鳩羽色の校舎の壁

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鳩羽色の校舎の壁

 ぼくはここで渾身の、『鳩が豆鉄砲を食ったよう』な顔をしてみせた。  準備していたわけじゃない。それが最適解だと言わんばかりに天から降りてきたのだ。小学生のお子さんを連れたママが目の前を通ったなら、「ほらごらんなさい。あれが鳩が豆鉄砲を食ったような顔よ」と我が子に言い聞かせたくなるくらいに、お手本的な豆鉄砲を食った鳩の顔だった。鏡を見ずとも見事に表現できていると直感していた。  ぼくは「杉浦美咲」に告白され驚いたんだ。自分の「驚き」をそのまま表現したまでだ。何万回と観た漫画やテレビドラマにはこんなケースは一つもなかった。この瞬間、ぼくはぼくでしかなく、同時にぼくではなくなった。  のだ。二月の二度目の水曜日、夕暮れせまる下校時刻の学校で、ぼくは誰よりも鳩だった。  やがて、「杉浦美咲」に告白されたことは全校生徒に知られる。男子全員と数パーセントの女子を敵に回すのだ。ぼくは豆鉄砲を持った大勢の男子と少数の女子から追いかけられる運命の、その岐路に立たされてるんだ。  ふと、気づくと校舎のコンクリートの壁が鳩羽色に見えた。ふだん見慣れた灰色に、薄い青紫色が差し色となって強調されている。壁が「壁」を凌駕して何かを強く訴えかけている。そうか。校舎の壁に溶け込むように無数の鳩がいるんだ。鳩羽色の校舎の壁が、形なき鳩たちによって蠢いて見える。鳩たちはぼくを応援しにきてくれたのだろうか。 「プッ、な、なに? その顔?」  彼女は思わず吹き出して、笑いをこらえながらそう言った。こらえられてはないけれど。 「『鳩が豆鉄砲を食ったよう』な顔だよ」  ぼくはぶっきらぼうにそう言った。鳩になったぼくは強気だった。鳩たちの応援も力になっていた。 「驚いたときにはこの顔になるにきまってるだろ」  彼女に笑われたことで少し苛立ってもいた。 「ほんと、鳩みたい」 「ほんとの、鳩だよ」  緊張感はいつやらどこかに飛んでしまっていた。校舎の壁はいつもの灰色に戻っていた。  それもこれも鳩たちのおかげだろうか。気まずさを感じることのない、穏やかな沈黙がそこにはあった。沈黙はベッドを模したような「空白」だった。そのベッドはあまりにも寝心地が良さそうで、今すぐ飛び込んで朝までぐっすり眠りたい気持ちにもなった。  やわらかい風が吹いて、空白を具象化したベッドが撤去されたあとに、彼女のくちびるがゆっくりとサヤエンドウみたいにカーブした。 「意外なんだけど…。ハハッ、こんなにおもしろい人だったっけ?」  彼女はそのあともしばらく笑っていた。笑っちゃダメなんだろうけど、どうしても我慢できないという。まるで不可抗力とでも言いたげな笑い方だった。でも同時に彼女の「笑っちゃダメ」という、申し訳なさを感じ取ることができ、ぼくの苛立ちはぱたぱたと羽音を立てて飛んでった。何にせよその間も、ぼくは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をつづけていたのだから、彼女を責められない。原因はぼくにあるのだ。  ひとしきり笑ったあとで、彼女はショートボブの髪を両手で撫でながら、何度か深呼吸して髪と息を整えた。再び空白のベッドが登場する間もなく彼女が口を開いた。 「返事は…? もらえるのかな?」  あまいささやき。透きとおる声。その声はぼくだけを目指して吹いてくる風のように、加速度をつけまっすぐと胸のあたりを吹き抜けた。一瞬だった。風上にいる彼女のショートボブは風に揺れることなく、美容室帰りのようにキレイに整っていた。  ぼくはすかさず、「杉浦さんに好きだと言ってもらえるなんて、僥倖としか言いようがない」と返した。相方ゆずりの『僥倖としか言いようがない』をここぞとばかりに使った。  今度は彼女が『鳩が豆鉄砲を食ったよう』な顔をする番だった。 「岩崎くんのやつ…」と小声でつぶやいて、彼女はまた我慢しきれずに笑った。  ぼくは思う。  彼女のその笑顔は、退屈な水曜日にはもったいない。ぼくが独り占めしてるのだってもったいないさ。  柑橘系の果汁がはじけるみたいに笑う「杉浦美咲」を眺めながら、ぼくは可笑しなことにガンちゃんのことを考えていた。  ガンちゃんがよく言うように、「杉浦美咲」と付き合いたいという気持ちは、ぼくにはない。そもそも「杉浦美咲」のことが好きなのかもわからない。ただはっきり言えるのは、クラスメイトらを敵に回してまで彼女と付き合う覚悟はない。それはそれとして、ありがとうガンちゃん。さっき咄嗟に彼女に「僥倖としか言いようがない」と返せたのは、その瞬間にガンちゃんの顔が浮かんだからだ。  はるか上空。空に雲は見当たらない。それなのに快晴とは言い難い曇り空がこれみよがしに広がっている。  そんな曇り空の主義主張など露知らず、ある人はそれを何の疑いもなく「晴れ」と言ったり、ある人は折り畳み傘がバッグに入っているか気になったりするんだ。ねぇ、そうだろう。  空を見上げてるぼくを不思議そうに見る彼女の視線に気づき、試しに「いい天気だね」と投げてみた。  もしも「杉浦美咲」が、ぼくが思ったとおりの返しをしたなら、彼女と付き合うことにしようと決めた。何手か先を読むことなんてできるはずもない。次の一手すら浮かばないぼくは、大胆にも相手まかせの賭けに出てみた。試合をわけじゃない。むしろ次に駒を進めるイメージが浮かんでたんだ。天から降りてきた最適解、再び。  ぼくは空を見上げながら、彼女の一手を待った。  どっちに転んでもいいと思えた。  水曜日も笑ってた。  〈おしまい〉
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