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俺の話を聞いている間、アンフェールの顔はずっと険しいままだった。
「ホルモンバランスの異常か」
「……ああ、ハルベルと話してたんだ。それで、お前に相談しようと思ってここに来た」
それがまさかこんな騒ぎになるなんて俺だって想定外だったが、予兆がなかったといえば嘘になる。
「相談する相手が違うだろ。お前の体のことなら医者に――」
「違うんだ、アンフェール」
言うなら未だ、と深呼吸を挟む。
「なに?」と鋭い視線を向けられれば、自然と全身が緊張した。
「……その、だな」
一度詰まってしまえば躊躇ってしまう。ええいと半ばやけくそに、「アンフェール」と俺はやつの手を掴んだ。
指の下、アンフェールの手の甲が微かに反応した。
「アンフェール、俺の――俺の項を噛んでくれ」
そう口にした瞬間、周りの音がなにもかも遠く聞こえた。こちらを見詰めていたアンフェールの目が僅かに開くのを俺は見逃さなかった。
そりゃ、いくら鉄面皮と言われるアンフェールだってこんなこと俺に言われると思わなかったのだろう。そりゃそうだ、あまりにも『今更』ではあるのだ。
ずっと我慢してきてあと数年、無事この学園を卒業すればどちらにせよ俺たちは結婚することになる。ここまできて何を今更、とアンフェールも思ったはずだ。
「……確かに、項を噛んで正式に番になればオメガのヒートの効果は番限定になるんだったな」
「そういう話も聞いたことがある。……だから、アンフェールに頼みたかったんだ」
「……」
アンフェールの反応は怖かった。拒絶されてしまえばおしまいだ。
恐る恐るアンフェールを覗き込んだとき、珍しくアンフェールが言葉に詰まっていた。
「アンフェール……?」
「――俺の立場からしてみれば、独断で今後に大きな影響を与えるような真似を、お前の両親を挟まずして行うことは出来ない」
「そう、だよな」
アンフェールらしい回答だ。俺が考えていた回答がそのまま返ってきたことに対する安堵とともに確かにショックも覚えたが、こうなることはわかっていた。それでも縋りたかった、万が一の可能性にかけて。
「けど」
そう項垂れた時、アンフェールは小さく唇を開いた。
「もし、万が一今後このようなことがあった場合を考えると、俺個人としてはお前の意見に賛成したくなる」
「アンフェール……」
「ホルモンバランスが崩れるのは体調の不調がきっかけなんだろ? ……ここ最近のお前の様子からして、おかしな話でもない」
そうあくまで淡々と続けるアンフェールだが、俺はアンフェールの口からそんな言葉が出てくることに驚いた。
俺の幻覚のことも知ってるアンフェールだからこそ信じてくれたのか。
自分の聞き間違いではないよな、と思わずアンフェールを見詰めたまま動けなくなる俺に、そっとアンフェールは俺の首輪に触れる。乾いた硬い指先が首輪と首の境目、そして首筋をすうっとなぞった。
「い、いいのか……アンフェール、だってあんなに正式に婚姻を結ぶ前には噛まないって……」
「ああ、そのつもりだった」
「じゃあ……」
なんで、と言いかけたとき。
「全部言わせる気か?」とアンフェールの眉間に皺が寄せられる。そして、首筋を撫でていた指が顎を捉えるのだ。
「他の男に先に噛まれるくらいなら、俺が噛む。――そう思っただけだ」
囁かれる言葉に、唇に触れる吐息の熱さに、全身の体温が上昇するのがわかった。
この感覚、前にもあった気がする。それがいつなのか思い出せなかったが、このはち切れんばかりの心臓の痛みには覚えがあった。
俺はただ「そうか」と声を絞り出すのが精一杯だった。
その後、執務室にやってきたハルベルに「今夜はアンフェールのところに泊まるから送迎は必要ない」とだけ伝えれば、その俺の言葉にハルベルも察したようだ。「畏まりました」とだけ頭を下げてその場を去った。
かといってすぐに実行に移すわけにはいかない。あとからやってきた他の執行部の人間に一連の事情説明をしたり、俺も教師に捕まることになってしまった。
実家にまで連絡されそうになり、慌てて止めた。
以前の俺なら是非にと吊し上げていたかもしれないが、今はそんな対応に時間を取られてる余裕もない。今回は公にはせず、箝口令を敷いてもらうことにする。そして、細かい処遇についてはアンフェールに一任すると。
そんなやりとりなどしている内にすっかりと日が暮れてしまっていた。
諸々の対応が片付いたあと、俺たちはアンフェールの部屋へと帰ってきていた。
『取り敢えず、風呂、入ってこい。……気持ち悪いだろ、体』
相変わらずぶっきらぼうな物言いではあるがアンフェールなりに俺のことを気遣ってくれたのだろう。アンフェールだって業務外の対応で疲れてるだろうに、と咄嗟に「一緒に入るということもできるけど」と言い掛けて、やめた。
それから言われるがまま押し付けられた手拭いと着替えを抱えて浴室へとやってきたが。
「……」
なんだか、未だ夢を見ているような気分だった。
トクトクと脈打つ心臓を抑え、俺は着ていたシャツに手を掛けた。別に抱かれるわけではない、項を噛まれるだけだと考えたらまだ気は楽になるだろうと思ったがそんなことはなかった。
ハルベル以外は知らない。
今夜、俺とアンフェールは番になれるのだ。
そう思うとなんだか悪いことをしているような罪悪感、後ろめたさ――そして、それ以上の高揚感に胸が高鳴った。
せめて、首元は念入りに洗わなければ。そう、首輪に手を掛けながら壁にかかった鏡を覗き込んだときだった。
「……ッ」
本来ならば金髪の青年が映るべきそこに卯子酉丁酉の顔が映り込み、息が停まりそうになる。
けれど、それはほんの一瞬のことだった。瞬きをした次の瞬間には見慣れたリシェスの顔があった。驚愕したまま、青褪めたリシェスの顔が。
――惑わされるな。全部夢なのだ。
そう自分に言い聞かせ、俺は首輪を外した。
体を念入りに洗って浴室を出たあと、アンフェールが風呂に入ることになった。
アンフェールが風呂を出てくるまでの間、俺は緊張のあまり何度もベッドの上、無意味に足を崩したり正したりを繰り返していた。
アンフェールも俺を待っている間こんな気持ちだったのだろうか。そんなことを考えながら。
首元を締め付けるものがなくなったせいかなんだか心許なく、つい首筋に触れてしまう。念入りに洗いすぎたあまり擦れてしまったようだ、触れると少しだけぴりっと痛みが走った。
こういうとき、ハルベルからもらった香油を使うのだろうか。部屋に取りに行こうかと迷ったが、流石に諦める。
そして一人考え事していたとき、遠くから浴室の扉が開くのが聞こえた。ぴくりと姿勢を正したとき、寝室の扉が開く。
「……」
「ぁ……アンフェール」
「……喉、乾いてないか」
「え? いや、大丈夫だ」
「…………そうか」
「……」
なんだ、この妙な間は。もしかしてアンフェールも緊張してるのだろうか。
風呂上がり、湯気立つアンフェールはそのまま少しだけ扉の前に佇み、それから俺の座っていたベッドまでやってくる。そのまま少し離れたところに腰をかけるアンフェール。
「アンフェール、まだ髪が濡れてるぞ」
「……知ってる」
「ちゃんと拭いた方がいい。風邪でも引いたら……」
そう、使っていない手拭いを探してアンフェールに渡そうとしたとき、伸びてきた手に手首を掴まれる。そして掴まれた手首から焼けるようなアンフェールの体温が流れ込んできた。
「っ、アンフェール……」
「夢じゃないんだな」
「え?」
「風呂から出たら、お前もいなくなってるんじゃないかと思った」
「……それで、急いで風呂から出てきたのか?」
まさか、と恐る恐る尋ねれば、アンフェールはばつが悪そうに視線を逸らす。風呂上がりのせいかは知らないが、耳のふちが赤くなってるのを見て胸の奥がまた痛くなる。
ああ、これは。この感覚は――。
「……笑いたきゃ笑えよ」
「笑わない。……笑うわけ無いだろ」
俺だって似たようなものだ、とつられて口元が綻ぶ。先程までの不安なんてどっかいったみたいに愛おしさの方が強くなっていた。
堪らずそっとアンフェールの頬に触れれば、アンフェールは俺の手を避けなかった。くすぐったそうに、目を細める。
「正直、俺も戸惑っている」
「こんなこと、今までなかった」とアンフェールは小さく続ける。それは照れ隠しとはまた違うニュアンスに聞こえ、「どういうことだ」と思わず聞き返したとき、アンフェールの手が俺の首筋を撫でた。
普段首輪で隠されていたその部分を優しく撫でられる。その感触はほんの少しの力で破けてしまうような薄い膜を触れられている感覚に近い。それなのに、他の奴らに感じた恐怖や不快感はない。
「間違ったことをしている。やってはいけないことをしてる。――頭ん中ではわかってるのに、止めることができない」
「っ、アンフェール……」
「もし、お前が俺以外の他の男が好きだと言い出しても……全部手遅れになるんだぞ」
太い筋を撫でるアンフェールの指。あまりにも的はずれなことを言い出すアンフェールに思わず目を開いた。
「なに言って……っ、俺はアンフェールの婚約者だぞ、他に好きなやつなんてできるわけないだろ」
そう我慢できずアンフェールの手首を掴んだとき、アンフェールはハッとしたように目を開いた。そして、「そうだな」と呟いた。
「何を言ってるんだ、俺は。お前には俺以外には選択肢がないんだよな」
まるで言い聞かせるように口にするアンフェールの言葉に胸の奥がざわつく。
アンフェールに首筋を噛まれることになるのは今回が初めてのはずなのに、アンフェールの言葉が頭の中、鼓膜に焼き付いたように離れない。
――もし、お前が俺以外の他の男が好きだと言い出しても……全部手遅れになるんだぞ。
――お前には俺以外には『選択肢』がないんだよな。
風呂に入ったばかりの全身に汗が滲む。
そんな、はずはない。ないはずなのに。
頭の中、体験したことのないはずの記憶が溢れ出す。
リシェスの記憶ではない――卯子酉丁酉の記憶だ。
卯子酉丁酉は大学構内の階段から突き落とされて死んだ。そして、所謂天界なる場所へと魂だけ連れて行かれ、哀れんだ自称女神にとある能力を授けられることになる。
『死ぬ一ヶ月前にセーブポイントを作れる能力』
そんな能力を手にしてやってきたゲームの世界で、俺が一番最初に出会ったのは巨大な魔獣だった。
そう、アルバネード戦記と同じ展開だ。それでも初めて現れた魔獣に情けなく腰を抜かし、悲鳴をあげる俺の前に現れた人影を思い出す。
――アンフェールは、俺がこの世界にきたときに初めて出会った攻略キャラクターだった。
アンリではない、そこにいたのは卯子酉丁酉――俺だった。
アンリがいた場所にも、どのスチルにもアンリがいた場所には俺がいた。
なのに、気付けば俺がいるはずのそこにはアンリで上書きされていたのだ。
「……リシェス?」
「……え?」
「どうした、酷い顔色だぞ」
呼びかけられ、現実に引き戻された。
こちらを覗き込むアンフェールに、ドクドクと更に脈は激しくなる。
「い、や……大丈夫だ、続けてくれ」
汗が止まらない。
なんだ、これは。なんだこれは。雑音が消え失せ、クリアになった頭の中――浮かび上がる明らかな異物の存在に気が遠くなりそうだった。
俺が思い出した卯子酉丁酉の記憶の中には、八代杏璃なんてキャラクターは存在しなかった。
「本当に大丈夫なのか」
「ああ、大丈夫だ。だから、早く……」
「……分かった」
ドクドクと脈が乱れる。我慢できず、俺は自分の指を噛んだ。背後に回るアンフェールの存在に、気配に、恐ろしいほど静かな頭の中と比例して鳴り響く鼓動にどうにかなりそうだった。
柔らかくベッドに押し倒され、背後から覆いかぶさってくるアンフェールに肩を押さえつけられる。
首筋に当たる髪の感触にこそばゆさを覚えたのも束の間、アンフェールの歯が項に食い込んだ。
瞬間、心臓から押し出される血液がマグマのように熱を持って全身に駆け巡る。
「っ、ぅ、ぐ……ッ!」
強く、強く、痛みで塗り替えられていく。これは幸福な痛みのはずなのに。
シーツに爪を立て、深く首筋に埋まっていく歯の感触に堪らず奥歯を食いしばる。
アンリに噛まれたときの記憶が蘇りそうになるのを振り払い、俺は肩を掴むアンフェールの腕へと指を伸ばした。
全身に負荷が掛かる。無意識に痛みで強張っていた体を押さえつけられたまま、気付けばアンフェールは俺の項から唇を離していた。
血が出ているのか、噛まれた直後の項に鋭い痛みが走る。同時に、じわりと広がる熱は時間が経つに連れて次第に波が引いていく。
「っ、は……」
終わった、のだろうか。先程までの恐ろしいほどの感情の昂りが嘘のようだった。
痛みで滲んだ視界の中、項を舐められビクリと体が震える。
「ぁ、アンフェール……」
「悪い、痛かったか」
「いや、大丈夫だ」
「気分は」
「……わからない」
正確には、言語化した際に必要な言葉が咄嗟に出てこないというべきか。
それでも、明確にアンリと噛まれたときとは違う。胸の奥のモヤが薄くなっていき、呼吸も落ち着いていく。
体を起こし、唇を血で濡らしたアンフェールを見据える。
アンフェールに対するこの感情がリシェスのものなのか、卯子酉丁酉のものなのか、俺にはもう判断つかなかった。
それでも、目の前の男に噛んでもらったことに安堵と喜びを覚えるこの感情に嘘偽りはないはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はアンフェールにそっとキスをした。
――アンフェールの自室・寝室。
隣で眠るアンフェールの寝息を聞きながら、俺は項にそっと触れた。簡単な手当をしてもらったそこにはまだアンフェールの唇の感触が残っているようだった。
そして、その痛みからかより鋭く鋭利になっていく全身の神経。時間が経つに連れ、とめどなく溢れかえっていた記憶は整頓されつつあった。
「……」
卯子酉丁酉は、アンフェールの恋人だった。
紆余曲折ありながらもハッピーエンドを迎えたあと、なぜだかその直後の記憶がない。そして、次に目覚めたときはあのリシェスの婚約破棄の現場だった。
リシェスとはもちろん面識があった。リシェスとアンフェールを別れさせた記憶もある。
あのときのリシェスが俺を見る目も、ずっと覚えている。
この体には今、リシェスと卯子酉丁酉二人分の記憶がある。問題は、何故そんなことになっているのかということだった。
卯子酉丁酉の記憶が取り戻せたところで根本的にはなにも解決していない。
――けれど、間違いなくあの男が関わっていることには違いない。
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