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頭から落ちていく感覚とあの浮遊感には身に覚えがあった。
リシェスではなく、卯子酉丁酉としての記憶だ。
何者かに突き飛ばされたあの記憶の中感じた感覚とこの身体がリンクした瞬間だった。
あのとき、俺は何者かに大学で突き飛ばされた。そして、そのまま確かに自分の首の骨が折れる音を聞いたのだ。
……それからどうなったのか。
『あらあら可哀想に、知らずの内に慕われて憎しみまで募らせていくなんて哀れな子ねえ』
真っ青な空の下、自称女神を名乗る筋肉質なオネエ口調の男は悩ましげに肩をくねらせる――そんなワンシーンが俺の脳裏に過る。
違う、これは俺の記憶ではない。『アルバネード戦記』の冒頭シーンだ。
なのに、記憶の中で確かにその自称女神の屈強な男の前に立っているのは卯子酉丁酉――俺だった。
『私も忙しいからこれからぱぱっと転生させちゃうけど、哀れついでに一つだけオマケしてあげるわよ』
『……オマケ? オマケっていうと、最強チートみたいな……』
『できないこともないけどやーよ、そんな抽象的なお願い! 男ならはっきりと分かりやすい能力にしなさいよ。あ、後ろが支えているから五秒で決めなきゃ【能力:なし】になるから』
記憶が混同してるのか。プレイ時の感想なのかはわからないが、俺は確かにこのとき酷く焦ったのだけは覚えている。
だから、直近でプレイしたゲームの設定を思い出した。
『それじゃあ、死ぬ一ヶ月前にセーブポイントを作れるようにしてくれ』
こんな滑稽な夢だとしても、最期の最期くらいは我儘は許されるだろう。妹がハマっていた件のBLゲームを思い出した。
確か、あの主人公もそんな能力を持っていた。現実で使えたら万々歳、なんてプレイ時は夢想していたが現実はこんなものなのだ。
走馬灯にしてはインパクトは強いが、まあいいだろう。俺の言葉に『任せなさい』と自称女神がウインクする。
そして次の瞬間、世界は白い光に包まれた。
ゆっくりと辺りに色が戻ってくる。
中庭のど真ん中、俺は咄嗟に辺りを見渡した。心配そうに声かけてくる生徒に「大丈夫だ」と声をかけ、そしてそのまま近くのベンチに腰をおろした。
赤かった空は青く染まっていた。首に触れれば、千切られていたはずの首輪も戻っていた。
それなのに、この違和感はなんなのだ。
「……」
夢、もしくは一時的な記憶の混濁だったはずだ。
なのに、卯子酉丁酉の記憶は鮮明になっていく。まるで本当に俺は女神に会ったような、会って話したような『記憶』が残っていた。
アルバネード戦記はBLゲームで、妹が好きなゲームで、その主人公のアンリは不慮の事故から命を落とし、天界で自称女神の屈強な男と出会う。そして授かったのは死ぬ一ヶ月前に死に戻ることができる能力だった。
――待て、なにかがおかしい。
『アンリ』は生前面白みもなく退屈な人生を過ごしていた。妹に押し付けられたBLゲームをプレイしてる間に命を落として、確かその『アンリ』を殺した犯人は――。
繰り返し、卯子酉丁酉の記憶を必死に頭の中、脳の奥の奥まで掘り返す。けれど、奥底になにかが硬く蓋を閉じて存在した。
恐らく、この蓋をこじ開けることが出来れば俺の中の大きく肥大した違和感がなくなるのだろう。そんな気だけはした。
「リシェス様」
そんなとき、いきなり背後から声をかけられ、飛び上がりそうになる。
振り返ればそこには微笑むハルベルが立っていた。その制服は血で汚れていない。
「ハルベル……」
「具合でも悪いのですか? 顔色が悪いですね」
「……いや、大丈夫だ」
無傷のハルベルを見て、世界線移動することが出来たことにただ安堵した。
けれど、まだ完全に油断することはできない。
――八代杏璃、あの男は俺がこの世界を繰り返していることに気付いていた。
だとしたら、次にあの男と会合したときのことを考えると背筋が薄ら寒くなる。
「リシェス様、本日はアンフェール様と食事をされるのではなかったのですか?」
「……ああ、そうだったな」
ハルベルの言葉に、つられて中庭の中心に聳える時計台を確認する。そろそろ向かった方がいいだろう。
「そうだ、……おい、ハルベル」
「はい、なんでしょうか」
「――丁酉という男を知ってるか」
日常会話の延長線、何気なくハルベルに訪ねれば、ハルベルは「テイユウ?」と小首を傾げる。
「その方はご友人とかなのでしょうか?」
「……いや、知らないならいい。忘れてくれ」
「? はい、わかりました」
俺は腑に落ちない様子のハルベルを残し、そのまた中庭を後にした。
――生徒会執務室。
扉を叩こうとしたとき、目の前の扉が開かれる。
「……あ……」
「……」
そして、そこから現れたのは赤髪の男――アンフェールだ。
執務室の前にいた俺にさして驚くわけでもなく、アンフェールは「来てたのか」と静かに口にした。
――なんだか、久しぶりにアンフェールの声を聴いた気がする。
そして、普段と変わらないアンフェールを見て酷く安堵する自分もいた。
「なんだ、ぼけっとして」
「あ……アンフェール、どこかに行くのか」
「……お前が来るのが遅かったから、先に食堂にでも行ってやろうかと思っただけだ」
「そう、だったのか」
アンフェールの言葉を聞いてなぜかほっとしている自分がいた。
別に、アンフェールが素っ気なかったりべたべたするタイプではないと知っている身からしてみれば、こんなアンフェールの態度も日常茶飯事のようなものだった。
と、そんなことを考えているとアンフェールの視線に気付く。
「……? どうした?」
「どうしたって、行くんだろ」
「え、……」
俺もついて行って良いのか、と喉まで言葉を飲み込んだ。
そうだ、いつものリシェスだったら寧ろ我が物顔でアンフェールの隣を独占していた筈だ。
アンフェールの言葉にハッとした俺は、すぐさま「行く」と答えた。アンフェールは何も言わずそのまま俺の横をすり抜けて通路を歩いていく。来るなら勝手について来い、ということなのだろう。俺は慌ててその背中を追いかけていく。
自分でもあまり良くない傾向だとわかっていた。
卯子酉丁酉の記憶を取り戻しつつある今、自分の中の人格形成に大きな影響を与えているということに。
――気をつけなければ。
そう口の中で繰り返し、俺は気を引き締め直す。
◆ ◆ ◆
アンフェールに対する罪悪感というのが自分の中に残っていた。
記憶を引き継いでしまっている以上どうすることはできないとはいえ、アンフェールよりも先にあの男に項を噛まれてしまったこと。アンフェールからしてみればこの世界の俺はいつもと変わらない俺なのだが、前の世界線ではあんな喧嘩別れみたいなことになっていた分、アンフェールと一緒にいるとどんな顔をすれば良いのか自分でも迷ってしまっていた。
「珍しいな」
――食堂、テラス席。
こちらを真っ直ぐ見据えたまま、そうぽつりと呟くアンフェールに思わず「え?」と素っ頓狂な声が出てしまう。
「……お前が静かなのは」
「そうか?」
「そうだ。……いつもは聞いてもいないこともべらべら喋ってるだろ」
「べ、べらべらは……喋ってるかもしれないけど」
アンフェールに比べたらな、と思い返す。
なんとなくアンフェールの顔を見つめ返す勇気が出なかった。……こんな調子ではよくない、と分かっていても、自分の中でリシェスを見失わないように意識すればするほど言葉を選んでしまい、間が産まれてしまう。
「なにかあったのか」
「……心配、してくれてるのか?」
「またなにか企んでないかのな」
アンフェールなりのジョークのつもりなのかもしれないが、思い当たりがあっただけに内心ぎくりと緊張した。
そんな俺の一挙手一投足をアンフェールは見逃してくれない。向けられていたその視線が僅かに強くなる。
「お前、まさか……」
「違う、別になにも企んでなんかない。……ただ」
「ただ?」
「……」
……いっそのこと、アンフェールにだけ全てを打ち明かしたらどうなるのだろうか。
ふと、そんな疑問が過る。目の前の男は、そのまま押し黙る俺に「なんだ」と片眉を持ち上げるのだ。
「アンフェールは、自分が自分じゃないみたいだと感じたことはあるか?」
切れ長の目がこちらを向く。
きっと変なやつだと思われただろう、言葉にしてから酷く後悔した。
「悪い、なんでも――」
「ある」
「……え?」
「だから、あると言ったんだ」
アンフェールの言葉は予想していなかったものだった。だって俺の知っているアンフェールは一本筋が通ったような男だ。
「なに驚いてる」
「……いや、意外だったから」
「そうか?」
「ああ、だってアンフェールはいつもブレないだろ。行動も、言葉も」
言いながらなんとなく照れ臭くなってくるが、それはリシェス視点からでも丁酉視点からでも変わらない。
一応は褒めたつもりだったのだが、アンフェールの表情は変わらない。ただこちらをじっと見つめてくるのだ。
「だからだ。俺は昔から悩むことも迷うこともした記憶がない。そう言う風に教え込まれてきたからだ」
それは実家での話をしているのだろうか。確かに、アンフェールレベルになると生まれた時からすべて決められていたのだろう。
――そして、そんな環境下で育ってきたアンフェールからしてみれば思考回路そのものがそう結論へと至るように作られているように感じるのかもしれない。
「そう、か……」
「なんだ、その感想は」
「なんだか安心した……って言ったら悪いか」
「安心?」
「……夢を見たんだ。怖い夢を。それで、少し不安定になってたのかもしれないな」
何も言わないアンフェールに気付き、「悪い、変なことを言って」と慌てて付け足す。
アンフェールはこの世界の住人だ。
定められたシナリオと設定を決められたアンフェールからしてみれば確かに間違いではないのだろう、と思う。それでも、そんなアンフェールでも違和感を抱えていると分かると一気に親近感が湧いた。
だからこそ気が緩んでしまったのかもしれない。
「別に、変なことではないだろ」
「……アンフェール」
「それに、お前が悩みを話してくれたのは初めてだな」
普段アンフェールの前では弱味を見せないように押し殺していた。その反面のしわ寄せが世話係であるハルベルにきていたのだが、まさかアンフェールからそんな風に思われていたなんて。
怒ってるともうんざりしているとも違う、けれど、向けられるアンフェールの視線が少しだけ軟化していることに気付いた途端顔に血液が集まるのが分かった。
「……悪かった、こんなつもりでは」
「嫌じゃない、と言ってる」
「え……」
「……」
二度目はなにも言わなかった。呆然とする俺の視線を受け流し、そのままアンフェールは手元のカップに残った珈琲を喉奥に押し込むのだ。
――聞き間違いではない、はずだ。
うじうじ悩んでると思われれば嫌われると予測していただけに、こう反応が返ってきたときにどう反応をすればいいのかわからない。
だから、俺もアンフェールに倣ってティーカップに口をつける。
紅茶は既に冷え切っており、香りがすっと鼻孔へ抜けていった。
基本的に、攻略対象としてのアンフェールという男が優しいというのは知っていた。
けれど、なんだろうか。原作ではリシェスである俺に対してはあまり見せてこなかった面だ、だからこそ余計身に沁みるのかもしれない。
アンフェールと食事を終えたあと、俺はそのまま執務室へと戻るというアンフェールと別れて教室へと向かう。
アンリが来るまでの期間、あの男への対処をどうするかを考えなければならない。
一番最悪なのが、前の世界の二の舞になることだ。けれど、あのときアンリが言っていたことが本当ならばあいつには記憶が残ってるはずだ――あの忌々しい行為の記憶が。
それだけでも身の毛がよだつ。
あのあと、ハルベルがアンリを殺害したのかは確認していない。する気にもなれなかった。
けれど、アンリは死ぬ。死んだあとどうなっているのか。俺が死んで世界線が変わるのは分かるが、まだあの男が生存していた場合、あの男はどういう条件で記憶を共有しているのか。
ただの偶然では済まないはずだ。それとも、俺の理解に及ばない部分が関与しているのか。
――そもそも、と考える。
アンリも女神に会って能力を引き継いでいるとしたら、遡れるのは死亡する一ヶ月だ。
あいつが同じ力を持っていたとして、俺と同じように世界を繰り返してるとしても丁度綺麗にこの世界に来るタイミングで帰ってきてる。
――あいつのセーブポイントはこの世界に転生する前ってことか?
いや、そんなことってあり得るのか?
けれど、あの女神が夢ではないとしたらなんとかしそうではあるけれども。
授業中、そんなことを一人ノートに書いては頭の中を整理しようとするが、考えれば考えるほどこんがらがってしまう。
どうすればあの男から逃げ切ることができるのか、或いは対処することができるのか。
この先、必ず障害物になることには間違いない。それも今までよりもずっと悪質な。
「……」
そもそも、ずっと俺のことを見ていたってなんだ。
あの発言も、俺が世界を繰り返したことによる影響から生まれたものなのか?
……それとも、最初からあいつの影響を受けていたのは俺の方だというのか?
だとしたら、最悪だ。
気付けば授業は終わっていた。
周りにいた生徒がすでに次の授業のため、移動しているのを見てはっとする。
そして慌てて席を立ち、俺も他の生徒に混ざって教室を出ることにした。
◆ ◆ ◆
「リシェス様、今日も一日お疲れ様です」
「……ああ」
「……リシェス様?」
「…………」
八代杏璃のことばかりを考えていたときだった。不意に、正面からハルベルに覗き込まれてぎょっと立ち止まる。
――校舎内、通路。
「ハルベル、お前いつから……」
「今しがたお声かけしたばかりですよ。……随分と上の空ですね、歩きながら考え事するのは危険かと」
「……そうだな、気をつける」
「リシェス様……」
ハルベルの言うとおり、一分一秒が惜しくて俺はずっとアンリの能力のことについて考えていた。
自分で思ってるよりも余程思い詰めていたのかもしれない、なんだか心配そうな顔をしてこっちを見るハルベルに「俺は大丈夫だ」とだけ返しておく。
「お言葉ですが、大丈夫なようには見えませんよ」
「……お前は相変わらず過保護だな、ハルベル」
「あくまで、貴方をお守りするのが私の役目ですから」
何故だか誇らしげなハルベル。なんだかこんな些細なやり取りも酷く久しぶりのように思えた。
最期、険しいハルベルの顔が脳裏に焼き付いていたからこそよりそう思ってしまうのかもしれない。
「なにかお悩みでもあるのですか」
「……いや、大丈夫だ。気にするな」
「リシェス様」
「これは俺の問題だからな」
これ以上ハルベルを巻き込みたくないという気持ちも大きかった。けれど、そんな俺の言葉はハルベルを傷つけてしまったようだ。
しゅんと眉尻を下げたハルベルは「そうですか」と寂しそうに一歩下がる。
「申し訳ございません、出過ぎたことを」
うなだれる長身の男にちくちくと罪悪感を刺激される。酷いことを言ったつもりではなかったが、自分は選択肢を謝ったようだ。
このまま会話を終わらせるのも後味が悪い。「そうだ」と俺はハルベルに向き直る。
「……ここ最近、寝付きが悪いんだ」
「寝付き、ですか?」
「ああ。……寝付きがよくなる香油でもあれば教えてほしい」
いつかの世界でハルベルが俺のために用意してくれた香油のことを思い出す。
そして心当たりがあるのだろう、ぱっと顔を上げたハルベルは「分かりました」と先程とは打ってかわって明るい声色で堪えるのだ。
どこでなにが影響してくるのかわからないが、試す価値はあるだろう。俺は「頼んだ」とハルベルに声をかけた。
恐らく今夜辺りにでもハルベルは街へと向かうだろう。
その後を追う――それが俺の本来の目的だった。
無論、気分転換させるという名目もあるが、ずっと頭のそこに引っかかっていたユーノという男、あいつとハルベルの関係性を見極めることができればまた変わるのではないかというひとつの賭けでもあった。
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