四巡目

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 ベッドに潜り、目を瞑る。    ――また、あの夢だ。  卯子酉丁酉とアンフェールが親しくなっていく、そんな光景を俯瞰して眺めている俺視点の夢だ。  目を覚ませば、見慣れた天井が視界に入った。汗で張り付いたシャツを剥がしながら俺は起き上がる。 「……はあ」  ぐっすり眠りすぎるのもあまり良くないのかもな、なんて思いつつ俺はベッド側に置いていたハルベルからのプレゼントの香油を手に取り、ベッドから遠ざけだ。  今回も断片的な記憶を覗いているような夢だった。  アンフェールと丁酉の交流を眺めてるだけで、他に目新しい情報もなにもない。ただ、モヤモヤとしたものだけが腹の奥に残っていた。  恐る恐る薄目で鏡を確認すれば、そこにはいつもと変わらないリシェスの顔があってほっと息を吐く。  なにがトリガーになって夢に変化が起きているのか。あまり考えたくなかったが、ストレスを覚える度に記憶が掘り返されているのだとすれば厄介だ。  不意に部屋の扉が叩かれる。気付けばハルベルが部屋にやってくる時間になっていた。  俺は寝汗で汚れた寝間着を脱ぎ、制服のシャツを羽織る。  そして、扉の外で待つハルベルを迎えることにした。 「リシェス様、おはようございます」  扉を開けば、いつもと変わらない笑顔を浮かべた優男が立っていた。 「……ああ、おはよう」 「なんだかまだ眠たそうですね」 「そうだな。ハルベル、お前の土産のお陰だな」 「早速試されたんですね。……確かに、微かにいつもと違う匂いがしますね」 「お……おい、嗅ぐな……っ!」  犬のように当たり前のように首筋に鼻先を近づけてくるハルベルにぎょっとする。慌ててその顔を抑え、引き離せばハルベルは「あっ、すみません!」と慌てて頭を下げるのだ。 「つい、癖で……」 「それ、他のやつの前でやるなよ」 「ええ、もちろん。リシェス様にしかしませんよ」 「……お前な」  呆れて突っ込む気にもなれなかった。  ……けれど、そんなに変わるものなのか。まだ寝ている間、枕元に置いていただけなのに。  自分では匂いの変化が分からないが、ハルベルが言うのならそうなのかもしれない。  けれど、体臭について言及されるとやはりなんとなく厭なものを感じて俺は念の為制御剤を飲む。  それを用意した水で喉奥へと流し込めば、ハルベルが心配そうな顔してこちらを見た。 「あれ、薬もう飲むんですか」 「……ああ」 「リシェス様、最近頻度多くないですか? あまり服用されて副作用が出たりでもしたら……」 「一日の上限は守っている。……問題ない」 「リシェス様……」  間違いが起きるよりかはましだ。  アンリ相手にはヒートの効果はなかったが、それでもあのとき俺が薬を服用してさえすればあんな無様なことにはならなかったはずだ。その後悔が大きかった分、常に薬は切らさないように、万が一なくしたときの予備も持ち歩くようになっていた。 「……ヒートの症状が重いのでしたら、一度医者に見てもらう手もありますが。もしかしたら薬があっていないのかも……」 「そういうわけじゃない。ただ、俺がきっちりしておきたいだけで症状は問題ない」  ……そのはずだ。  毎回ヒート時は理性がなくなるおかげで記憶も朧気になるのだ。ただ、そのとき覚える強烈な熱と苦痛じみた飢餓感だけはしっかりと残ってる。 「いっそのこと、こっそりとアンフェール様に噛んでもらうのはいかがですか?」 「は?」  さらりとハルベルの口から出てきた言葉に思わず俺はハルベルを見上げた。 「お、怒らないでくださいね。……ほら、言うではありませんか。オメガの方は番が出来ればヒートが収まると」  そういえば、そんな話を聞いたことはあった。  けれど、婚約者とはいえどあのアンフェールが噛むのかとなると難しい問題のように思えた。 「症状が重くて辛い、とリシェス様の方からアンフェール様に告げれば流石に考えてくださるのではないですか?」 「……考えたことなかったな」 「でしょうね、お二人とも真面目ですから」  お前は違うんだな、という言葉は敢えて飲み込んだ。  けれど、それが実現するかはさておきなんだか道が開けたような感覚だった。 「検討してみよう」と俺は首輪に触れる。そうか、そんな考え方もあったのか。ハルベルは「僕が言ったっていうのは秘密でお願いしますね」と苦笑した。  ――アンフェールに項を噛んでもらう。    授業中もずっとそんなハルベルの言葉がずっと頭の中でぐるぐると反芻していた。  合理的ではあるが、俺とアンフェールの立場を考えば即決できるようなものではない。  首輪を付け続け、制御剤を飲む振りをし続ければ表向き他の人間にバレる危険性はないとは思うが。と、考えてアンフェールの顔が浮かぶ。  そもそも、どうアンフェールを説得させるかという問題が立ちふさがる。そしてそれは容易に超えられる壁ではない。  一先ずハルベルにはもう少し強めの薬を用意してもらうということでその場はひと段落着いたが、一種の脅迫観念のようになってしまっていることも違いないだろう。  ……それとなくアンフェールに聞いてみるか。  そう考える自分自身にも正直、驚いた。今までだったら言うだけ無駄だとそもそもアンフェールに相談することも諦めてきただろうに。  今のアンフェールなら、俺の話しにも耳を傾けてくれるかもしれない――そんな淡い期待を覚えさせてくれるのだ。  考え事をしていると時間の経過というのはあっという間だ。  どこからともなく聞こえてくる鐘の音がその日の授業終了を告げる。  それぞれ教室から出ていく生徒たちに混ざって、俺も教室を出た。扉の側にはハルベルがいた。  他の生徒となにやら雑談していたハルベルだったが、教室から出てきた俺に気付いた生徒たちが気を遣ってそのまま別れを告げ立ち去る。それに「それじゃあ、また」と手を振り返していたハルベルはこちらへと歩いてきた。 「リシェス様。……おや?」 「……なんだ」 「少し顔が赤いみたいですね。……薬は飲まれましたか?」 「お前がうるさいから、ちゃんとセーブした」  触れてこようとこちらへと手を伸ばしてくるハルベルから身を引けば、なにかを察したようだ。「そうでしたか、すみません」と慌てて俺から手を引くのだ。 「今日は真っ直ぐ戻られた方がよろしいかもしれませんね。……お疲れでしょう。食事でしたら僕が後で部屋にお運びしますよ」 「……ああ、そのつもりだ」 「けど、その前に」とハルベルを見上げる。  少し高い位置にあるハルベルの視線がこちらを見下ろしていた。 「……生徒会執務室に寄らせてくれ」  本当は一人で行くつもりだったが、ハルベルの言葉に不安になった自分もいた。  そっと声を潜め、ハルベルに伝えれば俺の思惑を汲み取ってくれたようだ。ハルベルは「畏まりました」と小さく頷くのだ。  本当に、不便な体質だと思う。  リシェスとしては生まれてから付き合ってきたものだが、第三の性が存在しない世界での記憶がある今は窮屈で、息苦しくて堪らなくなるのだ。  オメガ以外の人間がいる空間では自分から変なフェロモンが漏れてしまっていないか注意を払わなければならないし、今の俺は人気のないところに一人で彷徨くことにも怖気づいてしまっていた。  ハルベルは原作では不遇な扱いをされるサブキャラクターではあったが、リシェスからしてみれば数少ないなんでも話せる相手である。  そして今の俺もハルベルがいてくれてよかったと思うことは度々あった。時折本当に大丈夫なのだろうかと不安になるときもあったが、その根底にある行動原理がリシェスのためだと分かっていたからこそ信じることができたのかもしれない。  それから、俺はハルベルとともに執務室のある階まで移動した。  あまりハルベルと一緒にいるとアンフェールが良い顔をしないというのは学習済みだったため、近くの通路でハルベルには待ってもらうことになる。 「それほど遅くはならないはずだ」 「ええ、分かりました。……アンフェール様と一緒に帰られるようでしたら僕もこっそり遠くから見守ってますね」 「……別にそれは言わなくてもいいぞ」  そんなことだとは分かってはいるが、どんな顔をすればいいのか分からない。対するハルベルは俺が照れてると思ってるのだろう、にこにこと上機嫌な様子だ。……本当、モノ好きなやつ。  それからハルベルと別れ、生徒会執務室の扉の前に立った。相変わらず大きな扉の前、そっと扉をノックする。「アンフェール、いるのか」と声をかければ、すぐに扉は開いた。  そこにいたのは生徒会役員の生徒だ。……名前は覚えていない。 「ああリシェス君、タイミングが悪かったね」 「アンフェール、いないのか?」 「それほど時間は遅くならないはずだよ。……中で待っておくかい?」 「ん、ああ……じゃあそうする」  そう答えれば、役員の生徒はどうぞ、と扉を大きく開いて俺を招き入れた。  大体の役員は俺が来ると厄介そうな顔をしたり変に気を回してくるのだが、この役員だけは別だ。リシェスのことを気に入ってるのかは知らないが、簡単に執務室に入れてくれるしどれだけアンフェールを待っていても嫌な顔を一つしないから俺も助かっていた。 「ゆっくりしててね、リシェス君。ああ、君が好きだと言ってた紅茶も用意したんだ」 「不要だ。それより、アンフェールはどこに行ってるんだ?」 「守衛となにか話してたよ。多分、明日の見回りの段取りについてじゃないかな」  ――そうか、明日の朝はアンリがやってくる日か。  本来ならばアンフェールが見回りに行き、そこでアンリと出会うことになっていた。  どうにか阻止しなければならないが、あの男にまた会わなければならないと思うと指先が震える。  ……どうにかしなければならないが。  そんなことを考えながら、執務室に置かれたソファーに腰をかけた。執務室には役員の男一人しかいない。  アンフェール以外の役員たちと親しくなるつもりなど俺には毛頭なかった。けれど役員の男は違うらしい。ここぞとばかりにいらないといった紅茶を用意し、隣に座ってくる。 「……不要だと言ったはずだが」 「まあ、ほら、せっかくだから……せっかくリシェス君のために用意したんだけど、なかなか機会がなかったから」 「いらない。腹は減ってないんだ」  罪悪感がないわけではないが、信用できる相手以外からの貰い物を口に擦る気にはなれなかった。  露骨に落ち込む役員だったが、すぐに「じゃあ一口だけでいいから」などと言い出した。 「……っ、おい、いい加減にしろ。しつこいぞ」  そう、押し付けられるカップを腕ごと押し退けたときだった。中身が溢れ、制服を汚す。  辺りにふわりといい匂いが広がり、『最悪だ』と口の中で舌打ちした。  火傷はせずには済んだが、すぐに洗わなければ染みになるだろう。 「あ、ご、ごめんねリシェス君……っ」 「……いい。それより退け」 「う、でもリシェス君もリシェス君だよ。そんなに嫌がらなくても良いだろ。ただのプレゼントなのに……ッ」 「…………」  なんか、嫌な予感がする。  落ち込んだと思えば逆上する役員に思わず顔が引きつった。  下手に優しくするつもりもなかったが、これは――面倒かもしれない。 「そうか、そりゃ悪かったな」  そう、このまま二人きりでいるのは危険だと判断した俺は立ち上がろうとする。瞬間、いきなり伸びてきた手に手首を掴まれた。 「……っ、おい、なんだ」 「り、リシェス君……っ、待って、どこに行くんだ?」 「別に、どこだっていいだろ……っ、触るな!」  いきなり背後から抱きつかれそうになり、全身が泡立つ。  咄嗟に役員の男を振り払おうとした瞬間、テーブルの上に置いたままのカップが床に落ちて砕けた。それを気にするわけでもなく男は俺のつむじに鼻先を埋め、そこで深く息を吸うのだ。 「な、何して……っ、おい……ッ!」 「リシェス君が悪いんだ……っ、こんな、こんないい匂いさせるから……っ」 「はあ? な、にいって……」 「アンフェール、アンフェールって……皆そうだ、アイツばかり……っ」 「おい、ふざけ、……っ、ん、ぅ……ッ!」  大きな掌で口を塞がれ、そのまま顔をおしつけるようにべろりと項を舐められる。じゅる、と唾液を塗り込むように舌を這わされ、血の気が引いた。  明らかに様子がおかしい。けど、ヒートは起きていないはずだ。  ……フェロモンが漏れてる?ホルモンバランスが崩れたから?  どちらにせよ、最悪なことには変わりない。 「っ、ふ、ぅ――ッ、く」 「はぁ……っ、リシェス君……っ」 「ん、ぅ……ッ」  背後から覆いかぶさってくる役員にそのままソファーにうつ伏せに押し倒され、腰を押し付けられる。ごり、と嫌な感触が尻の辺りに感じ、ただ血の気が引いた。  そのときだった、いきなり勢いよく扉が開く。 「――リシェス様!!」  そして、扉から現れた見知った顔に安堵するのも束の間、ソファーの上、押し倒されている俺をみて血相を変えたハルベル。 「っ、貴様……」 「ち、ちが、これは……っ! リシェス君が誘って……」  まさかハルベルがやってくるとは思ってなかったらしい。青ざめた役員が言い終わるよりも先に、問答無用で俺の上から男を引き剥がしたハルベルはそのまま殴りかかる。  俺はその光景を眺めながら、ドッドッと未だ早鐘打つ心臓を落ち着かせるように手で押さえた。  ――ハルベルがいなかったらどうなっていたのか、なんて考えたくもなかった。  男の呻き声を聞きながら、俺は汚れた首筋を何度も制服の袖で拭った。 「リシェス様っ! 大丈夫ですか?!」  役員を気絶させ、拘束したハルベルはそのまま俺の側に駆け寄ってくる。 「……大丈夫だ。それより、どうしてお前ここに……」 「カップの割れる音が聞こえてきたからです。……ああ、申し訳ございません。僕がもっと早く気付いていたら」  そうハルベルは落ち込むが、俺からしてみれば寧ろよく聞こえたなという驚きの方が大きかった。  ハルベルを待たせていた通路からこの執務室までには距離もあるはずだ。確かに声を上げたのも大きかっただろうが、ハルベルが気付いてくれたことにただほっとする。 「いや、お前が来てくれて本当に助かった。……ハルベル、お前には助けてもらってばかりだ」 「……っ、リシェス様……」  今のハルベルに記憶はないだろうが、前回の世界線でもそうだ。ハルベルは上着を脱ぎ、そのまま俺の肩にかける。全身の力が抜けそうだった。 「……この方についての処遇は、アンフェール様に僕の方から伝えておきましょう。リシェス様は部屋でお休みになられた方が――」  そして、そのまま近付いたハルベルの顔がほんの一瞬強張るのがわかった。  俺を見詰めたまま固まるハルベル。「どうした?」とそのままハルベルを見上げたとき、その白い首筋の喉仏が鳴るのが聞こえた。 「いえ、……すみません。その、リシェス様……薬の用法は本日はきちんとお守りになられたんですよね」 「……ああ、そのはずだ」 「……そうですか」  俺から体を離したハルベルはそのまま口元を抑える。その質問の意図に気付き「まさか」と血の気が引いた。ハルベルの視線が熱い。 「っ、漏れてるのか……」 「恐らく。……少量ではありますが、少し危険です。緊急用の薬がありますのでこちらを飲まれて待っていてください。僕はこの男を連れて――アンフェール様を呼んできます」  そう額に汗を滲ませ、必死に俺から距離を取るハルベルは制服のポケットから錠剤が入った薬ケースを置いた。 「一先ず、一粒だけ飲んでください。即効性です。……すぐ効くため副作用もありますが、そのことについてはまた後で説明させていただきます」 「あ、ああ……悪いな。ハルベル」  いえ、と小さく頭を下げたハルベルはそのまま転がっていた役員の首根っこを掴み、ずるずると引きずりながら執務室を後にした。  そしてぱたんと閉まる扉、辺りには紅茶の香りだけが広がっていた。  自分で自分の体臭は分からない。が、ハルベルがあんな態度を取るのは初めてだった。もしかして先ほどの役員の豹変もこの体質のせいなのか。  だとしたら俺が悪いのか、とぐるぐると考えながらも取り敢えず俺はハルベルから貰った緊急用の薬を服用することにした。  よく効く薬は苦いというが、間違いないようだ。  それから暫くして、顔色を変えたアンフェールがやってきた。 「……リシェス」  ハルベルから話を聞いたようだ。一人だけだったが、ソファーで待っていた俺のもとまでやってきたアンフェールはそのまま俺の前に座り込む。  そのまま首を撫でられ、ぎょっとする。 「アンフェール、……俺は大丈夫だ。それより、お前のところの役員が……」 「――悪かった。あいつについては厳しく処遇するつもりだ」 「それは……」  確かに襲われたのは事実ではあるが、俺もフェロモンが漏れていたとしたら体調管理ができていないオメガとしての責を問われるだろう。  そのことを考えたら酷く気分が落ち込む。 「……なあ、アンフェール。待ってくれ」 「なんだ」 「もしかしたら、俺のせいかもしれないんだ」  最悪といえば最悪ではあるが、アンフェールに直談判するいい機会にはなってしまったことが複雑だった。  俺はそのままここ最近の体調のこと、そしてハルベルから指摘されたフェロモン漏れのことについてアンフェールに相談することにした。
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