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「空輝先生を呼んできてよかった。休憩中だったのに、すいません」
「いいえー。それが仕事ですから」
この病院の患者は余すことなく把握していたい。
いつか再会できるかもしれないたった一人かもしれない。
「医局に戻りますので、また何かあれば呼んでくださいねー」
また別人だった。
僕の探すたった一人に出会えるのはいつだろう。
ひなたと出会って、いくつか季節が過ぎた。
いつもの時間にほんの少し寒さが混じり始めた頃、その日のひなたの顔はいつもと少し違って見えた。
ひなたはきっと僕に伝えたいことがあるんだ。
いつもと違う顔に、雰囲気に、ため息混じりのその口調に、鈍い僕だってわかる。
ひなたから告げてもらえるその言葉を、卑怯な僕は気づかないフリして待った。
僕だって伝えたいことがあったはずなのに。
それは今日じゃなくても良いだろうって、明日も会えるからって、一向に決心がつかなくて先延ばしにする。
あの日、僕から告げていれば何か変わっていたのかな。
もう取り戻せない瞬間。巻き戻せない時間。
卑怯者だった僕が受け取るしかない罰。
ひなたが告げてくれる言葉は、きっと僕と同じだろうと、見当違いの期待をしていたバカな男。
「私、引っ越すんだ。空輝ともう会えなくなっちゃう。もし、また会えるなら、ここに会いに来るね」
ひなたから告げられた言葉は、僕の思いとは似ても似つかぬモノだった。
ひなたの声に、以前よりずっと悪くなった顔色に、今ならあの言葉が嘘だってわかる。
でも、ひなたの言葉を受け入れるしかない。
それが僕らの間の、無言の約束。
ひなたからの告白。
それは僕に告げた白々しい嘘。
今でも僕の心の中に大きな楔を打ち込んで、今日もひなたのことを待つよ。
どこにいるかもわからない、ひなたとのたった一つの約束。
午後4時、この木の下で。
ひなたと会った木の下は、今僕が勤務する病院の裏側だ。
あの時よりも、背が伸びた木。
しわが見え始めた顔。
木に登って見える景色も、どんどん移り変わって。
ひなたとの約束のために、今日も僕は木に登る。
ひなたはこの病院の患者だった。
あの日、別の病院に転院したことが古いカルテに記載されていた。
転院先にひなたを問い合わせることはしない。
ひなたの裏側を探るのは僕らの間に許されたことじゃない。
木の葉の間から見える空は、初めて会ったあの日と同じ色。
変わらないものだけを見ながら、僕も変わらずに木に登る。
変わらない午後五時のチャイムを聞いて、いつものように木から飛び降りた。
「きゃっ」
ヤバい! 人がいた!
「ごめん! 驚かせた……よね?」
「うん。空輝、相変わらずだね」
思い出の中のどんな女の子よりも可愛くて、少し影のある笑顔が、僕に向けられた。
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