリは楽しげに目を輝かせ、笑っていた。俺からしてみればどこも最悪なことには変わりない。
震えることしかできない俺に、アンリは軽くキスをして、それから再び俺の項に唇を寄せた。ここだよ、と教えるように這わされる舌先。
そこを噛む気なのだろう。汗が滲む。俺の頭の中ではもう、どうやってこの世界を終わらせるかということだけが占めていた。
そして、項に硬い感触が触れたと思った次の瞬間、ぶすりとアンリの歯が皮膚を突き破り、そのまま俺の項に深く噛みつかれた。
世界が色を変えた。
この世界はもうどうすることもできない。
アンリに「やっと番になれたね」と抱き締められたまま、項から滲む血を拭うこともできないまま俺はただ死ぬ方法を考えていた。
俺と番になれたことでアンリは満足したようだ。その後またアンリに犯されそうになったとき、部屋の扉が控えめにノックされる。
――まさか、ハルベルか。
俺が学校へと戻ってきていないことに気付いたのかもしれない。俺の上に覆いかぶさっていたアンリが動きを止め、一度行為を中断させた。
そして、机の上に置かれていたナイフを手にして玄関の扉まで歩いていくのを見て慌てて止めようとするが、猿轡と拘束がそれを阻害する。
――ハルベルがまた、殺される。
しかも、目の前で。
前回のハルベルの死体が脳裏に浮かび上がり、耐えられずベッドから転がり落ちてでも這いずってでもアンリを止めようとするが間に合わなかった。
落ちた俺には目もくれず、アンリはそのまま扉を開いた。
俺のいる寝室からは玄関口の扉の向こうまでは見えなかった。だから、なにが起きてるか分からず、焦りばかりが先行する。遠くにハルベルの声が聞こえたと思った矢先だった。呻くような声が聞こえてきて血の気が引いた。
「……っ」
玄関口の扉が乱暴に閉められたと思った次の瞬間、廊下の向こうで争うような物音が聞こえてきた。
なにをしているのだ、やめろ。やめてくれ。
脳の芯から冷たくなっていく。誰でもいいからアンリを、あいつを止めてくれ。
そう居るかもわからない神様に願わずにはいられなかった。
たった数分、それでも長い時間のような感覚だった。やがて、あれほど騒がしかった物音が止む。時計の針の音が聞こえるほどの静けさが戻った部屋の中、俺はただ玄関の扉を見詰めていた。そして、扉はゆっくりと開かれる。
……目を開くのが怖かった。ずるずると引きずるような足音が確実に寝室へと近付いてくるのが分かった。
そして、
「……っ、……リシェス様」
聞こえてきた声に顔を上げた瞬間、俺は目を開いた。そして、息を飲む。
掠れた声、白いシャツを赤く汚したハルベルがそこに立っていた――床の上、動けない俺を見下ろしたまま真っ青な顔をして。
なにもよりも見られたくない相手にこんな姿を見られてしまったというショックもあったが、それ以上にハルベルの格好に度肝を抜かれる。
その血はなんなのか。肩から胸元、腹部と複数箇所に大きく浮かび上がった血液の染みを見てその量に目眩を覚えた。
駆け寄ってくるハルベルに「リシェス様」と名前を呼ばれ、全身が震える。
まだ夢を見ているようなそんな非現実感の中、肩を掴むハルベルの手の感触は間違いなく本物だった。
シャツ同様、赤く濡れた手でハルベルは俺の顔に触れる。そして、口を塞いでいた猿轡のベルトを外すのだ。
「っ、は……――」
「……っ、リシェス様」
なにがあったのですか、などとハルベルはなにも聞いてこなかった。ただ、青褪めた顔のままハルベルは俺に目を向けるのだ。
全身に色濃く残ったアンリに犯された痕跡をハルベルに見られたくなかった。
「……っ、見るな」
見ないでくれ、頼むから。
それ以上声は出てこなかった。ただ、憐れむような、怒りの混じったハルベルの視線が針のように痛い。痛くて、苦しい。
拘束されたままでは震える身体を抑えることもできなくて、それでもハルベルはそんな俺の身体を抱き寄せた。
「……っ、ハルベル……」
「――あの男」
離せ、と声を上げようとしたときだった。耳元でぼそりと囁かれるその聞いたことのない声にぞくりと背筋が震えた。
しかし、それも一瞬のこと。ハルベルはそのまま俺を抱き上げ、ベッドの上へとそっと寝かせる。そのまま俺を置いて寝室から出ていこうとするハルベル。
「どこへ行くんだ」
咄嗟に声を上げていた。乾き、ひび割れたような酷い声だ。
ハルベルはこちらを振り返る。俺にでもわかる、その目には明確な殺意が宿っていた。一瞬、呼び止めるのを戸惑いそうになるほどのその剣幕に気圧される。
「貴方はなにも気になさることはございません、リシェス様」
「……ハルベル」
「――すぐに、貴方の元へと戻ってきます」
リシェス様、とハルベルは俺を安心させるようにいつもと変わらない口調、笑顔で続ける。
――こんなときでも、お前は隠すのか。
――俺に、本当のことを話してくれないのか。
そんな思考が過ぎったが、今はただ疲労感の方が大きかった。アンリが部屋に帰ってこない理由を考える余裕もない。俺は「わかった」とだけ呟いた。
それから、「せめて、これを外してくれ」とハルベルに背中を向ける。後ろ手に縛られた拘束を解いてもらおうとしたとき、背後で息を飲むのが聞こえた。
「っ、リシェス様、……これは」
そしていきなりハルベルに肩を掴まれ、前のめりになる。項に吹きかかるハルベルの吐息に、噛み痕を見られたのだと理解した。
俺は、もうどうでもいい気分になっていた。この世界に長居するつもりなない。早く、ハルベルのためにもこれ以上ここにいたくない。
「……あいつに、やられた」
こんな姿を見られてまで、これ以上隠すものなんて俺には無いに等しい。
なによりも俺とアンフェールの関係を応援してくれていたハルベルのことを知っていた。だからこそ、あいつの反応を見るのが怖かった。
犯されて、項まで噛まれてアンリの番になってしまった。
通常、番という関係はオメガには拒否権などない。相手が本能的にオメガを拒絶するか、それか生命活動が途絶えたときに番という関係性は解除される、という。
どれも周りの人間や本から見聞きしたものばかりなので、現実がどうなのか俺にはわからない。
けれど、どちらにせよこの項に傷を付けられた時点で俺はアンフェールの横に並ぶ資格は剥奪されたに等しい。
涙すらも出なかった。怒りももうない。ただ、ようやく解放されたという気持ちだけが残っていた。
ハルベルはそれ以上なにも言わず、俺の拘束具を外してくれた。
ありがとう、というべきなのだろうが、酷く疲れてそこまで気を回すことはできなかった。なにも言えなくなる俺に、ハルベルは無言で立ち上がる。そして、そのまま寝室を出ていくのだ。身体を引きずるように、床に血の跡を残しながら。
遠くで扉が閉まる音が聞こえ、少し立たないうちに悲鳴のような声が聞こえてくる。俺はベッドからのそりと起き上がろうと試みた。
まだ身体は悲鳴を上げていたが、すぐに解放されることになるだろう。アンリが開いたままにしていた部屋の窓までやってきた俺は、そのまま窓の縁に手をかけた。
赤く染まる夕陽がやけに沁み、黒く網膜に焼き付いた。
――八代杏璃に気をつけろ。
そう脳に刻み、俺はこの世界での生命活動を放棄した。
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