四巡目

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 ユーノの様子を見ること暫く。  ハルベルが席を立ったあと、テーブルの上にあった料理を平らげたユーノはそのまま椅子から立ち上がる。  側の通路を歩いていくユーノに咄嗟に俺は顔を逸した。ユーノはこちらには気付いていないようだ。それもそのはずだ、俺達はこの世界では初対面なのだから。  それぞれのグループを形成し、わいわいと談笑している客たちの間を縫うようにパブを出ていこうとするユーノ。  その後を追いかけようとしたとき、「お兄さんたち、よかったら一緒にどう?」と二人組の女性客が立ち塞がるのだ。 「い、いや、俺達は……」 「結構だ。相手には間に合ってる」  学園にはいないタイプの華やかで露出の多い女性に目のやり場に困ってると、「行くぞ」とアンフェールに抱き寄せられた。  重心が傾き揺れる体をそのままアンフェールに凭れてしまいそうになるが、アンフェールは構わずそのまま俺を連れてパブを出たのだ。 「……見失ったか、さっきの男」  飲み屋街。近くの路地を確認したが、脇道に酔っ払いが転がっているくらいでユーノらしき男の姿は見当たらなかった。 「そう遠くは行ってないはずだが、探すか」 「……ぅ、ん……そうしよう」 「…………おい」  低く唸るようにこちらを見下ろすアンフェール。「ぅん?」と顔を上げれば、呆れたように眉間に皺を寄せるアンフェールがいた。 「……中断だ」 「ちゅうだんって、なんで」 「酔いすぎだ、お前」 「……俺は、そうかもしれないが……お前は動けるんじゃないのか、アンフェール」  酔っていないなどと今更強がるつもりはない。けれど、他にも選択肢はあるだろう。そうアンフェールを見上げれば、アンフェールは眉間を抑える。そして、なにかを耐えるように眉間を揉むのだ。 「……本気で言っているのか?」 「ああ、そうだ」 「そんな状態の婚約者を、こんなところで一人ほったらかしにしろと」 「………………そうだ」 「馬鹿も休み休み言え、俺はそこまで薄情な男に見えるのか」  ……アンフェールが怒っている。  赤い髪の下、険しくなるその目に睨まれ、つい一歩後退った。 「……見えない。お前は、結構いいやつだし……」 「結構は余計だ。……この酔っ払いが」  ぼそ、とアンフェールが低く吐き捨て、そして溜め息を吐く。  ここにきてせっかくアンフェールが優しくて喜んでいたところにこれだ。俺はまた選択肢を誤ってしまったのだろうか。  そう戸惑ったときだ。アンフェールは俺の手を掴んだまま歩き出す。 「アンフェール……?」 「宿へ向かう」 「もう戻るのか?」 「お前はこの街では浮く。……変なのに絡まれる前に戻るぞ」  心配し過ぎではないか、と思ったが、つい先程女性たちに声をかけられたところだった。  とはいえ、アンフェールだって人のことは言えないはずだ。女性客も、俺よりもアンフェールの方をチラチラ見てた気がするし。  そんなことを考えては謎の嫉妬心が芽生えたが、それもすぐ、アンフェールに指を絡められると飛んでいってしまう。  生温い風が、酒で火照った頬を柔らかく撫でていく。  アンフェールが途中で見つけたという宿までの道中、俺達の間に会話はなかった。  途中で眠気が限界に達し、俺は半分目を閉じたままアンフェールに連れられて宿へと足を踏み入れることになった。  そして、次第に意識が微睡んでいく。  アンフェールに握られた手の感触がやけに生々しかったことだけ覚えていた。  なんだか、前にもこんなことがあった。  呆れたような顔をしたアンフェールに手を繋がれ、引っ張っていかれるのを。  ――あれはいつのことだっただろうか。  幼い頃のリシェスの記憶でもない、ゲームの中のアンフェールとアンリとも違う。  ノイズがかった記憶の中、アンフェールはいつもと変わらず制服をきっちりと着込み、こちらを見下ろしていた。 『……一人で出歩くつもりか』  学園かどこかだろうか。俺の手を取ったアンフェールは訝しげな目をこちらへと向けるのだ。  瞬間、大きく視界の一部に真っ黒な亀裂のようなノイズが走る。しかしそれもほんの少しのことだった。全体的にモヤがかったような曇った視界の中、俺は一歩退くのだ。  そして、 『これ以上、迷惑をかけるのは申し訳ないので……』  続け様に聞こえてきたその声に、強烈な違和感を覚えた。恐らく視点主である俺が返した、はずだ。なのに、発せられたその声は聞き慣れない――否、この世界では聞くことのないはずの声だった。  ボソボソと、口の中でもごつくようなその声は俺の夢の中、それもこの世のものではない記憶でしか存在しないはずのものだ。  なのに――。 『またそれか、テイユウ』  アンフェールが口にした名前に、耳を疑った。  次の瞬間、掴みあげられた手、近付いてきた顔に息を飲んだ。  真っ直ぐと、こちらを睨む鋭いその双眸に反射した自分の顔に目を疑った。  そこには俺の前世である卯子酉丁酉が目を丸くして映っていたのだ。 『既に迷惑なら被っている。……寧ろ、このまま好き勝手される方が迷惑だ』 『アンフェール……さん』 『……アンフェール、でいい。お前は部外者だ。俺の侍者でなければ後輩でもない』 『目の色伺ってご機嫌取りをされるのは好きじゃない』そうアンフェールは淡々とした口調で続けるのだ。  ――これは、なんなんだ。  ――何故、俺が、違う。卯子酉丁酉が、アンフェールと一緒にいるんだ。  体験したことないはずなのに、存在しないはずなのに、強烈なデジャヴュに襲われて目を覚ます。 「……っ、は、……」  目を覚ませば俺は見知らぬベッドの上にいた。  静まり返った部屋の中、ぐっしょりと濡れた体を拭うこともできぬまま俺は放心していた。  瞼裏には未だハッキリと先程夢に見た光景がこびりついて離れない。  ――なんだったんだ、あれは。  記憶が混ざり合ってあんな妄想を生み出したのか。そう考えるのが順当なはずなのに。 「……っ、アンフェール……」  なにか、大切なことを忘れている気がする。  それがなんなのか分からないが、俺にはあの夢がただの妄想願望幻覚とは思えなかった。  見覚えのない部屋だからこそ余計、まだ夢を見ているのではないかという感覚に襲われた。  二つのベッドが並ぶ宿屋の寝室、その奥に取り付けられていたドレッサーの前まで移動する。そして、ドレッサーに反射して映る自分の顔を凝視する。  そこに映し出される見慣れたリシェスの顔に恐る恐る手を伸ばし、触れる。間違いなくリシェスの顔だ。やはり考えすぎか、昨夜飲んだ酒が残ってるのかもしれない。そう、鏡から視線を外そうとした時だった――鏡の中、ぐにゃりとそこに映し出されていたリシェスの顔が歪んだ。 「――な」  ――なにが起こってるのだ。  咄嗟に目を擦り、数回瞬きを繰り返したその一瞬。鏡の中の歪みが収まり、その代わりそこの映し出された光景に思わず腰を抜かしてしまいそうになる。 「おい、さっきからガタガタうるさいぞ」  その矢先、寝室の扉が開く。どうやらアンフェールも同じ部屋だったようだ。朝風呂でも浴びてきたのか、濡れた赤髪を掻き上げ、タオルで拭いながら俺の傍までやってきたアンフェール。 「あ、アンフェール……」 「なんだ、鏡がどうかしたのか」  そう、鏡を覗き込んでくるアンフェール。  そこに映し出されるのは現実同様濡れた髪を掻き上げたアンフェールと、リシェス――ではなく、 血色の悪い冴えない黒髪の日本人男性――卯子酉丁酉がそこにいた。今の俺と同じように、アンフェールの隣で驚愕の表情を浮かべて。 「鏡に……どうしてあいつが、なんで」 「……おい、何を言ってるんださっきから。鏡が何だ」 「アンフェール……今、俺は誰だ」  自分でもおかしなことを言っている自覚はあった。  それでも、第三者に確認することでしかそれが現実なのか夢なのか認識できなかった。アンフェールに縋りついた瞬間、鏡の中の卯子酉もアンフェールに縋りついているのが見えて血の気が引く。 「……っ、……!」  咄嗟にアンフェールから離れようとしたときだった。アンフェールの逞しい腕に抱き寄せられる。 「ぁ、んふぇ……」 「お前はお前だ。――リシェス」  そして、頭の上に落ちてくるアンフェールの言葉に、抱き寄せられ重なる体越しに伝わってくる体温に、次第に心の波は落ち着いていくのが分かった。  ほんの数分の間のことだったように思える。  アンフェールに抱きしめられている間、随分と長い間アンフェールの体温に包まれているような感覚に陥っていた。ただ黙って、俺が落ち着くまでアンフェールは俺を抱きしめてくれた。  時間が経過するにつれ、心も頭の中も落ち着いていくのがわかった。  アンフェールの肩越しに恐る恐る鏡を覗けば、そこには見慣れた少年がいた。アンフェールに抱かれるリシェスが。  それを見て、一先ずほっと安堵する。 「……悪い、アンフェール」  冷静になると、次にやってくるのは恥ずかしさだった。そっとアンフェールの胸を押し、離れようとすればアンフェールは「もう大丈夫なのか」と俺を見下ろす。その視線が、普段よりも幾分柔らかい低い声がなんだかとてもこそばゆくて仕方なかった。  ああ、と頷けば、アンフェールは黙って俺から手を離した。それでもまだ、アンフェールに体に包まれてるような名残が体にはあった。 「……なにがあったんだ」  アンフェールが純粋に心配してくれてるのが伝わってきたからこそ、無視できなかった。  それに昨日、あんなことを言ったばかりだったのもあるからこそ余計。  ――このまままた一人で抱え込んでいては、アンフェールに余計な心配をかけるのがわかった。  それに、アンフェールも俺と同じ気持ちになるときはあると言っていた。そんなアンフェールだったら、と俺はぎゅっと膝の頭を握りしめた。 「前に聞いただろ、自分が自分じゃないと感じるときはないかって」 「ああ」 「……俺にも、あるんだ。それも、ここ最近でその感覚が強くなっている」  そう口にしたとき、アンフェールの切れ長な目が細められた。 「説明しろ」  疑っているわけではない。信じようとしてくれているのが分かったからこそ、俺はそんなアンフェールの言葉に素直に頷くことができたのだろう。  宿屋の一室。俺はアンフェールと並んでベッドに腰を下ろしていた。  そして、アンフェールに自分の身に起きている異変の一部のことを話したのだ。  流石にゲームの世界だとか、ループしていることはアンフェールには言えない。だから、『もう一人の全く赤の他人の記憶が自分の中にある』――そうアンフェールに説明した。  俺が話している間、アンフェールは静かに俺の言葉を聞いていた。 「……それで、夢の中ではその別人格の俺とお前が仲良くしてて……目を覚まして鏡を見たら、そいつがいたんだ」 「……」 「こんなこと、今までなかった。……夢ならまだしも現実で、こんな幻覚を見るなんてこと――」 「ないこともない」  そして、ずっと黙って話しを聞いていたアンフェールが口を開く。 「お前はここ最近強い心痛を覚えたのではないのか」 「しん、つう……」 「疲れや体調の不調でも構わない。それが関係し、悪夢が現実として現れることはある」  心当たりは――あった。この世界に来る前のアンリとの行為はあまりにも俺には強烈なショックを植え付けた。 「精神魔法は専門外だが、知らずのうちに何者かに記憶を偽りの記憶を植え付けられてる可能性もある」 「っ、そんなこと……」 「不可能ではない。とはいえどそれなりに手もかかるし、きちんと手順を踏み永続的に成功させるにはそれなりの技術と魔力が必要になる。所謂上級魔法の部類だな」 「上級……魔法……」 「それと、他に可能性があるとすれば――」  アンフェールの目が真っ直ぐにこちらを向いた。  薄く、形のいい唇が小さく動く。 「――それが夢でも幻覚でもないということだ」 「夢でも、現実でもないって……」  少なくとも、俺はアンフェールはもっと現実的な男だと思っていた。  だから余計、「そのままの意味だ」と大真面目な顔をしてつぶやくアンフェールに戸惑う。 「なにか身に覚えはないのか。その前世とやらに」 「………………」 「あるのか」 「……わ、からない、まだ」  身に覚えはある。けれど、それをアンフェールに伝えるとなるとまず、この世界がゲームだということを説明しなければならなくなる。  そんなことをすれば――どうなるのか。アンフェールがなにを考えるのか、俺には分からない。分からないけど、理性がブレーキを掛けるのだ。それだけはやってはならないと。  そんな俺を見てアンフェールはなにを思ったのか、「そうか」とだけ呟くのだ。 「悪かった……朝から、変なこと言って」 「気にしなくていい。それに、お前が変なことを言い出すのは別に珍しいことでもないからな」 「……そんなことはないだろ」  つい言返せば、ふ、とアンフェールは小さく微笑んだ。それから立ち上がるのだ。 「学校には帰るのが遅れるという連絡をしてる。もう少しゆっくりしててもいいぞ」 「アンフェールはどこに……」 「着替えてくるだけだ。別にどこにも行かない」 「……そうか」  なんだか、これじゃ一人を嫌がってるみたいだ。そんなつもりはなかったが、仕方ないなという顔をしたアンフェールが「すぐに戻る」と続けるのを聞いて少しいたたまれなくなった。  そして、アンフェールがいなくなった寝室のベッドの上。俺は膝を抱えたまま暫くその場から動けなかった。  リシェスが架空のキャラで、この世界がゲームだとして――あの記憶が本物だとしたら。  卯子酉丁酉が転生した先がリシェスだった、のだと少なくとも俺は思っていた。  けれど、なにかが噛み合っていない。どちらにせよ、ピースが足りないのだ。  ……俺も、支度をするか。  なるべく鏡を視界にいれないようにしながら、俺はアンフェールのいる隣の部屋へと移動する。  ◆ ◆ ◆  それから街で朝食を取り、アンフェールの用意した馬車で学園へと戻ることになる。  アンフェールはハルベルに怪しまれないよう、アンフェールの実家に連れて帰ったと説明していたようだ。お陰で学舎で待っていたハルベルに変に怪しまれることはなかったのが救いだ。 「それで、如何でしたか」 「如何って、なにが?」 「アンフェール様と一晩お過ごしになられたんですよね」 「……お前な」  目をキラキラさせるハルベルに思わず顔の筋肉が引き釣る。  なんたって普通の朝帰りとはわけが違う。それに、なんでこいつはいつも通りなのか。 「別に、なにもない。急だったし、そんなにゆっくりできたわけでもないし」 「ああ……そうなのですね」 「悪かったな、期待に添えられず」 「い、いえ! そういうわけではないんです。……少しでもリシェス様の気分転換になったのなら、と思ったのですが」 「……まあ、気分転換にはなったけどな」  そうぼそりと返せば、ハルベルはニコニコと嬉しそうに笑う。  夢見こそは悪かったし、目的であるハルベルの尾行も酒のせいでままらなかったのは不甲斐なかったが、アンフェールがいてくれたことで取り戻せたような感じも確かにあった。 「そういえば、お前昨夜どこかに出かけていたのか?」  そう何気なく尋ねれば、「え?」とハルベルの目が丸くなる。 「一応昨日、学園を出る前にお前に声を掛けようと思ったら返事が無くて気になったんだ」  ――そう、こちらが本題だ。  なるべく平静を装いながら尋ねれば、ハルベルは「そうだったのですね」と申し訳なさそうに眉尻を下げた。 「実は俺も昨日出かけてて……そうだ、リシェス様。これを」  そう、特に取り乱すわけでもなく自然な流れでプレゼント用の梱包された箱を取り出した。  件の香油だ、と直感する。それを差し出してくるハルベルから小箱を受け取れば、ふわりと甘い香りが辺りに漂った。 「これは?」 「この間、眠れないと仰っていたではありませんか。深い睡眠を取ることができると評判の香油を探したんです」 「……もしかして、わざわざ買いに行ったのか」 「ええ。一日でも早くリシェス様には心安らいでいただきたかったので」  その言葉自体に嘘偽りはないのだろう。が、その後ユーノと出会っていたときのことを思い出せばどうしても引っかかってしまうのだ。 「……そうか、ありがう。早速今夜から使わせていただく」  そう小箱を仕舞う俺に、ハルベルは「ええ、是非」と嬉しそうに微笑んだ。  それからはいつもと変わらない平穏な日常が帰ってくる。  アンリがやってくるまでの間、やれることがあれば試してみよう。そう、部屋で色々考えてはいたがなかなかどうしても上手くいかない。  アンリが転生する前日になる度にループでリセットすることも考えたが、死に戻ることに対してなんの代償がないとも考えられない。  それに、実際肉体と周囲の環境はリセットされるが、俺の記憶、経験はそのまま引き継がれている。そのせいで今回みたいにこの現実にまで影響が出てると考えるのが妥当だ。  ということは、またリセットすればなにか記憶が蘇るというのだろうか。  夜も更け、机の上に開いたままになっていた手帳を見下ろす。書き散らかされた文字の羅列。  卯子酉丁酉のことについてなにかを知ることができるのなら、この世界でのバッドエンドを回避できるのなら――そう、机の引き出しに仕舞っていたペーパーナイフを思い出す。  そして、思考を振り払った。  死ぬのは最終手段だ。デメリットがないとも限らない。現に、今の俺の精神状態はあまり芳しくない。  それに、と揺れる自分の影を見詰める。  ここ数日、アンフェールとの交わした言葉、ぬくもりが冷たくなっていた指先に戻るのだ。 「……まだ、死にたくない」  リシェスとしての脳に刻まれたプログラムなのか、それとも別の誰かの意思なのか判断つかなかった。  けれども、もっとアンフェールのことを知りたいと、このまままたなにもなかったことになって最初に戻ることが惜しく思える自分がいた。
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