前書き

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 頼子が臨月に入ると、誠二は寄り道をせずに、真っすぐ家へと帰る様になった。いつも十九時には、名古屋駅の公衆電話から、家へと帰宅の知らせの電話をしている。頼子は毎晩、電話が待ち遠しかった。  理子はお腹をよく蹴り、順調に進んでいた。進んでいた、筈だった。予期せぬ事は、突然訪れる。  夕方、夕食を作っている時の事だ。突然お腹に激痛が走ったかと思えば、股の間から、大量の血が流れ出て来た。痛みと大量の出血から、頼子はその場に倒れこんでしまう。意識を失いそうになるが、お腹の痛みで目が覚める。 「ああああああああ‼」  激痛で悲鳴が上がる。と同時に、蜜が開き、お腹の中からずるずると、血と一緒に理子も流れ出て来た。 「ああああああああ‼」  再び悲鳴が上がる。同時に、理子もお腹の中からぬるりと出て来る。  完全に理子がお腹の外へと出た時、理子の体はぐったりとしていた。産声も上げない。死産だった。  息を苦しそうに切らせながら、泣かない子を、頼子は抱き上げた。まだへその緒も繋がっている。頼子の手は小刻みに震えていた。涙が零れ落ち、血と混ざる。何が起きたのか、すぐに理解する事が出来た。頼子は死んだ子を産み、抱きかかえている。床は一面血の海になっていた。 「理子…理子…。」  消えそうな声で、何度も名前を呼ぶ。受け入れられない。こんな事は、受け入れられない。もうすぐ誠二も帰って来る。帰って来た時、この光景を見て、どう思うだろうか。ショックを受けるに決まっている。何より、自分の子供が死に、受け入れられないだろう。今の頼子と同じ様に。  頼子はすぐに、大神様の事を思い出した。そして岸野が言っていた言葉。『流産したら、大神様に捧げな。同じ子を授かるよ』頭の中を、その言葉がぐるぐると廻る。 「そうだ…大神様…。」  頼子はゆっくりと、立ち上がった。  台所にあった調理用ハサミで、へその緒を切ると、理子を大きなタオルに包んだ。優しくリビングのソファーに寝かせると、頼子はシャワーを浴び、着替える。血の付いた服はゴミ箱に捨てた。  車の鍵を手にすると、理子の死体を抱き、家を出た。外はもう真っ暗だった。車の後部座席に理子を置くと、自分も車に乗り込み、発進させ、お寺へと向かった。自分でも驚く程、冷静だった。そして何より、死産をしたばかりの体にも関わらず、何故か容易く動けたのだ。だが今の頼子は、そんな事は気にも留めなかった。  午後十九時、自宅の電話が鳴る。きっと誠二からだ。頼子はふらつきながらも、受話器を取った。 「もしもし…。」  生気の無い声で言う。受話器越しからは、元気そうな誠二の声が聞こえ来た。 「今から帰るよ。」 「そう…分かったわ…。」  呟く様に言う。元気の無い頼子の声に、誠二は心配そうに聞いた。 「大丈夫か?何だか元気が無いが、何かあったのか?」 「帰ったら話すわ。」  そう言って、頼子は電話を切った。  電話を切った頼子は、ふらつきながら、台所へと向かう。台所へと行くと、床に座り込み、雑巾で血塗られた床を、掃除し始めた。バケツの中の水は、真っ赤に染まっている。そこに理子の姿は無かった。  血で汚れた床が、大分綺麗になってきた頃、インターホンが鳴った。誠二が帰って来たのだ。頼子は真っ赤に染まった雑巾を握り締めたまま、玄関へと向かうと、玄関の鍵を開けた。  玄関のドアが開くと、誠二は息を軽く切らせながら、入って来る。バス停から走って来たらしい。 「頼子、どうした?」  死人の様に立ち尽くす頼子の姿を見て、誠二は驚いた。 「頼子?」  何より、大きかった筈のお腹が、ぺったんこにへこんでしまっている事に気付くと、目を剝いてしまう。 「おい‼そのお腹…どうしたんだ?何があったんだ?」  誠二は頼子のお腹に手を置いた。中身が無くなっている。ふと頼子の右手を見ると、血塗られた雑巾を、握り締めていた。 「頼子…お前まさか…。」  誠二は恐る恐る頼子の顔を見ると、頼子は無表情で、言って来た。 「誠ちゃん…子供が産まれました。…死産でした…。」 「なっ!…死産…!?」  誠二は驚いた。と同時に、一瞬頭の中が真っ白になる。 「死産…。」  信じられなかった。あれだけ順調に行っていたにも関わらず、死産だなんて。ショックを隠し切れない誠二は、その場に座り込んでしまう。  頼子はそっと誠二の体を抱きしめると、耳元で囁く様に言った。 「大丈夫よ。大神様に…捧げたから。」  頼子の言葉に、誠二はハッと我に返り、顔を上げた。 「大神様?何の事だ?そうだ‼遺体は?遺体はどこだ?病院には行ったのか?」  頼子の体を心配し始めると、体の隅々まで手で摩りながら見た。死産した後だ、きっと母体にも大きなダメージを負っているに違いない。だが頼子は、平然とした様子で、にこりと笑った。 「夕食にするわね。」  突拍子も無い言葉に、誠二は唖然としてしまう。 「お前は…何を言っているんだ?死産したんだぞ、病院へ行って、診て貰わないと。それに、遺体の供養だってある。」  頼子は再び無表情になると、誠二の顔をじっと見つめた。 「だから、大神様に捧げたから、大丈夫だって言っているでしょう。」 「大神様?お前…何をしたんだ?」  恐る恐る誠二が聞くと、頼子は嬉しそうに話し始めた。 「大神様はね、子の神様なのよ。前にも言ったでしょ。流産したら、大神様に捧げれば、同じ子を宿させてくれるのよ。だから理子の遺体は大神様に捧げたのよ。」 「な…何を馬鹿な事を‼そんな迷信を信じたのか?遺体放棄だぞ‼立派な犯罪だ‼何を考えているんだ‼」  誠二は叫ぶように言った。 「死産でショックなのは分かる‼だからと言って、そんな馬鹿げた迷信を信じて実行するだ何て‼どうかしてるぞ‼」  必死に言い聞かせる様に言ったが、頼子の態度は変わらない。 「智子ちゃんもね、大神様に祈って、子供が出来たのよ。岸野のおばあちゃんもそう。大神様の力は、本物なのよ。」  まるで何かに憑りつかれているかの様子だった。非常識な頼子の行動に、誠二は困惑してしまう。神頼みだ何て。しかも、捧げるだと?余りにも馬鹿げた話に、誠二は怒りを露わにした。 「理子の遺体を回収しに行くぞ‼その寺はどこにある?案内しろ‼」  誠二は頼子の手を引っ張ると、車の鍵を持って、そのまま玄関を出た。半ば無理矢理頼子を車に乗せると、車を発進させた。  頼子の案内で、誠二は車を走らせる。辺りは街灯があるにしても、暗く、細見に近づくにつれ、周りは一層暗闇に包まれた。  竹林が風に揺られる。何だかお化けでも出て来そうな、不気味な雰囲気だった。そんな中、車を走らせていると、お寺の入り口に到着をする。車を止め、二人して降りる。周りは真っ暗だった。足元は砂利道で、気を付けて歩かないと転んでしまいそうになる。唯一の灯りは、寺の隣にある住居の灯りくらいだった。  頼子に案内をされ、大神様の前まで来た誠二は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。女性地蔵が、子地蔵を三人側得させている、意外と大きなお地蔵さんだった。 「理子はどこだ?」  誠二が聞くと、頼子は驚いた様子で言った。 「いないわ…。いない…。」 「いないだと?ここに置いたんじゃないのか?  頼子は驚きながらも、嬉しそうに言う。 「いない…きっと大神様が受け取ってくれたのよ。」 「何?本当に、ここに置いたのか?」 「本当よ‼緑色のタオルに包んで、大神様の足元に置いたの。でも…いない…。本当なのね、大神様の話は、本当なのね‼」 「そんな馬鹿な‼」  喜ぶ頼子だったが、誠二は信じられず、周りを見渡した。 「きっと誰かが、見つけたんだ。そうだ‼ここの住職が見つけたのかもしれない。」  誠二は住職の家を訪ねに行こうとすると、頼子は手を掴み、「駄目よ‼」と強く言い放った。 「住職さんが見つけていたら、とっくに警察に通報しているわ。他の誰かでもそうよ。でも見て、パトカーなんて一台もいない。」 「まぁ…そうだけど…。」  頼子の言う事も分からなくはない。確かに、誰かが発見していたら、警察に通報するだろう。だがその痕跡は、全く無かった。 「だから、これは大神様の仕業なのよ。」  また大神様。大神様ばかりで、誠二は少し、うんざりしてしまう。 「お前、本当にここに置いたのか?別のどこかに…その…捨てたとかじゃないだろうか?」  誠二に言われ、頼子は不機嫌な表情を浮かべる。 「大事な子供を、捨てるですって?そんな事するわけないでしょう。」 「まぁ…。」  誠二は困った様子で、頭を掻きむしった。確かに、捨てる筈が無い。だからと言って、大神様が連れて行く何て馬鹿げた話も、信じられない。一体理子の遺体は、どこへ消えてしまったのか。  その日は仕方なく、家へと帰宅した。次の日の朝のニュースを観てみるが、赤子の遺体が発見されたと言う報道も無く、いつも通りの日々が続いた。誠二は毎朝ニュースをチェックしたが、それらしき報道は、全く無かった。不思議だった。理子の遺体の行方が。何度も寺の周辺へと探しにも行ったが、全く見つからない。住職にそれと無く訪ねてもみたが、何も無いとの事だった。警察に届け出る訳にもいかず、そのまま時ばかりが過ぎる。  一つ不可解な事が起きると、また一つ、不可解な出来事は起こる。頼子が死産をしてから、一週間後の事だ。誠二は朝起きて、台所へと行くと、頼子が朝食を作っていた。違和感がした誠二は、頼子に近づくと、何と頼子のお腹が、膨らんでいたのだ。昨日までぺったんこだった筈の頼子のお腹が、今にもはち切れそうな程に、大きく膨らんでいた。 「臨月よ。」  頼子は嬉しそうに言う。誠二は目を疑った。あり得ない。何故ならあれから、頼子とは体の関係を持っていなかった。持っていたとしても、一日でこんなにお腹が大きくなる事等、あり得ない。 「どう言う事だ…。」  信じ難い光景に、目を疑う誠二。だが頼子は、嬉しそうにお腹を摩る。 「大神様から授かったのよ。」  また大神様。誠二はうんざりする。きっと想像妊娠だ。想像妊娠でも、実際にお腹は大きくなると言う。中は空っぽに違いない。そう思った誠二は、その日は仕事を休み、頼子を産婦人科へと連れて行った。  病院でエコーを撮ると、更に信じ難い光景を目にする。頼子のお腹の中には、確かに赤ん坊が居たのだ。間違いなく、妊娠をしている。 「臨月ですよ、もうすぐ産まれますね。」  医者に言われ、誠二の足は竦み、その場に尻もちを付いた。  果たして産まれて来る子供は、本当に理子なのだろうか。自分の子供に、間違いは無いのだろうか。様々な事が、頭の中を過る。だが、考えていても、時は過ぎ、日々は過ぎる。頼子はお腹の中に宿した、不可解な赤ん坊を、出産したのだ。  赤ん坊は、女の子だった。『理子』と、名付けられた。大声で泣く理子を、頼子は嬉しそうに抱き締める。だが誠二は、不気味で仕方なかった。
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